会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

 令和2年10月の聖寛の独り言

2020-10-22 14:46:56 | オピニオン

 

   (晩秋の会津天王寺境内)

 世の中目まぐるしく動いていますが、一番気になるのが東日本大震災の復興です。浜通りや中通りには、未だに生々しい傷跡が残っています。令和2年9月9日の時点でも、県外に29516人が避難しています。東京電力福島第一原発事故をめぐっては、東電と国は処理水の海洋放出が決断するようですが、風評被害の対策には万全を期してもらわなくてはなりません。会津も含めて、福島県全体にマイナスの影響が出ないように望みます。
 新型コロナウイルスの感染拡大も、福島県の経済を直撃しています。私はSNSやズームなどを活用して、リモートに徹するようにしていますが、新しい生活様式が求められる時代になってきました。国もデジタル化を推進していますが、早急に整備する必要があると思います。当然の如くサイバー攻撃を阻止する技術の開発にも力を入れるべきです。日本の将来を決定する量子コンピュータ―のプロジェクトは、世界一を目指すべきです。
 経済対策も第二弾第三弾が待望されており、何かしら手を打たなければ、地域経済が崩壊することは誰の目にも明らかです。とくに観光で成り立っている会津は深刻です。景気が良くならなければ、人々の顔も明るくなりません。一僧侶の私は祈るしかありませんが、政治家の皆さんにもっと頑張ってもらわないと。

        合掌


天王寺境内の「ブスの実」を焼酎に漬けました 柴田聖寛

2020-10-15 06:24:24 | 境内の花

野葡萄に小鳥群がる小春かな 寺田虎彦

 会津では「ブスの実」と呼ばれている野葡萄に、小鳥が集まってきているという初冬の情景を句にしたものです。熟すとブス色(紫色)になることから名付けられたといわれています。鳥が好むことから「烏葡萄」という呼び方もあります。
 今回初めて私は、天王寺境内の「ブスの実」を焼酎に漬けました。「ブスの実」そのものは、タンニンが強く苦くて食べ物としては適しませんが、民間療法の世界では免疫力アップに効果があるといわれており、ネットでも販売されています。
 天王寺には、尾長鳥の小型の鳥がどこからともなく飛んできて、「ブスの実」をぷっと吐き出したものが、いつの間にか成長して実を付けるまでになったのでした。会津のお薬師信仰は天台宗が広めたと伝えられています。昔の寺院は病院のような役割も果たしていたのですが、それを知っているかのように、小鳥が種を運んできてくれたのです。

       合掌


伝教大師伝③比叡山寺落慶式に天皇のご行幸仰ぐ 柴田聖寛

2020-09-30 09:21:07 | 天台宗

 

 

 

 

 

  天台宗 祖師先徳鑽仰大法会事務局発行のカタログより 今も明かりを絶やさない比叡山の法灯

 伝教大師様が並々ならぬ決意を持って比叡山を修行の場としたことは、ご自分が著された『願文』によっても明らかです。そして、伝教大師様は「一切経」を揃えることに力を注がれたのでした。「一切経」とは「経・律・論」の三蔵、さらには、その他の注釈書を含む経典の総称です。お釈迦様の教えと関係のある全ての書物を意味します。
 それを全面的にバックアップしたのが、南都七大寺の一つである大安寺であり、唐から渡ってきて、日本律宗の開祖である鑑真の弟子で、東国で大きな力を持っていた道忠が率いる教団でした。とくに、道忠は伝教大師様の思いを応えるために、自らも大量の仏典を提供したのでした。そのときから両者は協力関係にあったのです。
 比叡山に7千余巻に及ぶ「一切経」が完備されましたが、そこでもっとも重んじられたのが『法華経』でした。入山の時点において、伝教大師様は天台の教学がすぐれていることを理解していたからです。
 そうした伝教大師様の行いは桓武天皇の耳にも達し、拝謁の光栄に浴することになったのです。桓武天皇は堕落した奈良仏教を嫌悪していたこともあり、真実の仏教を追い求める伝教大師様に共感されたのでした。
 桓武天皇は一時都を置いた長岡を離れ、延暦13年(794)に都を京都に遷されました。これと時期を同じくして、伝教大師様がお作りになった三体の仏像を安置する御堂が比叡山に完成し、一乗止観院と名付けられました。
 本尊は薬師如来像で、延暦13年(794)9月には、桓武天皇のご行幸を仰ぎ、比叡山寺の落成式が盛大に執り行われました。そして、桓武天皇からは「鎮護国家の名は叡山にとどまる」との御言葉を賜ったのでした。このときに、ご本尊の薬師如来に灯火がともされ、伝教大師様の和歌「明らけく後の仏のみ世までも光伝えよ法のともしび」が捧げられたのでした。この灯火は現在も根本中堂に光輝いています。伝教大師様が天皇の護持にあたる僧である内供奉に補せられたのは、延暦16年(797)のことです。
  桓武天皇のお墨付きをいただいた伝教大師様は、延暦17年(789)から毎年11月24日、『法華経』を講説する法会を開催しました。それが「法華十講」です。今も比叡山で続いている「霜月会」(しもつきえ)の始まりで、朝廷から勅使が遣わされることになったのです。なぜその日にしたかというと、中国天台宗を開いた智顗大師への報恩の意味を込めて、その命日にしたのでした。
「法華十講」では、『法華経』の前に序説として説かれる『無量義経』1巻、『法華経』8巻、結びとなる要点を述べた『観普賢菩薩行法経』1巻の合計10巻を、講師10人がそれぞれ受け持って講義をしたのでした。
 伝教大師様は延暦20年(801)11月中旬には、南都六宗の(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律)の勝猶、奉基、寵忍、賢玉、光証、観敏、慈誥、安福、玄耀ら講師に招くなどして、法華経を第一とする自らの信仰を再確認することになったのです。このうち奉基は東大寺、玄耀は東大寺三論宗の学僧でした。それ以外の者たちも、南都七大寺である東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺の「英哲」と呼ばれた僧でした。天台の教学を南都6宗の側も無視できなくなったのです。
 そして、仏教理論において南都六宗を圧倒するまでになった伝教大師様は、延暦21年(802)4月15日、和気清麻呂の息子である弘世と真綱の兄弟に頼まれて、平安京の高雄山寺で南都の僧を前にして天台を論じたのでした。「法華十講」で講師を務めた9人以外にも、善議、勤操、修円、歳光、道証の5人が加わりましたが、善議は大安寺三論宗の老大家で、修円は興福寺法相宗の僧でありました。
 南都六宗に代表される奈良仏教内部で法相宗が勢力を拡大したことへの三論宗側の反発。平安遷都による奈良仏教の衰退もあって、天台に対する関心が高まったのです。天皇からの勅使が差し向けられたことへのお礼の言葉として、善議は「七箇の大寺、六宗の学生、昔より未だ聞かざる所、會て未だ見ざる所。三論法相の久年の諍、煥焉として氷釈し、照然として既に明らかなり」と称揚したのでした。
 日本における天台への期待を背に受けて、平安仏教の担い手として時代の主役に一躍躍り出た伝教大師様は、天台をさらに深く学ぶために、天皇の勅命によって、還学生(げんがくしょう)として唐に渡ることになったのです。

        合掌

 

 


『比叡のこころ講座ブックス』で葬儀と戒名を解説 柴田聖寛

2020-09-23 18:18:10 | 天台宗

 

 皆さんは皆さんは仏教について疑問を色々と持っていられると思いますが、天台総合研究センターが出している冊子『比叡のこころ講座ブックス1「道を楽しむ」』をお読みになることをお勧めします。同センターは平成24年4月から京都の仏教大学四条センターで公開講座を開催しており、一冊目の講演録である『道をたのしむ』は平成28年3月にまとめられました。齋藤圓眞同センター長は「はじめに」において「ご担当の吉澤健吉氏(京都産業大学文化学部教授、元京都新聞総合研究所所長)と吉田実盛氏(叡山学院教授)の両研究員の熱心な取り組みに敬意を表する共に、快く会場をご提供下さる仏教大学様に心から御礼を申し上げる次第であります」と書いておられます。
「道をたのしむ」の「葬儀のあり方と戒名」の章では、第2回「比叡のこころ」講座で、吉澤健吉同センター研究員が「現代における葬儀の変容」というテーマで講演された内容と、「お坊さんにここを聞きたい」という題で、吉澤同センター研究員、天台宗大僧正の小林隆彰同センター長、天台宗兵庫教区の真光院御住職、叡山学院教授の吉田実森同センター研究員の3人による座談会でのやり取りが活字になっており、ぜひ皆さんに知ってほしいことばかりです。
 吉澤同研究員は「クリスチャンとして育ちましたが、仏教は大好きで本籍クリスチャン、現住所仏教と言っています」と自己紹介をしながら、近頃葬儀そのものが変わってきていることを問題視し、場所が自宅やお寺から葬儀会館を利用するようになり、「直葬」といって通夜や葬式もしないで斎場で焼いてしまう例が増え、その上散骨ということになれば、お墓もいらなくなってしまうことに言及されています。そうした風潮に対して、伝統仏教としてはどう対応していくべきかを問うたのでした。
 吉田同研究委員は「きょうお話しすることは、多分に地域性があり宗派性もあります。ですから私の言うことのなかで、自分のところで可能かどうかを考えていただき、いいなと思われたら菩提寺やご家庭でご相談していただき、参考になることはしていただけたらと思います」と前置きしながら話をされました。
 お寺との関係については、吉田同研究委員は、事前に葬儀の相談することを提案されています。天台宗では、亡くなってすぐに、臨終行儀としての枕経の念仏を唱えるからです。近親者が「阿弥陀さんのお迎えが来ますから」と耳元で言うのです。まずはお葬式をしますという宣言の式が行われるのです。
 それから葬儀と告別式という段取りになりますが、この二つを区別して、厳粛に執り行われるべきなのが葬儀であると指摘されています。49日にも重要な意味がありまして、私たちの細胞が死に絶えることで、魄(体)から魂が離れていくまでの日数を考慮したのでした。そして、百カ日法要、一周忌法要、三回忌法要と続くのです。
 吉田同研究センター職員は結論として、仏事の意義を説いておられますが、私の考えも一緒です。「仏教は死後の法要がたくさんある。しかも追善法要までしてお布施を巻き上げるのかと思われる人もいるかもしれません。そうではなくて、ご遺族の悲しみのケアも込めて亡くなった方をお送りすることを真摯に考え、そういう法要をつくり上げたという歴史があるということをご認識いただきたいと思います」
 また、なぜ戒名が大事かということに関しては、小林同センター長が分かりやすくお話をされています。「命が終わっても、それが終わりではなく、次がある」のが仏教であることを指摘されています。お経を上げるのも、次に行こうとしているから、励ますためにお釈迦様の教えを送ってあげるわけです。戒名が規則であることも強調されています。「(次の世界)でどんな生き方をしたらいいかという宗教的な目標を持っていただき、亡くなったあとの死後の世界においてもこの名前で供養を続けていくというかたちで戒名は生きていくわけです」
 時代が目まぐるしく変わっていくなかでも、信仰をかたちにした大切なものは守り続けていかなくてはなりません。そのことを理解してもらうことも、天台宗の一僧侶としての私の使命ではないかと思っています。

        合掌

 


「源信撰『阿弥陀経略記』の訳注研究」を読む 柴田聖寛

2020-09-16 16:21:41 | 読書

 源信の著書としては、極楽浄土に関する文章を仏教の経典や論書から集めた『往生要集』が有名ですが、それ以外にも伝教大師と磐梯山麓の慧日寺の僧徳一との間でたたかわされた一三権実論争の一つの帰結として、源信の『一乗要決』は大乗仏教の根本は「一乗真実」と断言したことで知られています。
 ともすれば、源信の功績としては『往生要集』ばかりが話題となり、同じく源信の『阿弥陀経略記』の研究は立ち遅れているといわれています。それだけに、村上明成、吉田慈順編の「源信撰『阿弥陀経略記』の訳注研究」が本年3月10日に出版されたことは、画期的な出来事であったと思います。
 序文において、龍谷大学世界仏教センターの楠淳證基礎研究部門長は「古典籍・大蔵経研究班」の成果として発表されたことを強調するとともに、対象となった「阿弥陀経略記」は「鎌倉・南北朝時代に成立したとされる『東京大学総合図書館所蔵本』を底本とし、『金沢文庫所蔵本』等の四本を対抗本として読解研究を行った」と解説しています。
『解題』を執筆したのは、村上と吉田の両氏で、冒頭で「本書には、無量寿三諦説をはじめ、無縁慈悲釈(無縁慈悲説とも)や六即阿弥陀仏など、『往生要集』には見られない数多くの思想が示されている」ことに着目するとともに、今後の方向性として「源信個人の教理・教学はもとより、叡山浄土教・日本浄土教といった、より幅広い視点からの解明が行わなければならない」と意気込みを語っています。
 源信の『阿弥陀経略記』の序文には『阿弥陀経義記』があまりにも「文章が簡略過ぎて了解し難い」というので、藤将軍という偉い人から、個人的に『阿弥陀経』の解説を頼まれたということが書かれていますから、それで着手することになったのでした。
 天台大師智顗に仮託された『阿弥陀経義記』があったために、「天台の立場から『阿弥陀経』に注釈を施した文献は極めて少ない」という事情もあって、源信の『阿弥陀経略記』をどう読み解くかが、学問的な大きなテーマになっているようです。
 その一方、「解題」では、これまで多くの仏教学者の『阿弥陀経』の研究によって、智顗の『阿弥陀経義記』は「現在では智顗の仮託偽撰書と考えられているが、少なくとも源信自身は、智顗の真撰書として認識していたことが知られる」と断言しています。文中に「大師の深意」「大師の『義記』」といった言葉があるからです。
 しかし、「解題」では、それが「仮託偽撰書」であるかどうかよりも、それを参考にしながら「源信独自の思想を反映・投入」したことを重視したのでした。問われるべきは、源信が思想のそのものであるからです。「解題」のアプローチは、源信の思想的変遷に目を向けます。「『往生要集』の完成が寛和元年(985)であるのに対して、『阿弥陀経略記』は長和3年(1014)の成立であるからです。29年の開きがある。このような観点からも、本当は『往生要集』において結実した源信の浄土思想が、晩年どのように変化していったのかを探究する上で、極めて注目すべき文献である」と位置付けたのです。
 見解が分かれるのは無量寿(阿弥陀)三諦説をめぐってです。小山昌純氏は「『無量寿三諦説』は中国天台諸氏の文献をはじめ、日本天台においても源信以前の諸師の文献には見当たらず」ということから、「源信選『阿弥陀経略記』」は「源信が晩年になって発揮した独特の思想と考えられる」と解釈をしたのでした。
 これに対して「解題」では、小山氏が述べているような「智顗説灌頂記『摩訶止観』巻一下」の「一念の心は即ち如来蔵の理なり。如の故に即空、蔵の故に即加、理の故に即中なり。三智は一心の中に具して不思議なり」と、源信の『阿弥陀経略記』の「無とは即空、量とは即加、寿とは即中なり。仏とは三智、即ち一心に具するなり」というのがほぼ一致していることは認めつつも、そこに源信に思想的断絶ではなく、『往生要集』から「源信選『阿弥陀経略記』」まで一貫する思想的な流れを看取したのでした。
 その「解題」の立場は「対象を限定しない、無条件の慈しみは」を意味する無縁慈悲は、『往生要集』では「二には縁理の四弘なり。是れ無縁の慈悲なり」、『阿弥陀経略記』では「無縁の慈を観ぜよ」とそれぞれ説いており、それを根本に据えたのでした。
 私は「解題」の「『阿弥陀経略記』において源信は、阿弥陀の梵語に無量光(無縁慈悲釈)と無量寿(無量三諦説)の二義を担わせ、光寿二無量の観心行と本有己心の六即阿弥陀を結び付ける一大思想を示している」との考え方を支持したいと思います。「対象を限定しない無条件の慈しみ」がなければ、阿弥陀信仰は花開くことはなかったと思うからです。
 私なりに「源信撰『阿弥陀経略記』の訳注研究」を読み終えて、まだまだ学ぶべきことがあるのを痛感しました。勉強のためのノートとしてもブログを活用したいと考えておりますので、何卒よろしくお願いいたします。

                          合掌