今日は頭痛こそなかったものの、体にはだるさが残っていておとなしく過ごしていました。
最近ではもうそんなのも慣れ増したが、最初の頃は・・・
まぁ最初とはいっても、もう20年近くも前になりますが、
「どうして自分だけこんな目にあうんだろう?」
そう思っていた時期が私にも例外なくあり、
運命っていうものをとても残酷に感じていました。
どうして人は平等ではないのだろうかと
生活に差があるのは仕方がないことなのだと割り切れます。
生まれた時からたくさんのものを与えられる人も居れば、何も持っていない人も居て、それは生きる過程で変化していくものでもあり、そうやって世の中は成り立っているから。
だったらどうして健康でいられることくらい平等ではないのか、普通ではないのか、それが納得いきませんでした。
でもそんなものは初めからありません。
運命も平等も普通も、実際にそれらはありませんでした。
人は初めから決められた道を歩くのではなく、与えられた道を歩くのでもなく、同じ道を歩くわけでもありません。
ですが、どんな人でも行き着く先は決まっていて、それだけは平等に与えられています。
人は生きる太さでもなければ、長さでもなく、しかし使命は持っていると感じます。
長生きすることこそが使命の者もいれば、例え生きる時間が短くても人に多くの事を残す者もいる
それにより、人から人へ大切なことが伝わっていきます。
私はそう思います。
あえて伝えようとしなくても、それは自然に伝わっていくものなんです。
だからわずか数日の命も、百年の命も、それらの重さに変わりはありません。
大切なのは、生きる者がそれを感じること
人の使命を感じること
だからこそ間違って伝えてはいけない
また次の者が迷うことになってしまうから
人の使命は常に自分と共にある。
日々の日常の中に
FAKEさんの人生ですものね
大事に生き抜く
試練があるからこそ深く考えられるFAKEさんでもあるわけだし
繋がる人々みなにとっても大切な日々だと思います
自分だけがという事はないのですよね、皆同じく乗り越える物がありますから。
私も繋がる人々と大切な日々を過ごさせていただき、感謝しています。
生きた時間の秒数や、やったことのリストの長さじゃなくて、早くても遅くても、どんな死に方でも、本人が「ああ、よかったな」と思えたら、いいかもって今でも思います、病気のことも含めて。なんとなく。
「よかった」と思えるようになれると、どんなに幸せでしょう。
そうなれるように私もがんばりまーす。