今日、我が県の高校野球県予選が始まった。
その中で始球式を務めたバッテリーの二人と、一人の女子マネージャー
昨年試合に出場していたが、3年生が引退。
残された2年生3人のうち1人が別の部活へ移籍
それから残されたたった二人の選手と一人のマネージャーだけで一年間野球部として練習してきた。
そして迎える県大会
助っ人の寄せ集めチームとして出る選択もあったが、一緒に練習していなければ連係プレーが出来ないという理由で出場を辞退することとなった。
しかしそんな彼らに始球式の依頼がくる。
とても粋なはからいである。
そして迎える始球式を前にマネージャーは言ったそうだ
「最後に3人で同じグラウンドに立てる。それが一番うれしい」
それ以上の言葉はないだろう。
そして今日、彼らの一球だけの夏が終わった。
今日はやや不調の日
なんだか嫌になるようなことが最近目だって見えてしまう
ホントは日常的なことなんだけどね
人は誰もが弱みを握り、握られながら生きていて、
そのバランスは微妙な距離を保ちながら日々生活をしているが、
時として僅かなきっかけからそれが崩れ落ちてしまう。
仕事から考えるとわかりやすい。
雇用者と労働者の関係
これもまた弱みであり、強みなのだ
働かせている
働いてもらっている
働いてやっている
働かせてもらっている
この四つの意識は強みと弱みのバランスなのだ
ほんとはね、お互いに働いてもらっていて、働かせてもらっているという意識なら、多分もっとも理想的で、お互いが助け合える関係が出来るのだろうが、
実際にはなかなかそうはならず、
それ以外の組み合わせは全てどこかに不満が出来てしまうのだ。
思いやりに欠けてしまうから
そういうのが客と店の関係でも、時には親類や仲間内、家族間でも起こっていて、
そういうのが見え始めると、
自分がそこにいる理由を失いそうになる。
誰よりも優位に立ちたいと思う意識がみんなとても強い。
募金活動に協力している一方で、
身近な人に辛く当たる人がたくさんいる。
思いやるっていうのは全てに平等ではないのか
人の弱みをつつく世の中にはもう居たくない。
厳しいのはかまわない
時として怒ることも必要だろう
だが弱みをつつくような言動をあまりにも軽々しく使いすぎている。
平和を愛するフリをして、身近な人間を言葉で傷つける。
今この地は、それが溢れている。
愛のない平和
それに意味はあるのだろうか
一人の薬屋の主が、今静かに店の看板をおろそうとしていた。
そこに一人の男が歩いてきて声をかける。
「やー、薬屋のじーさん。なにをしてるんだい?」
薬屋は答える
「わしももう年じゃ、もう店は閉める事にしたよ」
男は明るく言った
「なら俺にやらせてくれよ、薬なんか山から草を採ってきて混ぜるだけだろ、誰にでもできるじゃないか。仕入れもいらないしぼろ儲けだろ」
薬屋は男に聞いた
「おまえさんは病気になったことがあるのかい?」
男は答えた
「いいや、ないね。あんなもの弱いやつがなるもんさ。」
薬屋は呆れてしまった
「でもいきなり薬屋にはなれんよ、少しは勉強せねばな」
男は諦めなかった
「じゃ、三日後に万能薬でも作ってもってくるから、そしたらこの店を俺にくれよ」
そういい残して男は去った
それから三日後、男は死んだ
薬屋は、男は自分で採ってきた毒草を飲んで死んだという噂を後から聞いた。
しばらくしてから薬屋は男の墓に言った。
そして墓の前で話し始めた。
「わしは50年間薬屋一筋でやってきたが、おまえさんのおかげで一つだけ心残りが出来た」
薬屋はしばらく黙って墓を見下ろして、最後に口を開いた。
「どうして馬鹿に効く薬を発明しなかったんだろうか」
そういい残すと、薬屋は去って行った。