民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

 「余計な心配」 マイ・エッセイ 19

2016年03月21日 00時11分47秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「余計な心配」
                                                  
 オイラは無精ヒゲをはやしている。高校の頃から、ずっとそうしている。形を整えたりなんかしない、ただ伸びるにまかせている。オイラもいい年になったから、白髪率は、はてどれくらいだろうと鏡をのぞいてみると、七割くらいと思ってたのに、九割は確実に超えてる。ほとんど真っ白だ。
 長く伸びたらハサミでちょん切る。カミソリなんかもう長いこと使っていない。
 頭は、もう二十年以上も前から丸坊主に決めている。頭と顔はたいして変わらない。一緒にセッケンで洗っておしまいだ。
こうして、ヒゲを剃ったり髪を洗ったりする時間を節約すると、なんだか得した気分になる。

 高校のとき、バンカラ思想にかぶれた。「男は外見なんか気にするな、中身を大事にしろ」、という硬派の生き方だ。
 大学は文学部、女四人に対して男は一人しかいない。右を見ても左を向いても女ばっかり。オイラはそれまで女とつきあったことがなかったから、どうしていいかわからなくて面食らったもんだ。
 まわりの男たちはみんなアイビー・ルックとかで決めているのに、オイラはずっとガクラン(学生服)に高ゲタで通した。
「女なんかとイチャイチャしてられっか」、これもバンカラの流儀なのだ。
 そんなオイラだったから、こっちから女に声をかけたことはないし、女から声をかけられたこともない、女っ気のない人生を過ごしてきた。 いまでも女は苦手だ。

 インターネットの世界に同じ趣味を持つ仲間が集まる場がある。そこでひとりの女性と知り合い、何度かメールのやりとりをしていた。彼女はオイラより六つ年下、離婚していまは一人、オイラは一応、既婚者だ。 
 その女性から「近くに行くので会いませんか」ってメールがあった。大勢が集まるオフ会は参加したことがあるけれど、二人きりで会うのは初めてだ。いざ会うとなると、ドキドキ(不安)半分、ワクワク(楽しみ)半分。下心がないといったらウソになる。
 オイラが写真を送ると、彼女も「デブっていて恥ずかしい」と書き添えて一枚の写真を送ってきた。
 ちょっと太目の女性が写っていた。首をかしげたが、ここでご破算にしたら女性に失礼だ、それくらいの礼儀はわきまえている。
 彼女に会う日がくるまで、空想、妄想を含めて、いろんな場面を想定していると、あっという間に時間が過ぎていった。
 当日、待ち合わせ場所で彼女を待つ。だんだん胸が高鳴る。車が近づいてきて運転してる女性と目が合う。女性はチョコンと頭を下げニッコリ微笑む。彼女だ。
 車から降りて彼女がやってくる。ドキッドキッ、ドキッドキッ、緊張クライマックス。 

「こんにちは」
 あれっ、ちっとも太ってなんかない、写真で見るより十倍ステキじゃないか。(会ってよかった)心の中で快哉を叫ぶ。
 観光地を案内してあげる。オイラはいつもより饒舌になる。
 夕食の席、正面に顔が向き合う。
「気さくな方でよかった」
 彼女も不安だったんだろう。ほっとしたようにつぶやく。
 趣味のこと、ネットのことで話が弾む。趣味はオイラの方がキャリアは長いけれど、ネットの世界は彼女の方が詳しい。時間があっという間に過ぎていった。

「もう帰らなきゃ」
 八時、そろそろ帰らないと家に着くのが十二時を過ぎてしまう時間だ。
 とうとうその時が来たか。ゴクッ、つばを飲み込む。
「もっと話がしたい。もう少しゆっくりしていけないの」
 くり返し誘ったが、彼女の意志はくつがえらない。これ以上は、しつこさの限界と引きとめるのをやめた。
「楽しかった。また会おうね」
 再会を約束して別れた。

 彼女と一緒の時間をふり返っていて、ふと突拍子もないこんなことまで考えた。
「わたし、ヒゲを生やした男の人って生理的にダメなの」
 彼女がそういう女性だったらどうしよう。
 無精ヒゲをやめる?それとも、彼女を諦める?





「徒然草 REMIX」 その11 酒井 順子

2016年03月19日 00時12分40秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その8 「あはれ」 P-81

 古典を読んでいると、たくさん出てくるのは「あはれ」という言葉。が、私はいつも、わかったようなわからないような気分で、この「あはれ」を眺めているのです。
 現代において「あわれ」は、「哀れ」とも書くわけで、「可哀相」とか「みじめ」と思われる人や状況に対して使用されています。が、昔の「あはれ」は、どちらかといえば褒め言葉。すなわち、しみじみ、じんわりした心の動きを「いいなぁ」と思う時に、人は「あはれ・・・」と言ったのです。

 そのしみじみ感の中には、悲しさや寂しさや憐憫の情も、含まれていました。後年、その悲しさや寂しさや憐憫の部分のみがクローズアップされて使用されるようになったのが、今の「あわれ」。対して、感動や賞讃の部分がクローズアップされてできたのが、「あっぱれ」。
「哀れ」と「天晴(あっぱ)れ」が同じ語源ということに驚かされるのですが、そうこうしているうちに、「あはれ」が元々持っていた意味を表す言葉を、私たちは失っていたのです。

 (中略)

 人はいつまでも生きていくことはできず、いつか必ず死んでしまうという事実は、我々に最も深く無常を訴えるものです。兼好の「あはれ」センサーが激しく動くのは、無常に感じた時。「人は死ななかったら『あはれ』じゃない」と、死を避けようとする人々を尻目に余裕を見せるのでした。

 (中略)

 その心境は、男女の仲にも及びます。「男と女にしても、ただ会って契ることだけが良いわけじゃあない。会えないつらさを思い、果たされなかった約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠くにいる恋人と過去の逢瀬をしのぶ・・・っていうのが、恋の真髄なんじゃないの? 」と。
 多少の精神的マゾっ気は感じますが、昔の歌謡曲で「会えない時間が愛育てるのさ」と歌われていたのと似たような感慨を、兼好は抱いていたのですねぇ。

 (中略)

 移ろいゆく時に対して、真剣に「あはれ」を感じていた、兼好。彼はそのあはれ感にうっとりしつつ、一方では最も無常を恐れていた人なのかもしれない、とも思うのです。「時が流れていくことは、しょうがないのだ」と現実的な割り切りをすることができず、刻々と終わりに近付いていくことが本当に恐かったからこそ、彼は無常や否定に敏感にならざるを得なかったのではないか。

「徒然草 REMIX」 その10 酒井 順子

2016年03月17日 00時06分26秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その7 「老い」 P-68

 最近の日本においては、長生きを良いこととしない風潮が強まっているように思います。「いつまでも生きてしまって、お金がなくなってみじめな思いをするのが恐怖¥い」「長生きして、子供に迷惑をかけたくない」「ほどほどのところで、ぽっくり死にたい」と、初老の人は口々に言うもの。

 昔は、長生きは目出度いことだったのです。しかし90代まで生きる人も全く珍しくない今、「生きたくないのに生きてしまっている人」や、「周囲から長生きを寿(ことほ)がれない人」の姿を目にしてしまうと、私たちは長寿に対する恐怖を感じるのでした。

 兼好が生きた時代は、長生きが目出度いとされていた時代だと思います。医療は発達しておらず、子供の死亡率は今よりもうんと高かった。長生きできるというのは、とてもラッキーなことだったのですから。

 (中略)

 年をとってしまった兼好は、自らが老いているということに対して、忸怩たる気分を抱いているようです。第113段には、「40歳を過ぎて色事があったとしても、一目を忍んでいる場合はまぁしょうがないにしても、それを口に出して言ったりするのは、大人気なくて、みっともない」としてあります。「いくつになっても恋をしていたい」「一生、セックス」みたいな現代の風潮とはまるで違う感覚なのであり、「40過ぎたら、もしやるとしてもコッソリしてろ」ということなのです。

 それに続き、「老人が、若者に交じって、ウケを狙って話していたりするのは、「すごく見苦しい」とも兼好は書いています。これも、「若い人と積極的に話して、エネルギーをもらいましょう」みたいな今の風潮とは真逆のこと。
 兼好は、自らの老いを自覚しようとしない人を、嫌うのです。

 (後略)


「徒然草 REMIX」 その9 酒井 順子

2016年03月15日 00時09分25秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その6 「わびし」その2 P-65

 前略

 ピカピカに新らしい、立派な家。自分のことを引き合いに出して、他人を評価する人。そして、しったかぶりをして、ペラペラ話す人。・・・兼好が「わびし」と思ったのはこんな対象です。これ見よがしな自己アピールが強い人を、彼はとにかく嫌ったのです。

 そして私は、兼好が今の世にいたら、さぞかし生きにくいであろうなぁと思うのでした。今の時代、ちょっと古風な渋い家など建てようとしたら、いかにも新築というピカピカの家を建てるよりも、ずっとお金がかかる。誰かを評価する時でも、
「あの人にはできないことも、私にはできます」
 くらいの自己アピールをしなくては、仕事の場では評価されない。ましてや、
「ええと、はっきりとは知らないんですけどね」
 などと仕事の場で言っていたら、自分に自信が無い人と見なされて、重要な仕事はまかされないことでしょう。

 ピカピカの家とか、強い自己主張とか、自信あり気な態度がよしとされる気風は、アメリカから輸入されたものです。含羞とか謙遜みたいな姿勢を堅持していたのでは、国際化の時代に生き残っていけないからこそ、日本人もアメリカ風の姿勢を身につけていった。

 アメリカっぽい人というのは、おそらく兼好の時代にもいたはずです。受け入れられずに寂しい、という感覚が「わびし」という言葉の元にはあると最初に記しましたが、兼好がアメリカっぽい人と会った時に感じたのは、相手のセンスと自分のセンスが決して交わることはない、という感覚なのではないか。それはつまり、相手を受け入れることができず、だからこそ相手からも受け入れられないという一種の寂しさなのであり、だからこそ兼好はその手の事や人に遭遇した時、「わびし」と記したのでしょう。「ダッセー!」という意味での「わびし」の裏にも、寂しさは隠し味として存在するのです。

 今の世では、アメリカっぽい人の方が立派と言われ、出世するようになってきました。しかし私は、その手の人を見て「わびし」と思ってしまうタイプなのであって、そこで感じるのはやはり、一抹の寂しさ。もう少し昔に生まれていた方がよかったのかもなぁと、たまに思います。

「徒然草 REMIX」 その8 酒井 順子

2016年03月13日 22時04分14秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その5 「わびし」その1 P-63

 前略

 ここで兼好が「わびし」としているのは、「俺はこんな風にスゴイけど、あの人はあんな風にダメだよね」という風に自分を引き合いに出す言い方なのでしょう。相手を貶(おとし)めることによって自分の優位性を確認するような行為を兼好は「ダッセー」と思ったのではないか。

 しかし同時に、「俺はこんな風にダメだけれど、その点あの人はスゴイよね」という風に自分を引き合いに出すやり方も、兼好はあまり好まなかったのかもしれません。あえて自己評価を低くして誰かを持ち上げることの臭みをも、兼好は感じ取ったに違いないのですから。

 会話というのは、センスです。話し方にその人の「品」というものが表れてしまうのは、なにも言葉使いにおいてだけではない。「ちょっと出掛けただけでも、今日あったことを息つく暇なく話したりする」人の品の無さ、という記述を見ると、今の世のブログやツイッターにおける「こんなに素敵な、私の毎日の暮らし」アピールを見たら、兼好さんは何と言うか・・・と、思うものです。

 兼好にとって、「俺が」「私が」という自己アピールは、「わびし」いもの、つまりダサいのです。誰かから美点を発見されるのはやぶさかでないけれど、「俺を発見しろ!」と主張する人を見ると、「わびし」となる。