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「足し算か引き算か」 その2

2014年09月07日 00時40分50秒 | 雑学知識
 中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html

 1.足し算か引き算か ―『名人伝』に見る教育 その2

 ここから先の九年の修行については「誰にも判らぬ」というばかりで、語り手は何もあきらかにしない。だが、修行を終えて山をおりた紀昌がいったいどれほどの名人なのか、だれも知ることはない。その名人ぶりをとうとう披露することもなく、生涯を終えてしまったからである。

 ともかくここに見て取れるのは、足して、足して、もう何も足せなくなった地点が最上級ではない、という考え方だ。そこからこんどは「引き算」の修行が始まっていく。
 ここで引くのは何か。それは「弓を射る」という技術にとって不要なものだろう。甘蠅のように、弓矢は必要ない。さらにその技術を見届けて「名人」と判定する観客も必要ないし、さらには獲物も必要ない。紀昌の意識の面でも、不要なものをすべて削ぎ落としていったあげく、残ったのは、言葉はあまり適切ではないのだが「純粋技術」だけが、人のかたちをとって現れた、そんな状態だったのではあるまいか。

 さて、ではこの「引き算」トレーニング、いったいどういったものなのだろう。わたしたちの身の回りにある「引き算」のトレーニングに該当するような言葉を探してみる。

 雑念を払う。
 余分な力を抜く。
 無我の境地。
 禅の言葉には「心身脱落(とつらく)」というのもあるらしい。

 プラスのトレーニングなら単純だ。筋力を「つける」には、その筋肉に付加がかかるようなトレーニングをする。知識を「増やす」ためには本を読む。技術を「磨く」ためには反復練習、というように、どうすればそれが「得られる」のか、その状態にない人でもある程度は見当がつく。人に教えるのも、つまり言葉によって伝達することも可能だし、その状態にない人が、その言葉を受けとって、自分の身体へとあてはめていくことも容易だ。

 ところが「引き算」は言葉で説明するのがむずかしい。雑念をどうやって払ったらいいのか。どうやって無我の境地に入ることができるのか。「雑念を払う、雑念を払う……」と、一心に考え詰めていたとして、仮にほかの考えをすべて追い出すことができたとしても、「雑念を払う」という意識だけは残ってしまう。「雑念を払う」という意識こそ、何よりも除きがたい「雑念」かもしれない。