民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「徒然草 REMIX」 その3 酒井 順子

2016年03月03日 00時26分27秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 「あらまほし」 その1 P-21

 徒然草を読んでいて、思うこと。それは、「作者の心の中には、常に『○』の札と『×』の札が用意されているのであるなぁ」ということです。
 人を話していても、月だの花だのを眺めても、兼好は常に、○か×かの札を心の中で瞬時に掲げています。「まぁ、どうでもいいわな」とか、「そういう人もいるでしょう」などといった曖昧な感想は抱かず、必ず自分の中で白黒をつけているのです。

 随筆の面白さとは、もちろんそういったところにあるのです。昨日あったことをだらだらと書いていても、読者は何ら興味を持たない。昨日こんなことがあって非常に○であったとか、あんな人と話したらこんな風に×であったというように、作者がどのように○もしくは×を感じるのかというところに、読者はひきつけられるのですから。

 枕草子においても、○と×との区別はくっきりとついています。類聚章段(るいじゅうしょうだん)と言われる「・・・もの」でくくられた段の数々があります。「心ときめきするもの」「めでたきもの」「あはれなるもの」といった言葉の後に綴られるのは、清少納言「○」と思った事物の数々。対して、「すさまじきもの」「にくきもの」「見苦しきもの」といった言葉の後には、「×」な事物が続く。読者は、端的な丸の事例、×の事例の数々を読んで、「そうそう、そうなのよね~」と、スッキリした気分になるのです。

 徒然草における○と×の処理方法は、枕草子とは違います。兼好は、○や×の事例をただ羅列するという手法はとらず、「これは○だが、こちらは×だ」などと○と×を並べてみせたり、兼好が○とか×と感じた理由を丁寧に説明してみせ、「だからやっぱり人間、こうあるべきなんですよ」といった意見を提示するのです。

 この手の男性は、今もしばしば見るものです。「これ、好き」「あれ、嫌い」と好き嫌いを言いっぱなしにするのではなく、「こうするべき」「こうするべきではない」という「べき」論をも、つい語ってしまうのが、その手の人の常。世を捨てて仏道に入ったというのに、それでもなお、世にそして人に、文句をつけたくなってしまう兼好は、そんな持論を心の中だけに溜めておくことができないからこそ、つれづれなるままに随筆を書いたのでしょう。