セカンドライフ 

歳を重ねるのも悪くはない

静かに・・・今

2010-08-29 | セカンドライフ
自宅から帰り暫くは何をしていいのかもわからず、さりとてパソコンを開く気にもなれず
静かにしていました。
なる様になればいいと・・・・。

私はリタイアしフリーの立場であればこそじっくり、ゆっくりと父との別れが出来た。
父が85歳頃大病をしたり、手術をしたり色々有って姉から電話が来るとびくびくしたものだ。

  余談だが同僚でお父様のお葬儀でも、夜会社に出向いて仕事を処理した女性も居た。 
  普通は考えられない事だが、どうしても女性の処理が終わらないと次に進まない仕事の
  流れで気の毒な事だったと、今も記憶にある。


特に姉からの夜の電話が怖くて普通の用事か区別してと頼んでおいた。
「私よー。何でもないよ―。」と言うのが第一声の習慣になって10年も経ってしまった。

何度熱が出たからと呼び出され最終バスで涙をこぼしながら帰って来た事か・・・
これ程何回も最期を訓練して来たのに、練習と現実は全く違うものだった。

今日「今書いておかないと」と思い、思いついた部分のみをざっと書いてみたが、「有難う」の
言葉が私の中に残り、涙は流しても良い父親で幸せな私だと痛感している。

他人の父親が、どんな人でも関係ない沢山の皆さん、もっともっと辛い思いをされて親御さんとの
お別れを経験されたと言う方も多いかと思います。
自分のブログと言う性質上、数ページに渡り書かせて頂きました事、お許し下さいね。

ここ迄一気に書いて参りました。
明日から又、以前の元気な私に戻れそうな予感がします。
気持ちを表現する場所が有って良かったなーと、今感じて居ります。

沢山カメラに収める景色も有りましたが、一枚も撮る気持ちになれませんでした、と言うか
ブログやカメラの事も殆ど忘れていました。

又元気に日々の記録を残して頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

父の人と、なり④

2010-08-29 | セカンドライフ
父は若い頃から車には親しんでいた。
(と呼んでいた)では昔から、普請(フシン)と言う仲間仕事が有った。
道路は勿論アスファルトでは無く泥んこ道を折々に道普請(ミチブシン)やトンネルまでも
掘ったりしていた。

昔の人達の生活の逞しさを垣間見る事はそこここにあった。
欠かせないのはオート三輪車の運転。トラクターやオート三輪車を運転するには免許証が
必要なのは当然だが、父はバイクの免許しか持っていないのに仲間仕事で車を運転した。

勤めにはバイクを使っていたが、普通車の免許を取る機会が無かったらしい。
兄の娘が遠くの高校へ通う様になり、毎朝6時前の電車で通学する事になった。

父は既に80歳になっていたが孫が可哀そうだと急いで普通免許証を取得する事にしたのだ。
自動車学校に通い始めた頃の父は嬉しそうに学校の勉強の事を話していた。

孫の様な若者の中で1人だけお爺さんの父は大丈夫かな?と心配する私に
「なーに、みんながな、寄って来て大丈夫かい?大丈夫かい?と励ましてくれるんだよ。」とそれはそれは
嬉しそうに過ごしていた。若者達と同じクラスで教えて貰ったり仲良くしたり楽しくて
仕方がなかった様だ。

本試験の時は孫が二人で毎晩「おじちゃん頑張れ頑張れ」「はい、これは答えは何なの?」とつき添って
千葉市の方へ試験を受けに向かったと。

孫娘は「おばちゃん(私)おじいちゃんはね折角頑張ったのに老眼鏡忘れちゃっておっこったんだよ」と
残念そうに言っていた。父も緊張の極みだったのだろう。
二度目に合格をし、3年間無事に朝晩、駅迄孫の送り迎えが出来たと嬉しそうだった父。

その後はリウマチで通院している母を横に乗せ病院通いも楽しんだ。何でも楽しんじゃう人で。

その後デイサービスのお世話になる様になって、母とお風呂に入れて貰う様になり、行事が
ある度にピアノで伴奏したり、絵を描いたり習字を作品にしたりと一番楽しんでいたと
聞く。

ゲートボールは地域ではいつも優勝し他地域にも試合に行ったと聞き、そうか~、
父は父なりの身の丈に合った人生を楽しんで過ごしたのだーと少し安堵する事が出来た。
父が北枕で横になっている時、葬儀場に行かれない、腰の曲がった方や高齢者の皆さんが、
朝早くからお線香を上げに来て下さった。

私が子供の頃の顔と余り変わっていないと、皆さんに声をかけて頂き、父の思い出話を
沢山聞かせて下さった。

いろいろ苦労もあったと思われる父ではあるが、こうして地域の皆さんに愛され親しくして頂き
父の本望だったと思い、幸せな生涯を過ごせたのだと嬉しかった。

100年近く生きた人を語ろうとすると、とても語り切れず、これでもう~んとはしょった一部分の内容
なのだが、語り切れる物ではない事を悟った。
父が恋しくなったら、ブログを読み返して忍んでみよう。

父の人と、なり③

2010-08-29 | セカンドライフ
私は高校卒業と同時に上京をした。当時は当り前の現象だった。
独身の間は随分貧乏な生活だった。今思うと苦痛では無く楽しい毎日だった。
アルバイトは上京して直ぐに働き口を見つけて、部屋の整理が付かない内に働いた。

幸せな事に働く所には事欠かない有難い時代だった。
ピアノの好きな私は、ピアノの月謝を捻出しようと必死だった。
そんな私に父は手紙で励まし続けてくれた。「お米さえ有れば何とかなるだろう」と
お米を買った事が無い程、送り続けてもくれた。

娘が世話になると大家さんさんに迄心付けてくれた。
「学ぶ事には無駄が1つも無いぞ、今しか出来ない事を精一杯やれよ、一番何でも身に付く
年代だから、後悔のない様に」常に応援メッセージを呉れた。

人には誠実に付き合え、見栄を張ったりおごったりする事は無駄な事だ、実直にひたすらに
生きて行けば間違いないぞ・・・とこんな調子で娘の都会生活を見守り応援してくれた。

親とは本当に誰よりも有難い人だ、存在だと思いながら心の支えにして生きて来た私。
父はお金より、人には心が大事だと思っていた人。
私は一生懸命生きても、それでも親不孝をする事もあった。
それでもいつも、優しく「頑張っても駄目な事なんて人生にはいくらでも有るんだぞ、それよりも
この後(アト)をどうして、生きて行くのかが大事な事だ。身体だけには注意しろよ」と娘の健康を
気遣って呉れた。

父に「お父さんは幸せな人生だった?」と尋ねる私に決まって「そうさなーお前達子供が元気な事が一番幸せかな」と。
全く私利私欲の無いひたすら生活を楽しみ会う度に今度は豆腐を作りたい、パンを作りたい
なんて言っていたっけ。

仕事場を定年した時に「お父さん、何かプレゼントしたいんだけど」と言うと特に欲しい物は無い、
と言いながらも、しつこく言うと「じゃ折角だから・・・油絵セットが欲しい」と言ってくれた。
それ迄、水彩やパステル画を楽しんでいたが、その後は油絵を楽しんで呉れた。

棺には描きかけの絵とお習字の紙、大筆・中筆・小筆を、私は選んで父の手の近くに忍ばせた。

心、気持ちの平らな人で寡黙ではあるが一言一言が深く私の心の底まで届く言葉の数々。
娘としては感謝と言う以外お礼の言葉も見つからない。

親孝行は出来なかった私だが、長生きしてくれた父は子供孝行だった。

父の人と、なり②

2010-08-29 | セカンドライフ
後3年生きてくれれば100歳。一世紀の命の金字塔を建てる事が出来た。
家族全員がそう思って疑わなかった。

父は器用貧乏と言うのがぴったり当てはまる様な人だった。
兄は反抗期の頃、そんな父に反抗してか、私に「男って言うのはな、一家の大黒柱なんだ。俺は
父ちゃんの様にはならない」と厳しく言っていた。後に理解できる時が来たらしい。
昔は働けど働けど・・・・の時代だったもの仕方が無いと思った。

元国鉄マンだった兄も、結局今は跡取りとして家督を守っている立場。
父は卓球台を作り農閑期に、家族や近所の人大勢でピンポンを楽しんだり楽しみ上手な人でも有った。

音楽好きでもあった。昔壊れかけのバイオリンを見つけた時は驚きだった。
近所のおじさんが「NHKのど自慢」で民謡を唄う時には仕事の終わった夕暮れ時はいつも
縁側で父が首振りで尺八を奏でおじさんは民謡を毎日毎日お稽古していた。

人に頼まれると何でも「喜んで」と協力していた。
近所の子供達も連れて、山や野原に写生会に連れて言って呉れたり書き初めのお稽古を
したり嬉しそうな顔をしていたのが思い出される。

今と違い、可愛い道具の無い時代なので皆、小さい身体に雑巾バケツを持って出かけた。
楽しい事の少なかった時代、何だか嬉しい遊びをする様な一時だった。
父の教え方は、総じて注意をするのではなく、思い思いに伸び伸びと描かせていた。

兄は中学校の絵画大会で1,300名位の生徒の中から太平洋の荒波を描いたものが特別賞になり
金紙の上に赤い紙が貼ってあったのを思い出す。どんなにか父は嬉しかった事だろう。

で、入賞しなくても「いいんだよ、何でも真剣に取り組む事に価値が有るんだよ」と努力を
たたえてくれた。

年賀状等沢山のハガキが来て脇で見ている私が「この人上手?」と聞くと、「素晴らしい字だなー」
普通の人には「書き慣れているなー」そうでも無い人のは「こうしてな、字と言うのは心を込めて
丁寧に書くのが大事だ」どんな人の物も悪く言う事が無かった。

私が小学生の頃、習字をお清書する時は、「先生に言われた通りに書け」と先生の顔をたて
滅多に口を挟まなかった。
孫達には後ろから一緒に筆を持ち教えたと言うので羨ましかった。

孫達の作品は大抵金賞で学校の代表となっていた。その作品を見ると、どれも佳作に相応しい
素晴らしい文字だった。

たっぷりと筆に墨を吸い上げて白く長い和紙に堂々と自信を持って書かれていた。
名前が特に父の書き方そっくりで涙が止まらなかった。

父の人と、なり①

2010-08-29 | セカンドライフ
父は大正3年12月29日に誕生。
明治生まれの3人姉妹の末っ子の長男として千葉県安房郡健田村に産声をあげた。
長女とは18歳の年齢差だからどれ程まわりに望まれての待望の男の赤ちゃんかと思われる。
端正な奇麗な赤ちゃんだったそうな。
上の3姉妹は末っ子の父を溺愛に近い程、可愛がってくれたそうだ。

仏様のある下段で探し物をしていた時、父のお習字が出て来た。
ひらがなの文字であるが尋常小学校二年と書かれていた。
一文字一文字が今の私でも書けない程、完成度が高く線の奇麗な事に驚いた。

何でも生真面目で几帳面な人だったが、小学校二年で既にその文字を見ると性格が
其の侭出ていた。
子供の頃は、父親の後をついて山や畑に行くが無口の父は殆ど言葉を発する事なく、ただ
言われた事を黙々とこなす男の子だったそうだ。

その性格は亡くなるまで変わらなかったので生まれつきの性分と言うものだと思う。

小中学校ではスポーツも秀でていたそうだ。
高等学校では、剣道、テニスが好きで熱を入れていたそうだ。
そうだ、と記すのは亡くなってから聞いた話が多いからだ。

テニスは県下でも強く東京・神宮大会なる物にも出場する敵の少ない選手だったと。
剣道も相当なもので、孫と同じ高校なので剣道をする彼の話では
「剣道場にね、おじいちゃんの写真が今でも飾ってあるよ」と言っていた。
孫息子が3段4段と合格するたびに目を細めて喜んだと・・・・

私はそんなに活躍した父の話を知らなかったし、自分から自慢する人でも無かったので
全く知らなかった。それでも納得できる気がする。

走るのが早くて、私が子供の頃の運動会では、小学校なのに「部落対抗リレー」と言うのが有り
私が一年生、兄が三年生姉が五年生そしてアンカーが父で2年間家族で楽しく頑張った事は
思い出の一つでも有る。


田舎の長男と言うのはその家(家督)を引き継ぎ、後世に引き渡すと言う「家」制度からすると
大変な存在であり生まれ乍らにして重責を背負わされる。
親から預かった山・畑・田圃・屋敷を生きた形で守って行くと言う重責を担う。

その広さたるや、とても後取り一人では管理しきれない物があり朝食前の一仕事と言う言葉が
物語っている。
陽が昇ると共に起きていた。働き者でのんびりした姿を見た事が無い。

雨や夜は母屋よりも大きい、物置にあった機織り機の様な機械で「むしろ」を作ったり
縄を編んだりしていた。
私は傍で昔話などを聞いたり楽しんだ。