会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

金平茂紀さんが大江、鈴木、坂本の三氏の死を悼む 柴田聖寛

2023-06-02 17:46:21 | 読書

 私のところに送って下さる「花園神社社報」の令和五年5月1日号に、よくテレビに出ている金平茂紀さんが「ジャーナリストから見た『ショック・ドクトリン』」(上)を書いています。
 金平さんは「花園神社が好きな場所で、ゴールデン街で飲んで、ここにきて、おしゃべりをして帰る」というのが学生時代からの恒例のようで、それで執筆を引き受けたようです。
 金平さんは、去年暮れにタモリが「徹子の部屋」に出演して、黒柳さんが「来年はどんなとしになりますかね?」と聞かれ、「新しい戦前井なるんじゃないですかね」と言ったことや、かつて忌野清志郎が「本当のことなんか言えない、言えば殺される」(「言論の自由」)と歌っていたことにも触れ、今の時世を嘆いています。
 そして、最近亡くなった大江健三郎、鈴木邦男、坂本龍一への追悼の言葉を述べています。いずれも、私にとっても気になる人たちだっただけに、興味深く読ませてもらいました。
 大江については、作家としてのすばらしさばかりではなく、「最後まで戦後も持っている時代を象徴して自分の作品を勝ち続けてきた人だと思います」と評価しています。
 新右翼と呼ばれた鈴木に関しては、生涯独身であり、清貧という言葉がふさわしいと褒めています。さらに、鈴木が口舌の徒ではなかったことを指摘し、「行動をともなういというか、自分の信じていることについては、自分の信念にしたがって、物事を起こしていく。そういうので長くお付き合いすることになりました」と述懐しています。
 坂本は、それこそ日本を代表するアーティストですが、金平さんは忌野清志郎がこの世を去った時、マスコミは永遠のロックスターともてはやしましたが、生前はまったく無視していたことを坂本が怒っていた点に言及しながら、同じような扱いを坂本が受けていることに憤りを感じたのでした。「原発のこととか、安保法制のこととか、地球温暖化とか、いろんなところで行動していて、音楽家であるにもかかわらず社会的なことについても声を上げていました。そのとき、メディアは黙殺していて、亡くなったから『世界のサカモト』とか、社会のことにも発言していたみたいなことを言う」のが許せないからでしょう。
 テレビではなかなか口できないことを、金平さんが文章にしており、何度も何度も私は読み返してしまいました。3人への弔辞の言葉としてふさわしい文面であったからです。

 

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ひろさちや著『坐らぬ禅』の読後感を語る

2023-05-24 16:03:54 | 読書

 

 天台宗は「円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合し、これを実践する」(『天台宗宗憲』)とい信仰です。このため座禅も重視しています。ひろさちや先生の『坐らぬ禅』を読みまして、禅はどうあるべきかについて、多くの示唆を得ました。
 最後の書下ろしの本ということあり、すぐに購入して一日で読み終わってしまいました。私がその話を若い人にしたところ、ぜひ私の話を聞きたいということになりました。それで昨日は喜多方にまで出向いて、子供が小さいお母さんや、高校生など数人の前で本の感想を述べて、禅とか信仰に関して、色々と話をしました。
 ひろさちや先生の凄いのは「阿保になれ?馬鹿になれ?」と書いていることです。大阪の生まれのせいで、「阿保」という言葉にこだわったのでした。不登校への対処の仕方でも「馬鹿」と「阿保」と違いがあるというのです。「馬鹿」は何とか学校に行くように、カウンセラーに相談したり、時には暴力をふるったりする。それでうまくいくこともありますが、そうでないことの方が多く、最悪の場合は自殺したりします。「阿保」は子供が学校に行きたくないと言えば、自分も会社を休んで付き合い、無理に学校に行かせないというのです。一緒に寄り添って、親子して話し合いをするのです。そうすれば心の対話が成立しますから、突破口が見出せる可能性が高まります。
 そうした考え方のエッセンスがつまっているのは、その本の「まえがき」です。「坐らぬ禅」という言い方をしているからです。「行・住・坐・臥(が)、つまり行く(歩く)も住むも、坐るも臥(ふ)すも、すべてが禅であり、禅でなければなりません」と言い切ったのです。
 禅寺で禅をすることだけが禅ではないというのは、身につまされる意見です。つまり、禅の実践とは、日常的なありふれた生活の中でこそ、試されるからだと思います。立派な禅を組む人であっても、酒の席でとんでもない振る舞いをするのであれば、禅を理解していないことになるからです。
 「阿保」になるために、どうすればよいかということまで触れており、それもまた参考になります。「なんだっていい」と欲望を捨てる。「そのまんまそのまんま」で現状を肯定いながら、そこで生きがいを見つけていくのです  さらに、「禅僧列伝」として、釈尊、菩提達磨、慧可(えか)、六祖慧能、馬祖道一、第珠慧海(だいじゅえかい)、龐居士(ほうこじ)、鳥窠道林(ちょうかどうりん)、南泉普願(なんせんふがん)、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)、法眼文益(ほうげんもんえき)、俱胝(ぐてい)、臨済義玄(りんざいぎげん)、明庵栄西(みょうあんえいさい)、希玄道元(きげんどうげん)、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、鈴木正さん、盤珪永輝琢(ばんけいようたく)、白隠慧鶴(はくいんえかく)、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)、大愚良寛を取り上げています。
 私の知らない人もいますが、ひろさちや先生は、手を抜くことなく、それぞれの禅僧のエッセンスをまとめてくれています。禅といっても様々なアプローチがあり、歴史的な変遷を理解することができます。
 そして、最終章の「終りと始め」で、日常語の「方便」が、便宜的な手段を意味するのではなく、サンスクリット語の「ウパーヤ」の訳語であって、「接近する」との意味であることに言及し、一歩一歩死ぬまで歩み続けることを説いたのでした。「嬉しいときは喜び、悲しいときはしっかり泣くこと」であり、「そのまんま、そのまんま」でいいのです。
 そんなことを私は話しましたが、若い人たちからは「無理せずありのままがいいんですね」とか、「仏教の教えに親近感を覚えるようになりました」と感想をいただきました。今後ともお茶会などに顔を出したいと思っています。

      合掌

 

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『中村元学びと慈愛』は私の宝 柴田聖寛

2023-04-07 20:21:03 | 読書

 

 一天台宗の僧侶である私は、あくまでも信仰者であって、学者ではありませんが、日本の仏教学の泰斗である中村元先生の御本は、できるだけ目を通すようにしています。そんな私にとっては、昨年10月に発刊された『インド哲学者・仏教学者中村元学びと慈愛』をすぐに購入し、隅から隅まで読みました。
 この本は中村元博士生誕110周年と中村元記念館オープン10周年を記念し、常設展示を中心にして、一冊のガイドブックとしてまとめられたものです。写真がふんだんに掲載されており、在りし日の中村元先生の謦咳に接しているかのようです。
 私が感動したのは、中村先生が意訳された仏典の言葉が、風景の写真に散りばめられていることです。とくに印象に残ったのは『ブッダの言葉より』でした。

「慈しみ」

 一切の生きとし生けるものは

 幸福であれ 安静であれ 安楽であれ

 一切の生きとし生けるものは幸であれ

 何びとも他人を欺いてはならない

 たといどこにあっても、

 他人を軽んじてはならない

 互いに他人に苦痛を与える

 ことを望んではならない

 この慈しみの心づかいを

 しっかりと たもて

 その本では中村先生のルーツについても触れています。松江藩に仕えた中村家は、8代目秀年のときに免官となりましたが、島根県内の郡長などを務めました。しかし、跡を継ぐ実子が夭折したために、姪のトモを養女とし、加賀谷喜代治を婿に迎え。そこで生まれたのが中村先生でした。
 秀年の三男の斧三郎は旧制第一高等学校の教授で、数藤家へ養子に入りました。結婚後の喜代治に東京物理学校に進学するように勧めました。そこで喜代治は数学をマスターし、特殊技術者として保険会社に勤務し、数多くの専門書を残しています。
 母のトモは、松江市立高等女学校の第一回卒業生。首席卒業で東京高等女子師範に合格するも、養父に反対されて、松江で高等女学校の教員となる。優秀な家系であったことは明らかです。
 中村先生の経歴についても、大正14年に15歳で東京高等師範学校付属中学に合格し、同4年で第一高等学校分科乙類に入学。昭和8年にそこを卒業し、東京帝国大学文学部印度哲学梵文字科に入学してから、昭和52年に文化勲章、昭和59年に勲一等瑞宝章を授与されるまでのことが、詳しく記述されています。
 さらに、少年期から晩年までの中村元先生の手書きの原稿も収録されており、「書くことで鍛えられた考える力」という特集も組まれています。
 後半部分では、中村先生のその業績を紹介しています。「インド思想を深化、発展させた」「歴史的人物としてゴーダマ・ブツダの姿を浮かび上がらせた」「難解な仏典を、平易でしかも正確な邦訳で、多くの一般読者のみならず専門家に対しても、提供した」「日本における比較思想研究の分野を開拓した」ことなどを指摘しています。  表紙の写真からしても、慈愛に満ちた中村先生の人柄が伝わってきます。ガイドブックであると同時に、中村先生を知る上での貴重な資料が満載されています。

          合掌

           

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叡南祖賢大阿闍梨の功徳を偲ぶ本を読む 柴田聖寛

2023-01-20 16:41:23 | 読書

 以前にもお話したことがありますが、私が天台宗の僧侶になったのは、二本松市杉田の光恩寺の梅津聖豊(香村)御住職の弟子になったのが始まりです。梅津御住職のおかげで、私は比叡山や大原三千院で修行させていたくことができ、その縁で今日の私があるわけです。
 梅津御住職がよく口にされていたのが、叡南祖賢大阿闍梨についての思い出話でした。信仰者としても、人間としても、傑出しておられた、ということを語ってくださいました。梅津御住職もまた叡南祖賢大阿闍梨門下の一人であられたからです。
 それだけに私は『戦後初の北嶺千日回峰行者叡南祖賢大阿闍梨 叡南覺範・村上光田・藤光賢・堀澤祖門が語る「比叡山の快僧」』が本年一月四日に発刊されたので、すぐに読みまさせていただきました。編著は山田恭久師、序は叡南俊照師が担当され、山田修康師が聞き手となられ、叡南覺範師、村上光田師、藤光賢師、堀澤祖門師から思い出話をお伺いして、それを中心にして一冊の本がまとめたのです。
 序で北嶺千日回峰行大行満大阿闍梨・叡南照師は「師の年齢を超えた大僧正たちの証言を通じまして師僧である叡南祖賢大和上の教え、活躍の教え、活躍の様子を時代に伝承しようと試みた比叡出版のオーラルヒストリーであります」と述べられるとともに、「この本に記されている叡南祖賢大和上の足跡をご一読いただくことを契機に天台宗、伝教大師最澄上人、比叡山延暦寺にご関心をおもちいただけますと幸甚に存じます」と書かれています。
 第一章の「和尚はどんなことに対しても判断が適切でした」では、叡南覺範探題大僧正・毘沙門堂門跡前門主(第六十一世)は「私が和尚の門下に入った頃は、『叡山三地獄』の一つといわれる『回峰行』の修行中でしたけど、その後見ていると、三十人もの小僧一人ひとりの資質を見ていましたね」と思い出を語られ、宗教家としてだけでなく、教育者としても卓越していたことが分かります。
 第二章の「これ以上厳しい師はいなかった。だけどあれほど優しい師もいなかった」では、村上光田大僧正・善光寺長臈(ちょうろう)は「あんなに貧しかったけど小僧が何十人もいても一人として僻(ひが)む人はいませんでした。小僧同士で喧嘩をすることはあっても、お互い僻むというのはなかったのです。別にこれと言って教えるわけではないのですよ。我々は師の行動を見て学んだ」と回顧し、「僻む心」が修行をする上でも、仕事をする上でも障害になるということに、気付かされたというのです。
 第三章の「あなたたちのお師匠さんは本当に立派な方なのですね」では、藤光賢探題大僧正・曼珠院門跡前門主(第四十二世)は「和尚は学者であり行者ですから、『拝む時は一生懸命拝め、一生懸命仏様にお仕えせよ』と申していたことを思い出します。学問と行の観佛観想両方をお持ちになっていたまさに教観二門、解行双修の大導師が和尚だと思います。護摩の修法の時にしても、弁天供、聖天供にしても、密教のいわゆる行者と本尊様が一体になっているのが叡南祖賢和尚だと思います」とその功徳を讃えられました。『学者であり行者であり』というのはなかなか難しいことですが、その両方を叡南祖賢大阿闍梨は兼ね備えられておられたのです。

 

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仙台藩が弱かったのは門閥の力が強かったからだ 柴田聖寛

2022-12-31 11:08:27 | 読書

 ー作家の中村彰彦先生—

 東京都新宿の花園神社社務所が発行する「花園神社社報」が月一回送られてきます。私が楽しみにしているのは、作家の中村彰彦先生が書かれる「歴史の坂道」のコラムです。
 令和4年11月1日号には「仙台藩が連戦連敗した『お家の事情』」という一文が掲載されていました。戊辰戦争で仙台伊達藩が連戦連敗した理由として中村先生は、藩主に権力が集中しておらず、「奉行(仙台藩では家老)は一門から宿老まで六十一人に掣肘を加えられる羽目になり、仙台藩政は伊達騒動の起こった江戸時代初期とおなじ多頭政治がつづいていた」ことを指摘されています。そんなことでは「不動心を持った精兵たちは育たない傾向がある」からです。
 いくら仙台藩の図体が奥羽最大の六二万石で、総兵力は一五、六万を誇ったとしても、石高の約四五・四%は門閥が占有し、兵力にしても直臣は三六一二人にとどまり、それ以外は圧倒的に門閥なのです。これでは藩主への忠誠心は直臣に限られてしまい、激動の時代に歴史の舞台に登場しても、脇役すら演じることは難しいのです。
 仙台藩と比べて会津藩は、藩主を中心にした結束がありました。だからこそ、多いときには二〇〇〇人の兵を京都に送ることができたのです。しかし、それは同時に、藩論を決めるにあたって、反対派の意見を封じることにもなり、最終的には悲劇を招くことになったのです。
 仙台藩の場合は、藩内で勤皇派と佐幕派が争い、一時は佐幕派の奉行但木土佐らが主導権を握りましたが、東軍の敗北がほぼ確定すると、門閥を復帰させて西軍との交渉を行ったのです。どちらがよかったというのは結果論ではありますが、中村先生の着眼点はユニークだと思います。
 今年はロシアのウクライナ侵攻など大変な出来事は相次ぎましたが、私にとっては信仰の大事さを確認する年となりました。皆様におかれましては、良い年を迎えられるよう、心より祈念申し上げます。

            合掌

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