中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html
「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その4
つまり、「力を入れる」というのは、「力を抜く」に対して、身体化しやすいメタファーなのである。竹内敏晴は『ことばが劈かれるとき』で書いていたが、人間には「力を抜く」ことはできないという。力をほかの場所に移すことができるだけだ、と。そうして『「からだ」と「ことば」のレッスン』のなかでは、実際に身体から力を抜いていくトレーニングが紹介される。ふたりが一組になって、一方が相手の身体にふれ、揺する。
揺するレッスンは筋肉の緊張に気づくことから始め、結果としてそれがゆるみ、ほぐされることになるのだが、一つの部分の筋肉がふっとゆるんだ、という知覚は、必ず、ある「身構え」の脱落感と共にあるのであって、言いかえれば「身構え」が崩れることが「からだがほぐれる」ことに他ならない。精神医学者の森山公夫氏のことばを借りれば、世界との、自分との、他者との、「和解」ということになろうか。… このような意味での日常の「身構え」からの脱出が、深い集中に導かれ、ある「脱自」へと至る、のだ。
(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書)
竹内は同書のなかでそのプロセスを実例を交えながら細かく書いていくが、それでもそれを読んだだけでは実際のところはちっともわからない。書いてあることを仮に、言葉通りに実践したとしても、おそらく、実際のトレーニングとは似ても似つかぬものであろう。つまり、実際にそのトレーニングを経験しないところで、つまりは身体的理解のないところで、そのトレーニングの型、相手へのふれかたや、横になりかた、ほぐしかたなどは、ちょうど「畳の上の水練」のように、言葉を読んだだけではなにひとつわからない。つまり「日常の身構えからの脱出」というのは、言葉による理解ではなく、教え手の身体から学習者の身体へと「型」が受け継がれていくのだろう。
「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その4
つまり、「力を入れる」というのは、「力を抜く」に対して、身体化しやすいメタファーなのである。竹内敏晴は『ことばが劈かれるとき』で書いていたが、人間には「力を抜く」ことはできないという。力をほかの場所に移すことができるだけだ、と。そうして『「からだ」と「ことば」のレッスン』のなかでは、実際に身体から力を抜いていくトレーニングが紹介される。ふたりが一組になって、一方が相手の身体にふれ、揺する。
揺するレッスンは筋肉の緊張に気づくことから始め、結果としてそれがゆるみ、ほぐされることになるのだが、一つの部分の筋肉がふっとゆるんだ、という知覚は、必ず、ある「身構え」の脱落感と共にあるのであって、言いかえれば「身構え」が崩れることが「からだがほぐれる」ことに他ならない。精神医学者の森山公夫氏のことばを借りれば、世界との、自分との、他者との、「和解」ということになろうか。… このような意味での日常の「身構え」からの脱出が、深い集中に導かれ、ある「脱自」へと至る、のだ。
(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書)
竹内は同書のなかでそのプロセスを実例を交えながら細かく書いていくが、それでもそれを読んだだけでは実際のところはちっともわからない。書いてあることを仮に、言葉通りに実践したとしても、おそらく、実際のトレーニングとは似ても似つかぬものであろう。つまり、実際にそのトレーニングを経験しないところで、つまりは身体的理解のないところで、そのトレーニングの型、相手へのふれかたや、横になりかた、ほぐしかたなどは、ちょうど「畳の上の水練」のように、言葉を読んだだけではなにひとつわからない。つまり「日常の身構えからの脱出」というのは、言葉による理解ではなく、教え手の身体から学習者の身体へと「型」が受け継がれていくのだろう。