「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年
「天地は不思議に満ちている」 その1 P-14
みなあやし。 『くず花(ばな)』上(かみ)つ巻(まき)
すべて不思議です。 (現代語訳)
子どもの頃はだれしも、周囲のことに驚き、そして大人に「なぜ」と問います。国学者・本居宣長はこのような「驚く心」と「なぜだろう」という問いかけを、生涯持ち続けた人です。それが宣長のすべての出発点になっているのです。
『くず花(ばな)』は市川鶴鳴(かくめい)という儒学者との論争記録です。人間の理性に絶対的な信を置く儒学者の態度に宣長は疑問を感じ、反発します。儒学者とは知識人、つまり立派な大人です。彼らはほとんど驚いたり動じたりしません。奇怪なことがあっても、それらしい理屈をつけて納得します。
一般の人も毎日の暮らしの中ではいちいち驚かないでしょう。驚いていたらキリがないからです。
しかし宣長は言います。「考えてみたら、地球が浮かんでいることも、人間の存在も、身のまわりで起こっていることも、すべては不思議なことではないか。それを感じないのは、人間の知を過信して尊大になっているか、また慣れっこになっているからだ」と。
この問いかけは、「あやしき事の説」(『 玉勝間 』)や他の著作の中でも繰り返しなされています。
理性を過信すると、自分の勉強した世界、目の前に広がる風景の中でしかイメージを描くことができません。それに対して宣長は、「それは全体の中のほんのわずかな部分に過ぎないのではないか。人間の知恵は、あらゆる事象を説明できるほどすごいものなのだろうか」と考えるのです。
薬箱をぶら下げて歩く。時には50キロ以上に及ぶこともあり、一日の中で歩く時間の占める割合は非常に多い。また、いろいろと近所づきあいもある。これが町医者・宣長の日常です。
(作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。
「天地は不思議に満ちている」 その1 P-14
みなあやし。 『くず花(ばな)』上(かみ)つ巻(まき)
すべて不思議です。 (現代語訳)
子どもの頃はだれしも、周囲のことに驚き、そして大人に「なぜ」と問います。国学者・本居宣長はこのような「驚く心」と「なぜだろう」という問いかけを、生涯持ち続けた人です。それが宣長のすべての出発点になっているのです。
『くず花(ばな)』は市川鶴鳴(かくめい)という儒学者との論争記録です。人間の理性に絶対的な信を置く儒学者の態度に宣長は疑問を感じ、反発します。儒学者とは知識人、つまり立派な大人です。彼らはほとんど驚いたり動じたりしません。奇怪なことがあっても、それらしい理屈をつけて納得します。
一般の人も毎日の暮らしの中ではいちいち驚かないでしょう。驚いていたらキリがないからです。
しかし宣長は言います。「考えてみたら、地球が浮かんでいることも、人間の存在も、身のまわりで起こっていることも、すべては不思議なことではないか。それを感じないのは、人間の知を過信して尊大になっているか、また慣れっこになっているからだ」と。
この問いかけは、「あやしき事の説」(『 玉勝間 』)や他の著作の中でも繰り返しなされています。
理性を過信すると、自分の勉強した世界、目の前に広がる風景の中でしかイメージを描くことができません。それに対して宣長は、「それは全体の中のほんのわずかな部分に過ぎないのではないか。人間の知恵は、あらゆる事象を説明できるほどすごいものなのだろうか」と考えるのです。
薬箱をぶら下げて歩く。時には50キロ以上に及ぶこともあり、一日の中で歩く時間の占める割合は非常に多い。また、いろいろと近所づきあいもある。これが町医者・宣長の日常です。
(作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。