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「本居宣長」 はじめに その2 吉田 悦之

2016年03月27日 00時35分58秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 はじめに その2

 たしかに宣長には歌だけでなく言葉にも、心が奮い立つような派手さはありませんが、しかし、心力を尽くした体験の重みがあります。
 さて、宣長の生きた十八世紀後半は、日本がいよいよ世界の中で自らのポジションを獲得しようと第一歩を踏み出した時代です。
 国内においては、貨幣経済の浸透や交通網の整備によって人や物資の動きは活発化します。出版も、文字資料だけでなく、浮世絵、黄表紙という今のコミックのような本や、諸国の名所図会などの画像情報も加わり、実に多彩。地域における情報格差は急速に解消していきます。
 領域を守ろうとするはずの大名、また幕府も、財政は疲弊し権威は失墜、しかも拠り所となる朱子学の勢いも衰え、さまざまな思想や学問が起こってきます。その中には国学もあれば、蘭学もあったのです。当然、求めれば海外情報も手に入る時代になっていました。
 そんな中で、自分の住む狭い地域だけでなく、そもそも日本とはいったいどういう国なのかという関心が高まってきます。
 明和五年(1768)、与謝蕪村は、
  稲づまや 浪もてゆへる 秋つしま
という句を作りました。稲妻の閃光が暗い海に浮かぶ日本列島の姿を映し出す、まるで宇宙空間から見たような情景ですが、よくこの時代の空気を伝えています。
 宣長はそんな時代風潮の中で『古事記』を読むことで「日本」という国を明らかにすることを試みたのです。
 その『古事記』は七世紀後半、日本が東アジアの中でデビューしようとする時期に、アイデンティティーを確認する中で生まれてきた歴史書です。それを千年後に、東アジアから世界へと、よりグローバルな視点の中で確認するための材料として宣長は使ったのです。
 二十一世紀、世界の中で日本の位置づけは揺らぎつつあります。そんなときだからこそ、もう一度自分たちの立ち位置を確認するためにも、宣長の言に耳を傾けることは、意味のあることだと思います。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。