ビニール傘を一本片手に持って(途中から降って来たから、大正解だった!)ブラブラと河原を徘徊。桜の枯れ葉が大量に落ちている。それだけ大量にもかかわらず、ほんと、虫穴のない、色づいた枯れ葉を、今年は一枚も探せない。
去年や一昨年とは、大きな違いだ。
先日のスカットジャパン(?)とかいう番組で、態度の悪いウエイターに、ジュディーオング扮する女性客が「これを言いがかりというのよ!」とやっつけて、ウエイターをぎゃふんと言わせ、スカットするという話だったが、あの短い物語で、一番悪い人物は誰でしょう?
それは、デート中の若い女の子だ。店に入って来たとき店内を眺め渡して「ねえ、素敵な店でしょ。私一度来てみたかったんだ。」と言う。
しかも、不愉快なサービスを受けながら料理が出てくると「わあ、おいしそう」などと、アホを重ねる。
雑誌で紹介記事を読んだのか、外から店内を見て知っていたのか、「ねえ、素敵な店でしょ?」というだけで、アホを証明している。そりゃ店舗内装のデザイナーが、職業的な観点で店づくりの内装を褒めたのならいいが、レストランを利用する客として入って来た以上、そこが「素敵」かどうかは、まず料理、店員の接客サービス、そして、それにマッチした店内、という話になるのだ。
水を持ってきたウエイターの態度だけで、その店の料理がどんなものか、それこそ0.3秒で判断できる。そんな接客しか出来ない従業員を雇っているか、教育できない経営者、あるいは料理長に、美味いものを作れるわけがない。そんなところに、10円だってお金を落としちゃいけないのだ。
即「出るぞ!」と、席を立たないデート相手の男の子は、これもまた、無論情けないが、今に始まった無精子日本男性ではない。ウエイターの態度ばかり批判される話だが、そんな店を「素敵」といい、裏側でどんな材料で、どんな料理を作っているか、それこそ「計り知れない」(そんな態度の接客をボーイに許している店だから、何があっても不思議ではない。)のだ。
そんなものは、時代には何の関係もない。昔も今も同じだ。それを見ただけで「おいしそう!」は、まあ、誰でもいいそうだから、許すとして、何が旨いのかねえ、私にゃ、そのデートする二人の将来も、彼らが親になって、育つ子供も、「うまくない」としか思えないね。
去年や一昨年とは、大きな違いだ。
先日のスカットジャパン(?)とかいう番組で、態度の悪いウエイターに、ジュディーオング扮する女性客が「これを言いがかりというのよ!」とやっつけて、ウエイターをぎゃふんと言わせ、スカットするという話だったが、あの短い物語で、一番悪い人物は誰でしょう?
それは、デート中の若い女の子だ。店に入って来たとき店内を眺め渡して「ねえ、素敵な店でしょ。私一度来てみたかったんだ。」と言う。
しかも、不愉快なサービスを受けながら料理が出てくると「わあ、おいしそう」などと、アホを重ねる。
雑誌で紹介記事を読んだのか、外から店内を見て知っていたのか、「ねえ、素敵な店でしょ?」というだけで、アホを証明している。そりゃ店舗内装のデザイナーが、職業的な観点で店づくりの内装を褒めたのならいいが、レストランを利用する客として入って来た以上、そこが「素敵」かどうかは、まず料理、店員の接客サービス、そして、それにマッチした店内、という話になるのだ。
水を持ってきたウエイターの態度だけで、その店の料理がどんなものか、それこそ0.3秒で判断できる。そんな接客しか出来ない従業員を雇っているか、教育できない経営者、あるいは料理長に、美味いものを作れるわけがない。そんなところに、10円だってお金を落としちゃいけないのだ。
即「出るぞ!」と、席を立たないデート相手の男の子は、これもまた、無論情けないが、今に始まった無精子日本男性ではない。ウエイターの態度ばかり批判される話だが、そんな店を「素敵」といい、裏側でどんな材料で、どんな料理を作っているか、それこそ「計り知れない」(そんな態度の接客をボーイに許している店だから、何があっても不思議ではない。)のだ。
そんなものは、時代には何の関係もない。昔も今も同じだ。それを見ただけで「おいしそう!」は、まあ、誰でもいいそうだから、許すとして、何が旨いのかねえ、私にゃ、そのデートする二人の将来も、彼らが親になって、育つ子供も、「うまくない」としか思えないね。