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「必読書」 森本 哲郎

2014年09月25日 00時14分24秒 | エッセイ(模範)
 「老いを生き抜く」長い人生についての省察 森本 哲郎(毅郎の兄)1925年(大正14年)生まれ

 「必読書」 P-46

 前略

 時代は変わった。いまは必読書という言葉すら、あまりきかれなくなってしまった。いったい、現代日本人の「教養」の条件は何なのだろう。
 いつの世にも教養を身につけるための必読書があった、と私は言ったが、それをきめたのは、その時代時代の知的な雰囲気、いわば文化的、思想的環境だった。その知的、文化的な装置が、いまや、まったく取り外されてしまったように私には思われる。情報化社会といわれる現代の世の中では、ただ、技術的な思考、情報的な知識だけがまかり通っている。教養の条件どころか、教養そのものが無視されているのだ。「教養学部」が姿を消した大学も多々ある。

 教養を問われないとは、なんと気楽なことだろう。現代の若者たちは必読書の山から解放され、その気楽さのなかで存分に羽を伸ばしているようだ。が、同時に「筆紙(ひっし)につくい難い」という感激も失ったのではなかろうか。

 たしかに、日本人の教養の条件は厳しい。必読の書といって、まず読まされるのは哲学、文学書であり、社会思想、人文科学、自然科学のテキスト、さらに、中国の古典、そして日本の諸文献と、二重三重の枠を突破せねばならない。自国の文化を知るためには、より多くの書物に接する必要がある。それをひと通りわきまえたうえで、やっと「教養人」の資格を得られるのであるから。これが日本の「教養人」に課せられた宿命といっていいだろう。日本人は教養を身につけるために、他国人より二倍も三倍も努めねばならないのだ。そして、そのあげく、自国文化の認識が一歩遅れてしまう。これこそ輸入文化国の悲劇、あるいは喜劇であろう。

 しかし、こうした「教養主義」のおかげで、日本人の知的水準は世界でも高い地位を保ってきたのではあるまいか。それが今後、「教養主義」の没落とともに下落していくだろうことは、充分に予測できる。日本のアメリカ化がそれに拍車をかけてきた。日本は努力目標を放擲(ほうてき)したのである。

 だが、改めて個人の生涯設計について考えたとき、何より問題となるのは、教養の無視が老後に及ぼす影響である。無教養では、老境の憂さにとうてい太刀打ちできない。前にも述べたように、「教養主義」とは学問、芸術を身につけ、自己の人格を高めていこうとする理想主義である。その教養が老年期に威力を発揮するのだ。それは生きる目標を設定する能力を保証してくれ、そのための手段を考える力を与えてくれるからである。

 後略