民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「足し算か引き算か」 その1

2014年09月05日 00時04分40秒 | 雑学知識
 中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html

 1.足し算か引き算か ―『名人伝』に見る教育 その1

 このあいだ中島敦の『名人伝』を読んでいたら、おもしろいことに気がついた。

 わたしたちはふつう、知識や技術を習おうとするき、いまある自分に何かを「加える」という言葉を使って理解していく。

 知識を「得」る。
 知識・技術を習「得」・獲「得」する。
 身につける。
 与えられる。
 自分のものにする。
 吸収する。
 呑みこむ。
 経験を重ねる。

 上達する、というのも、「上に達する」という意味で、その人がいる場所が高くなる→高さが加わった、と考えられる。さらに技を「磨く」や「洗練させる」も「その質を高めていく」という意味で、「加える」に含めていい。さらに経験を積んだ人間に対しては「ひとまわり大きくなった」という評価のしかたをすることもある。つまり、知識や技術を得、経験を積むというプロセスを、わたしたちは元々の身になにものかを「加えるもの」というかたちで理解しているのである。

 『名人伝』でも、主人公の紀昌は飛衛のもとではこの「足し算」型の修行をしていく。

 機織り機の下に寝っ転がって機躡(まねき)が上下するのを見て、まばたきをしないための修練を「重ねる」。つぎに「小を視ること大のごとく、微を見ること著のごとく」の訓練として、髪の毛に結んだ虱を見続けるうちに、紀昌はその能力を獲「得」する。

 そこで飛衛は紀昌に射術の奥儀秘伝を「授け」始めた。紀昌の腕前の「上達」は驚くほど速い。とうとう紀昌は師から学び「取る」べき何ものもなくないまでになる。
つまり、ここに至って紀昌にはつけ「加える」べき何ものもない状態に至るのである。

 では天下に並ぶ者もない名人になったのか。 
 飛衛は言う。
「霍山(かくざん)には甘蠅(かんよう)という大家がいる。「老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する」。
 そこで紀昌は甘蠅のもとに赴くのだが、この甘蠅はいきなり、弓も矢も使わずに鳶を射落として見せる。
「弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆(うしつ)の弓も粛慎(しゅくしん)の矢もいらぬ。」と言うのである。
 弓矢を射るのに、その弓も矢も必要でないとは!
 ここから紀昌の「引き算」の修行が始まっていく。