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「教養の道」 森本 哲郎

2014年09月23日 01時10分20秒 | エッセイ(模範)
 「老いを生き抜く」長い人生についての省察 森本 哲郎(毅郎の兄)1925年(大正14年)生まれ

 「教養の道」 P-35

 前略
 
 「教養主義」とは、学問・芸術を身につけ、自己の人格を高めていこうとする理想主義である。きわめて当然な考え方であるが、明治がヨーロッパ文化を無条件に受容しながら、その生き方の根底に儒教的な「修養」を据えていたのに対し、大正期になると、西洋思想に対してはいくぶん批判的に摂取しつつ、その基礎を個人の人格に置き、みずからの向上に努める「教養」へと変わっていった。

 中略

 大正の教養主義はスノビズム(紳士気取り)などと冷笑されたりもしたが、人生を考え、人格の向上をめざそうとするそのひたむきな努力は、それなりに評価してしかるべきであろう。
 ケーベルから、漱石とその門下生へ引き継がれて、「教養主義」は大正の日本社会にしだいに定着していった。人間の生き方について煩悶し、反省する―――それに対する解答として、漱石の作品をはじめ、前記の著作などが若い読者をとらえたのである。それは、昭和の戦前まで生きつづけることになる。

 昭和十二年に出版されてベストセラーになった島木健作の『生活の探求』は、その延長線上にある。この小説は、題名どおり、自分の生活の反省から郷里の香川県に帰り、農民として生き抜こうとする若者を描いたものだ。彼をそう決意させたのは、東京での学生生活、都会での浮華(ふか)な人生に懐疑的になり、もっと真剣に生きたいという新しい生活への希求であった。むろん、現代でもこうした青年がいないわけでもあるまい。だが、この小説の主人公のように、どのような生活が人間的であるのかを情熱的に問い詰める人間は、もう、あまり見られなくなったのではあるまいか。

 むろん、当時、すなわち昭和十二年のころと現在とでは、社会環境がまるでちがう。生活の風景も、すっかり変わっていよう。けれども、自分に忠実に、人間的に生きたいという熱望は、おなじようにあるはずだ。が、昨今では、要領よく人生を切り抜ける技術的な、そして功利的な即答のノウハウがふんだんに提供されている。じっさい、あまりにも多くの知識を、たんなる情報として受け取るようになった現代人は、それだけわけ知りになり、器用に順応し、かつてのように素朴に「生活の探求」を試みることをしなくなった。大正の教養主義は戦争を境に断絶してしまったといえよう。

 だが、私たちが心すべきは、改めて「教養主義」と取り組むことではないのか。なぜなら、人生の悩みは、技術的な処理によっては一向に解決されないからである。人間的に生を充実させる―――そのために必要なのは、やはり、ひとりひとりの人格を支える「教養」なのである。

 中略

 私は、「教養」を、「他から教えられ、自ら養うこと」と定義する。他から教えられる、とは、すなわち、学ぶことにほかならない。孔子が六十歳を「耳順(じじゅん)」、耳したがう、といったのは、まさに還暦のこの年にして謙虚に、人の説得を受けよ、ということではあるまいか。

 このように、人生とは「教養」の道を、ひたすら歩んでゆくことなのである。