山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

雪空ゆるがして鴨らが白みゆく海へ

2005-02-03 03:43:02 | 文化・芸術
ichibun98-1127-061-1

<歩々到着> - 1

 無駄に無駄を重ねたやうな一生だつた
 それに酒をたえず注いで
 そこから句が生まれたやうな一生だつた。


漂白放浪の俳人山頭火が、その晩年、日記のなかに記した述懐である。
山頭火の放浪日記は、「行乞記」と名づけられ、昭和5年以後のものからが現存している。
それ以前の日記は、何故かは判らないけれど、みずから焼き捨てている。


「焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか」

「行乞記」を書き始めてから数日後、
昭和5年9月14日の記に、
 晴、朝夕の涼しさ、日中の暑さ、人吉町、宮川屋
球磨川づたひに五里歩いた、水も山もうつくしかつた、筧の水を何杯飲んだことだらう。
一勝地で泊るつもりだつたが、汽車でこゝまで来た、やつぱりさみしい、さみしい。
郵便局で留置の書信七通受取る、友の温情は何物よりも嬉しい、読んでゐるうちにほろりとする。
魚乞相があまりよくない、句も出来ない、そして追憶が乱れ雲のやうに胸中を右往左往して困る。
‥‥‥‥
熊本を出発するとき、これまでの日記や手記はすべて焼き捨てゝしまつたが、記憶に残つた句を整理した。
云々とある。


「旅人とわが名呼ばれん初時雨」
或は
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
昭和の芭蕉を目指したか、
山頭火とすれば旅を棲家と放浪すべく不退転の決意で出立したのだろう。
その決意が、几帳面なほどに書き溜めてきたそれまでの日記いっさいを焼き捨てさせた。


種田山頭火 本名、種田正一。
明治15年12月3日、現在の山口県防府市八王子に生まれた。
父竹治郎は27歳、母フサは23歳であった。
一歳年長の姉フサ(何故か母と同名)、三歳下に妹シズ、五歳下に弟二郎、
七歳下に弟信一と、祖母ツル。
生家は近隣から大種田と呼ばれた富豪で、敷地は850坪余だったという。
父の竹治郎は、祖父の早世によって、明治4年、十六歳で家督相続している。
竹治郎が戸主となった翌年の明治5年には、
田地永代売買の禁が解かれ、
さらに、明治6年には、
地租改正の条例が公布されている。
封建制度からの脱却として、土地の個人所有及び売買が容認され、
地主には地価に対する租税が賦課され金納となった訳である。
当時、概ね収入の三割近くもの地租だったというから、
この現金による納入に、地主たちはいつも金策に忙しかったろう。
やがて彼らは米相場に一喜一憂する商人と移り変わってゆく。
大種田と呼ばれ、近在に鳴り響いた富豪の大地主も、
若くして惣領となった竹治郎の相場での失敗や、
彼の遊蕩が因となって衰退してゆくことになる。