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「徒然草 REMIX」 その9 酒井 順子

2016年03月15日 00時09分25秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その6 「わびし」その2 P-65

 前略

 ピカピカに新らしい、立派な家。自分のことを引き合いに出して、他人を評価する人。そして、しったかぶりをして、ペラペラ話す人。・・・兼好が「わびし」と思ったのはこんな対象です。これ見よがしな自己アピールが強い人を、彼はとにかく嫌ったのです。

 そして私は、兼好が今の世にいたら、さぞかし生きにくいであろうなぁと思うのでした。今の時代、ちょっと古風な渋い家など建てようとしたら、いかにも新築というピカピカの家を建てるよりも、ずっとお金がかかる。誰かを評価する時でも、
「あの人にはできないことも、私にはできます」
 くらいの自己アピールをしなくては、仕事の場では評価されない。ましてや、
「ええと、はっきりとは知らないんですけどね」
 などと仕事の場で言っていたら、自分に自信が無い人と見なされて、重要な仕事はまかされないことでしょう。

 ピカピカの家とか、強い自己主張とか、自信あり気な態度がよしとされる気風は、アメリカから輸入されたものです。含羞とか謙遜みたいな姿勢を堅持していたのでは、国際化の時代に生き残っていけないからこそ、日本人もアメリカ風の姿勢を身につけていった。

 アメリカっぽい人というのは、おそらく兼好の時代にもいたはずです。受け入れられずに寂しい、という感覚が「わびし」という言葉の元にはあると最初に記しましたが、兼好がアメリカっぽい人と会った時に感じたのは、相手のセンスと自分のセンスが決して交わることはない、という感覚なのではないか。それはつまり、相手を受け入れることができず、だからこそ相手からも受け入れられないという一種の寂しさなのであり、だからこそ兼好はその手の事や人に遭遇した時、「わびし」と記したのでしょう。「ダッセー!」という意味での「わびし」の裏にも、寂しさは隠し味として存在するのです。

 今の世では、アメリカっぽい人の方が立派と言われ、出世するようになってきました。しかし私は、その手の人を見て「わびし」と思ってしまうタイプなのであって、そこで感じるのはやはり、一抹の寂しさ。もう少し昔に生まれていた方がよかったのかもなぁと、たまに思います。