お兄ちゃん日記

2017年9月14日、今日からこのブログでやってみることにします。

現状を受け止めて生きる

2025-03-19 05:03:50 | 日記
現状を受け止めて生きる
 
年齢を重ねるごとに身体のあちらこちらに支障が出てくるのは仕方のない。
しかし人間は素直にそれを受け入れたくないところがある。
どちらかと云うと「病気のせい」と言われる方がまだ楽に思うだろう。
「歳のせい」つまり老化は治る可能性はないからである。
「フレイル」という言葉をご存じだろいうか?
健康と要介護・寝たきりの間を指す。
簡単にいうと「加齢によって心身が老い衰え、社会とのつながりが減少した状態」のことである。
フレイルは3つの要素で構成され、社会性の衰え、心理・精神的な衰え、身体的な衰えである。
この3つの要素は、社会的フレイルによって社会との繋がりが希薄になると、心身の健康状態がドミノ倒しのように一気に悪化するようだ。
人間はとかく欲深く、何かを失うことには心のダメージが大きい。
自らの現状を正面から受け入れ、フレイル状態を進行させないためにも、様々な活動には、積極的に関わることが大切である。
老化などと嘆いても意味はない。
そんな暇があるなら今の自分らしい生活が持続できるよう、頭と身体のトレーニングに励むことである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若く見られるのは嬉しいけれど

2025-03-18 04:49:33 | 日記
若く見られるのは嬉しいけれど

人は他人から「若く見えますね」と言われて悪い気をする人はないだろう。
それは、自分の年齢を意識していることに他ならない。
私のような高齢者になっても、実際より若く見られるのは嬉しいものだ。
「いくつに見えます?」と尋ねる人は大概、自分は実年齢より若いと思っていて、若く見られることを期待して尋ねている。
相手も承知していて思ったより少し若く答える。
しかしそれが実際より上だったりすると、その場の雰囲気は一機に気まずくなってしまう(笑)
これは日本人の特性のようだ。
諸外国では「若く見えますね」と言う言葉は「褒め言葉」としては捕らえてないようだ。
外見について触れることは欧米のような多民族が住む国では失礼になることが多いそうだ。
我々日本人は,何歳になっても「若く見えますね」という「褒め言葉」は今後も、お世辞の意味も含めて使われていくだろう。
ところで、女性に年齢を聞くのは失礼だと言われることがある。
僕は聞かれても全く平気だが、女性同士でも聞かれるのは嫌なんだろうか?
まぁ~個人によって違うから、一概には言えないのかもしれない。
皆さんも「いくつに見えます?」と聞かれら時には、相手の気分を損ねないように注意して答えてください(笑)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「絶対的評価」を持つことで満足感へ繫げる

2025-03-17 05:38:09 | 日記
「絶対的評価」を持つことで満足感へ繫げる

人間が幸せを実感するのは満足感を得た時です。
例えば、スポーツでも学業でも、あるいは業務成績でも自分自身が「やりきった」と思えれば満足感を得られます。
一方、他人との競争の中で満足感が持てたとしても、それは長続きしません。
しかも絶えずライバルと「勝った、負けた」の競争をしていたら心が疲れてしまうだろう。
たとえ一時は勝ったとしても次は抜き返されてしまうかもしれないと思ったら、心が休まりません。
他人と比べて上位に立つことでやっと、自分の価値を実感するというのは、自分で自分を評価できない、自分の脳力を信じられないという「自信のなさ」の表れでもあります。
そこでいっそ「敵は自分自身にあり」と、目標をチェンジすることです。
人と比べるという「相対的評価」は捨てて、自分にとっての喜び、やりがいは何かを考えることです。
そのような「絶対的評価」の基準を持てば、それは達成感、満足感に繋がって行くはずだと僕は思ています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「気晴らし」のススメ

2025-03-16 04:53:17 | 日記
「気晴らし」のススメ

例えば、僕も某SNSに毎日のように画像と一緒に投稿してます。
そして心の何処かで「いいね!」を多く欲しさに、見栄えのいい画像や華やかなシーンをアップすることもあります。
その背景にあるのは「認めて欲しい」「褒めてもらいたい」という承認欲求の心理です。
人間は自分の存在を認めて欲しいという欲求は誰にでもあります。
しかし、それが強すぎると自分で自分が見えなくなって少しでも失敗すると不安に陥ってしまいます。
その不安はひとりでいて何もしてない時に感じることが多く、こころが動揺して不安がはびこる隙ができてしまいます。
でしたら、その「空白」の時間を:をなくせば不安を感じる瞬間も減ってくるはずです。
その為には、何かに夢中することで不安な気持ちを消し去ることができると思います。
「気晴らし」というと軽い感じがすると思うが、僕は「気を晴らす」と考えて自分時間を充実させてます。
要するに何か別のことで頭をいっぱいにすればいいのです。
いわば僕流にいうと「気晴らし」ということかもしれません。
これが心の隙間を埋め不安の解消法となるのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己肯定感といじめ問題は深い繋がりがある

2025-03-15 04:52:55 | 日記
自己肯定感といじめ問題は深い繋がりがある
 
初めに自己肯定感とは、自分の存在意義・存在価値を認める感情のことです。
自己肯定感の欠如による悪影響は、無気力だけではなく、人によっては「攻撃性」に変わることがあります。
自己肯定感が低い人は、自尊感情が乏しいため「格付け」に敏感です。
自分より格上の人間には、プライドが傷つくため、嫉妬や憎悪の感情が湧きます。
光が強いほど影が濃くなるように、相手が輝いているほど、自分が卑しく感じてしまいます。
ネット上での匿名による嫌がらせは、攻撃する側の自己肯定感の欠如に原因があると言えます。
一方、自分より格下の人間にはどうかと言うと。
劣等感や不快感を発散できる絶好の攻撃対象と考えてしまいます。
これが様々な形で実行される現象が、いじめです。
いじめ問題は「いじめる側の攻撃性の問題」と思われがちだが、根本には「自己肯定感の欠如」が原因と言われます。
さらに突き詰めると、自己肯定感の欠如は「親の愛情不足」という根本に原因がある場合が少なくありません。
つまり、親の愛情不足が自己肯定感の欠如に繋がり、自己肯定感の欠如が攻撃性に変わり、攻撃性がいじめに発展するのです。
あるいは、親に愛情があっても、表現方法が空回りして、子どもが愛情不足に陥っているケースも少なくありません。
いくら家は裕福であっても、愛情不足で育つと、子どもは自分の存在意義・存在価値を感じにくくなります。
結果として、自己肯定感の欠如につながってしまいます。
自己肯定感といじめ問題は深い繋がりがあると私は理解しています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする