夢の里オタモイ遊園地
昭和初期に小樽花園で隆盛を誇った割烹「蛇の目」の店主、加藤秋太郎氏(愛知県~東京浅草の老舗「蛇の目」で修業後小樽で寿司店蛇の目を開店、大正中期から昭和5~6年)は、知人から「小樽には名所がない」と言われたことから、小樽に新名所を作ろうと一念奮起して、このオタモイ海岸を探し当てました。 その景勝地は古来「白蛇の谷」と呼ばれていましたが、秋太郎氏は昭和7年まず白蛇に因んだ「白蛇辨天堂」を建立します。続いて10万坪の敷地に130人収容の巨大な「辨天食堂」を建てます。そして「白蛇辨天洞」なるトンネルを掘り進み、切り立った断崖の上に京都・清水寺を凌ぐ規模の宴会場「龍宮閣」を建設したのです。急崖に「舞台」を懸造りにして張り出し、礎石の上に巨大な柱を何本も立て並べて支えています。昭和11年、桜並木、錦鯉の泳ぐ池、数々の遊具、相撲場、演芸場などの遊園施設が整備され「夢の里オタモイ遊園地」が完成しました。最盛期には一日に数千人の人々で賑わったといわれます。特に人々を驚かせたのは龍宮城のような「龍宮閣」でした。 しかし戦争が始まると、遊園地は贅沢と見做され「贅沢は敵だ」ということで客足が遠のき営業停止をやむなくされます。終戦後・A営業再開を目前に控えた昭和27年5月10日「龍宮閣」は惜しくも失火から炎上してしまうのでした。落胆した秋太郎氏は、故郷名古屋に帰り、姿を消してしまいました。
1・龍宮閣・二見岩・海水浴の風景。 日本海の荒磯のそそり立つ三百尺、辨天岬中腹に毅然としてそびえる三層楼、これが龍宮閣であります。総坪数二百八十坪、内部は、座敷と食堂の二つに分かれ座敷は各、おとひめ、うらしま、かめ、たい、ひらめ、等四十余畳の末廣に至るまで、浴室の設備もございます。
◎ 今回の写真は、現在オタモイ在住のKさんから譲り受けたものです、Kさんが手に入った経緯を聞いてみると、戦後、進駐軍(アメリカ人)の一人がオタモイ遊園地が栄えた頃に撮影をして、後に絵はがきに作り替えて、東京の浅草の店で売られていました、それを見つけた小樽の人が買い、そしてKさんに渡ったと言うことです。この何十枚かが小樽博物館にも保存されているそうです。Kさんから、絵はがきのコピ-を譲り受けたのは6年前です、それ以来、昔のオタモイ遊園地と子宝地蔵尊に興味を持つようになり、オタモイの歴史を書いた本や新聞記事などを録っておくようになりました、その中から、主な記事を、拾って、昔の写真に付け加えて記していきます。
2・ 辨天閣(弁天食堂)6~7mの崖の上に建ち、廊下の下は数メ-トルの崖です、約81坪の木造2階建てで唐風に建てられ、天上に200種の魚が描かれていた、約130人収容で、メニュ-は、うどん、そばなどの大衆向けのものでした
3・唐門、オタモイ地蔵尊の参詣人の多くが遠方からきていたことから、その案内として国道と列車から良く見える場所に案内門(唐門)を建てることとした。唐門はオタモイ入り口より奥の現オタモイ郵便局のあたりに市道をまたぐ格好で建設されオタモイのシンボルとして親しまれた。現在は海岸降り口の高台に保存されております。
4・蛇の目遊園地入り口。オタモイ遊園地や海岸へ続く七曲がり坂の降り口、七曲がりの沿道の各所に灯籠を配置してありました。○ 蛇の目の由来、オタモイ遊園地の施主である、加藤秋太郎氏は名古屋から小樽に来た当時49才は花園町の函館本線の踏切の近くに小さいながらも店を構え「蛇の目寿司」の看板を揚げた。幸い本格的な江戸前の寿司は好評で、大いに繁盛し、2年後には花園第一大通りに新店舗を構える事が出来た。この店も大変繁盛し、秋太郎氏は蓄財をなす。
5・オタモイ遊園地や海岸へ続く七曲がり坂を降りて行くと遊園地広場が見えてくる、
左側が弁天食堂、屋根にオタモイの文字は演芸場、右のすみが白蛇弁天堂 .○ 演芸場について、会場では日曜祝日にタップダンス、日舞、腹話術、手品、民話、落語などの演目が催され、エノケン、ロッパと並ぶ三大喜劇人として知られた柳家金五楼も出演していたという。ここには800人収容可能な大きなステ-ジがあり、入場はなんと無料だった。
6・オタモイ遊園地広場、七曲がりの坂を下りてすぐの所から、左側が白蛇辨天堂、中程の奥が、岸守稲荷神社、手前が鯉の池 ○ 児童遊園地として約2000坪の土地にブランコ、遊動円木、滑り台、シ-ソ-、木馬、すもうの土俵、砂場などが設置された。また、50人はど収容できるサッポロビ-ルの無料休憩所があった。
7・白蛇辨天堂 ○ 「オタモイ遊園地」の開園、上棟式が行われたのは昭和8年小樽~札幌間の国道が完成した年であった。昭和10年6月、3年がかりで建設した遊園地が完成し、開園式が行われた。以来遊園地は5月5日端午の節句から11月3日明治節までが開園期間となる。
8・白蛇辨天堂、ここからは演芸場、 辨天閣(弁天食堂)が見えます。○ 演芸場の屋根について、児童遊園地の山側にあり大屋根に大きく、オタモイと北を示すNの矢印が書かれた。これは航空ファンの、加藤秋太郎氏の息子、多喜雄の発案で、当時の帝国飛行協会に申請し、航空地上標識として登録された。その際協会から感謝状と金属製の飛行機の置物が授与され、塩谷村小学校の講堂で全生徒の居並ぶなか学校長から手渡されたという。
9・白蛇辨天堂、オタモイ、赤岩の地にまつわる、白蛇の伝説より、設立致しましたもので、拝殿は方三間、二重塔、奥殿を白蛇の渓の洞にお祭りして御座います。
10・ 辨天閣(弁天食堂)○ 左に見える灯籠について。オタモイ海岸へ続く七曲りの沿道や園内の各所に灯籠を配置するため、加藤秋太郎の妻きんは上京し以前より親交のあった柳家金語楼師匠に相談の結果、所属の会社であるコロンビアの歌手たちから多くの灯籠を寄進してもらい、園内の振わいを高めるのに貢献したという。
11・ 辨天閣(弁天食堂)から ○ この奥の方面には子そだて地蔵として全道に有名なオタモイ地蔵があり、四季参拝者の絶えることがありません。夏の海水浴、窓岩の舟遊、アナ澗探検等もスリル満点の遊びで御座います。
12・龍宮閣裏側歩道から ○ 切り立つ断崖絶壁にそびえ立ち、海にせり出した床は、まるで空中に浮かぶ幻の楼閣を思わせたという。
13・龍宮閣横の歩道から ○ 苦難の建設工事。上棟式を終え、屋根を葺く段になっても、最終工程の板金職人が見つからなかった。こんな危険な屋根を葺こうという者はいなかったのだ。そのため屋根葺きは鉄板葺きに替えられ、柾葺きの上からコ-ルタ-ルと砂を交互に塗布する工事に変更された。
14・龍宮閣の玄関と左側が佐吉地蔵尊 ○ 上棟式を終え、屋根を葺く工事の時、命綱を付けずに作業をしていたため、ついに佐吉という大工が海に墜落し亡くなってしまう。佐吉の死を弔い、龍宮閣の脇には今も佐吉地蔵が奉られている。
15・龍宮閣と芸者さん
16・龍宮閣の冬景色
17・オタモイ海岸全景
18・龍宮閣と二見岩
◎ オタモイ周辺の歩み
元文 5年(1740) 西川伝右衛門が忍路場所を請け負った。
嘉永 元年(1848) 西川家、オタモイなどに地蔵を建立する。
安政 3年(1856) 幕吏・梨本弥五郎が妻子を連れて神威岬を越えた。
明治 8年(1875) オタモイ地蔵、現在の堂守りである村上家の管理に。
明治13年(1880) 塩谷などに戸長役場を設置。
明治24年(1891) このころ、オタモイ地蔵の人気が高まる。
明治39年(1906) 塩谷村開村する。
大正11年(1922) 小樽市制施行。
昭和 4年(1927) 西川家、地蔵堂で追悼会を営む。
昭和27年(1952) 同遊園地のかなめだった龍宮閣が焼失した。
昭和33年(1958) 塩谷村、小樽市と合併。