民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「足し算か引き算か」 その5

2014年09月13日 23時07分03秒 | 雑学知識
 中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html

 「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その5

 さて、ここでは話を先に進める。
 仮に師匠の導きの下、「日常の身構えからの脱出」が可能になったとする。それはいったいどんな状態なのだろう。異様に感覚が研ぎ澄まされた状態なんだろうか。

 たとえば、音楽を聴くとする。わたしたちはある旋律を「メロディライン」あるいは「主旋律」という言い方をして取りだす。歌なら、歌手によって歌われるその部分を取りだすのは簡単だ。それでも、インストゥルメンタルの曲でも、交響曲でも、わたしたちはたとえばドヴォルザークの八番、というと、あの二楽章の印象的なメロディを口ずさむだろうし、ラッシュの "XYZ" というと、あのキャッチーなギターとベースのユニゾンを口ずさむだろう。わたしたちはメロディラインなら、とくに音楽の知識がなくても、簡単に全体から取りだすことができる。

 つぎに、少し楽器の音も詳しくなってきたとする。たとえばビオラの響きに心引かれるようになる、あるいはベースの刻むリズムが心地よく感じられるようになる。そうなってくると、知らないころは渾然一体となっていた音の中から、ベースやビオラの音が浮きあがって聞こえてくるようになるはずだ。  そうなると、同じ曲がこれまでとはずいぶんちがって、ずいぶん立体的に聞こえてくるようになる。

 さらに、もっと曲を聞きこむ、あるいはさまざまな楽器のさまざまな音を聞き分けられるようになると、今度はまた、聞こえ方が変わってくる。何の音を聞いているというわけでもない、ヴァイオリンも、チェロも、オーボエも、ホルンもそれぞれに聞こえているのだが、そのどれかを聞いているわけではない、それぞれの音を全体として聞く、という状態にいたる。そうして、おそらくその状態が音楽がよく聞こえているように思う。