「月日の残像」 山田 太一 著 新潮社 2013年
「減退」 P-28
70歳になっても、20代の頃といくらも変わらない内面で街を歩いている自分に気づくことがある。
鏡の前で、内面の若さに比べて肉体ばかりが年老いてしまったような悲嘆が過(よ)ぎることもある。
しかし、事実は内面も肉体と前後して齢(よわい)を重ねているのだろう。肉体のようにまざまざと老齢が見えないので、まだまだ若いと錯覚する余地はあるが、否応なく加齢は内面にも及んでいると考えるのが自然だろう。
それを悲しんでいるわけではない。
大体、70で20代の内面(とまでいわなくても40代50代の内面)を持っているなどということに、それほど取柄があるとも思えない。同じ人間なのだから、時がたったからといって、なにもかも変わるわけではないのは肉体と同じで、20代40代の自分が70代の内面にも生きているのは当然だが、それを捜して落穂拾いのように若さを生きるのではなく、せっかく70代に入ったのだから、70代だからこその変化を進んで意識し、たとえばその容赦のない無常の体験を面白がってしまうくらいの姿勢を持つことこそ70代の甲斐性というものではないだろうか――などと、どうもわれながら上すべりな物言いをしてしまうところが、まだまだ老いを扱いかねている証拠かもしれない。
去年(2004年)、私は一つの挫折を体験した。
長い小説を書くつもりで一回目の50枚「朝のカフェで」を雑誌に掲載して貰ったのだが、次の50枚を書き終えたところで、どうしても先へ進めなくなった。
こんなことははじめてで苦しんだが、とうとう断念して取りやめにして貰った。申し訳なかった。立ち直るのには時間がかかった。主題は老いに関するものだった。
「渋谷の雑踏を歩いていても、気がつくと私はほとんど若い女たちを見ていない。それはたぶん向こうが私を見ていないのと同じくらいに。同じ道を歩きながら互いに眼中になく、実は別の街を歩いているのだという幻覚が過(よ)ぎることがある。」(「朝のカフェで」)
架空の人物の語りという体裁だが、それだから自分の老いを立ち入って書けるという野心だった。
70にさしかかるころ、私は体の芯に大きな変化が来ているのを感じた。長いこと、異性を見ると、反射神経のように性欲で分別するところがあった。これは不随意筋のようなもので、いけないといったってどうなるものでもない。それは女性だって同じだろう。
その針が動かなくなった。鈍くなった。どうでもよくなった。これはひそかな驚きだった。
こうことがあるののか、と思った。
70ぐらいでなにをいってる、という人がいるだろう。事実老人ホームの色恋沙汰は時折耳にするし、70代で子供をもうける人も、結婚する人もいる。私だって状況次第ではなにがあるかも分からない。
しかし、私は減退が新鮮だった。別の世界へ足を踏み入れたぞ、という小さな興奮があった。
負け惜しみだと笑われそうだし、幾分その通りかもしれないが、減退を意識しそれを受け入れると、肩の荷をおろしたような気持ちになった。
「性欲を通さずに異性を見ると、それは多くの場合しらじらと味気なかった。恋愛を美しく唄い上げる歌手はあまりに多くの現実を無視しているように思え、路上でどんなに不潔かもしれない口を吸い合っている男女を見ると、性欲で判断力を失っている憐れを感じた。しかし、人間の大仕事は何より生殖にあるのだから、それに関する情熱を迷妄と感じるこっちの方こそ迷妄の中にいるとも思い、むき出しの現実を見ているようでいて、抜け殻の現実しか見えなくなっている悲哀のようなものも、時折こみあげるのだった。」(同前)
とまあ言葉にすればなんとか歯切れがいいが、小説はそれではすまない。この先はすぐには書けない。たしかに私は体の芯に変化を感じたが、それはスイッチを切ったというようなものではない。いまその変化を足掛かりにして書きすすむと踏みはずしてしまうぞという不安定な気持ちがつきまとって離れなかった。
中略(体の芯の変化をはじめて体験したエピソード)
70歳の変化にそんな激しさはない。困るということもない。ただ、底流にいつも性欲があった世界を離れたような感覚は、くりかえすようだが、私には新鮮だった。
街を歩いていても人に会っても自然を見ても、別の物を見ているような解放感があった。
しかしそれは減退に当惑して慌てて手に入れようとした世界かもしれなかった。理(ことわり)に傾き、細部の具体性に及ぶと無理がある。その無理にこそ小説の主題があるのかもしれないのだが、それも私の実際を置き去りにするように感じた。減退を根拠にして新世界如きものを小説に綴って来たが、結局のところこの老人にもひそかで切実なこのような性欲があったというようなかたちで人間の業を描くのでは、どんどん自分の現実から離れてしまうという思いがあった。
挫折して、いくらか回復して、いまはまた勝手な空想の中にいる。
ひとりの70代の男の性欲の減退を描こうとしたけれど、そんな話を書かせようとしたのは、僭越ながら時代なのではないか、という手前味噌である。
日本の社会に性欲の減退があるのではないか。社会が性の過剰より性の減退を探りはじめているのではないか。
お前如きに、時代がなにを託すのだ、いわれればその通りだが、時代はその時代を生きる誰に対しても時代の限界を強いるものだし、誰に対してもなにかを託すものだといえなくもない。
減退が頭を離れない。 (2005,5)
「減退」 P-28
70歳になっても、20代の頃といくらも変わらない内面で街を歩いている自分に気づくことがある。
鏡の前で、内面の若さに比べて肉体ばかりが年老いてしまったような悲嘆が過(よ)ぎることもある。
しかし、事実は内面も肉体と前後して齢(よわい)を重ねているのだろう。肉体のようにまざまざと老齢が見えないので、まだまだ若いと錯覚する余地はあるが、否応なく加齢は内面にも及んでいると考えるのが自然だろう。
それを悲しんでいるわけではない。
大体、70で20代の内面(とまでいわなくても40代50代の内面)を持っているなどということに、それほど取柄があるとも思えない。同じ人間なのだから、時がたったからといって、なにもかも変わるわけではないのは肉体と同じで、20代40代の自分が70代の内面にも生きているのは当然だが、それを捜して落穂拾いのように若さを生きるのではなく、せっかく70代に入ったのだから、70代だからこその変化を進んで意識し、たとえばその容赦のない無常の体験を面白がってしまうくらいの姿勢を持つことこそ70代の甲斐性というものではないだろうか――などと、どうもわれながら上すべりな物言いをしてしまうところが、まだまだ老いを扱いかねている証拠かもしれない。
去年(2004年)、私は一つの挫折を体験した。
長い小説を書くつもりで一回目の50枚「朝のカフェで」を雑誌に掲載して貰ったのだが、次の50枚を書き終えたところで、どうしても先へ進めなくなった。
こんなことははじめてで苦しんだが、とうとう断念して取りやめにして貰った。申し訳なかった。立ち直るのには時間がかかった。主題は老いに関するものだった。
「渋谷の雑踏を歩いていても、気がつくと私はほとんど若い女たちを見ていない。それはたぶん向こうが私を見ていないのと同じくらいに。同じ道を歩きながら互いに眼中になく、実は別の街を歩いているのだという幻覚が過(よ)ぎることがある。」(「朝のカフェで」)
架空の人物の語りという体裁だが、それだから自分の老いを立ち入って書けるという野心だった。
70にさしかかるころ、私は体の芯に大きな変化が来ているのを感じた。長いこと、異性を見ると、反射神経のように性欲で分別するところがあった。これは不随意筋のようなもので、いけないといったってどうなるものでもない。それは女性だって同じだろう。
その針が動かなくなった。鈍くなった。どうでもよくなった。これはひそかな驚きだった。
こうことがあるののか、と思った。
70ぐらいでなにをいってる、という人がいるだろう。事実老人ホームの色恋沙汰は時折耳にするし、70代で子供をもうける人も、結婚する人もいる。私だって状況次第ではなにがあるかも分からない。
しかし、私は減退が新鮮だった。別の世界へ足を踏み入れたぞ、という小さな興奮があった。
負け惜しみだと笑われそうだし、幾分その通りかもしれないが、減退を意識しそれを受け入れると、肩の荷をおろしたような気持ちになった。
「性欲を通さずに異性を見ると、それは多くの場合しらじらと味気なかった。恋愛を美しく唄い上げる歌手はあまりに多くの現実を無視しているように思え、路上でどんなに不潔かもしれない口を吸い合っている男女を見ると、性欲で判断力を失っている憐れを感じた。しかし、人間の大仕事は何より生殖にあるのだから、それに関する情熱を迷妄と感じるこっちの方こそ迷妄の中にいるとも思い、むき出しの現実を見ているようでいて、抜け殻の現実しか見えなくなっている悲哀のようなものも、時折こみあげるのだった。」(同前)
とまあ言葉にすればなんとか歯切れがいいが、小説はそれではすまない。この先はすぐには書けない。たしかに私は体の芯に変化を感じたが、それはスイッチを切ったというようなものではない。いまその変化を足掛かりにして書きすすむと踏みはずしてしまうぞという不安定な気持ちがつきまとって離れなかった。
中略(体の芯の変化をはじめて体験したエピソード)
70歳の変化にそんな激しさはない。困るということもない。ただ、底流にいつも性欲があった世界を離れたような感覚は、くりかえすようだが、私には新鮮だった。
街を歩いていても人に会っても自然を見ても、別の物を見ているような解放感があった。
しかしそれは減退に当惑して慌てて手に入れようとした世界かもしれなかった。理(ことわり)に傾き、細部の具体性に及ぶと無理がある。その無理にこそ小説の主題があるのかもしれないのだが、それも私の実際を置き去りにするように感じた。減退を根拠にして新世界如きものを小説に綴って来たが、結局のところこの老人にもひそかで切実なこのような性欲があったというようなかたちで人間の業を描くのでは、どんどん自分の現実から離れてしまうという思いがあった。
挫折して、いくらか回復して、いまはまた勝手な空想の中にいる。
ひとりの70代の男の性欲の減退を描こうとしたけれど、そんな話を書かせようとしたのは、僭越ながら時代なのではないか、という手前味噌である。
日本の社会に性欲の減退があるのではないか。社会が性の過剰より性の減退を探りはじめているのではないか。
お前如きに、時代がなにを託すのだ、いわれればその通りだが、時代はその時代を生きる誰に対しても時代の限界を強いるものだし、誰に対してもなにかを託すものだといえなくもない。
減退が頭を離れない。 (2005,5)