山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

壁をまともに何考えてゐた

2005-02-07 13:30:56 | 文化・芸術
1998080200017-1

<LETTER OF GRAND ZERO―世界のサダコたちへー>

レター・オブ・グランド・ゼロの演出にあたり
ポストコロニアリズムについて以前にも掲載紹介したが
あらためてここに、日本の近代から現代-明治維新から終戦後の60年-に通底する
植民地主義の意識と無意識を抉り出したすぐれて刺激的な小論を紹介したい。
私自身の言葉で要約するなど到底叶うべくもなく、些か煩瑣ではあろうが、
以下は、論旨に沿った引用抜粋のみで構成する。


<日本の植民地主義・帝国主義への構造的批判>
 - 小森陽一 作品社刊「ポストコロニアリズム」所収

・近代日本の成立-「自己植民地化」のプロセス

安政五カ国条約という不平等条約によって開国した日本は、「万国公法」と名付けられた国際法の支配する世界システムに参入した。
この万国公法は世界を二つに分断してしまった。
欧米列強を中心とするキリスト教国を「文明国」として特権化し、その他の地域を「野蛮」な「未開国」と位置づけた。
「文明国」が「未開国」の領土を、「無主の地」として領有支配する植民地主義を正当化した。


欧米列強という他者の論理を、事実上は強制されているにもかかわらず、自発性を装いながらその他者の論理を模倣・擬態し、あたかもその他者の論理を内面化し完全に実践できるかのようにふるまえる方向で自己改革するプロセスを、「自己植民地化」と名付けている。
その意味で「文明開化」と「富国強兵」政策は、欧米列強の論理に基づく徹底した「自己植民地化」政索だった。


文明と野蛮に世界を分断し、包摂と排除を反覆再生産していく「万国公法」システムの中で、未だ文明国ではない日本を、しかし未開国=野蛮でもないと位置づける論理を編み出したのが、福沢諭吉の「文明論之概略」(1874年)であった。
福沢は「今、世界の文明を論ずるに、欧羅巴諸国並に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古(トルコ)、支那、日本等、亜細亜の諸国を半開の国と称し、阿弗利加(アフリカ)及び墺太利亜(オーストラリア)等を目して野蛮の国といい、(-略-)」と社会進化論的な発展段階説に基づきながら、「文明」「半開」「野蛮」の三段階を規定し、日本を「半開」に位置づけている。
福沢の「半開」論は、次のような強迫観念を潜在させることになる。
すなわち「半開」は「文明」という他者としての鏡に自己を映し、「文明」の基準にしたがって自己像を形成し、「文明」の側からその進化を認知されない限り「半開」たりえない。だからこそ「半開」が「未開」や「野蛮」と見做され「文明」の奴隷にならないためには、もう一方の他者としての鏡である「未開」ないし「野蛮」を発見するか捏造して、そこに自己像を映しながら、彼らと比べれば自分たちは十分に「文明」に属しているのだ、ということをつねに自己確認しながら言い張っていくしかない。しかもこの二つの鏡像は同時に構成されなければならない。
ここに開国後の日本が「植民地的無意識」と「植民地主義的意識」とを、常に対になった裏表の関係として構造化しなければならなかった要因がある。
しかも、この「殖民地主義的意識」に基づく植民地化は、連続的に反覆されなければならない。
なぜなら、植民地主義的な支配が遂行され、自国の領土となってしまえば、鏡像としての機能は失われてしまい、新たな植民地化へと向かわなければならないから。
日本の植民地化において、過剰な「同化政策」=「皇民化政策」がとられた最大の要因である。


1869(明治2)年、明治政府は「北海道開拓史」を創設、現住の民アイヌを臣民と化し、無主の地を「北海道」として植民地化。
1879(明治12)年、「琉球処分」によって「沖縄」が、
1895(明治28)年、日清戦争によって台湾が、
1910(明治43)年、日露戦争によって朝鮮が植民地化されていった。
そのすべての地域で徹底した「同化」=「皇民化」政策が実施されていった。
そして、1931(昭和6)年、「満州事変」以後、満州の植民地化から十五年戦争、そして太平洋戦争へと雪崩れこんでいく。


・戦後-「植民地主義的意識」の忘却と「新植民地的無意識」の形成

80年近くにわたる日本の植民地主義は、敗戦という外側からの力によって断ち切られた。
「ポツダム宣言」を受諾した「終戦の詔勅」(玉音放送)では「米英二国」に対する戦争にしか触れておらず、中国に対する侵略戦争については一切触れられていない。
「終戦の詔勅」は、第一次世界大戦以後略取した南洋諸島、台湾と満州、朝鮮半島を解放することを宣言した「カイロ宣言」を無視ないしは隠蔽しているのである。


GHQの占領政策の中、日本国民の多くは、嘗てあった植民地支配の記憶を忘却し、引き揚げ時の被害者意識や戦後の混乱のなかで、植民地支配の責任を取ることについて思考停止し、嘗ての「植民地主義的意識」の存在自体を無意識の淵に落とし、いわば「植民地的無意識」を構造化していったのである。
こうした状況をもたらした最大の要因は、すべての侵略戦争と植民地支配の最高責任者であった大元帥天皇、昭和天皇ヒロヒトの責任を免罪したところにあった。
「国体」の護持、昭和天皇ヒロヒトを生き延びさせることが、終戦にあたっての死守すべき課題となって、1945年7月26日に連合国から出された「ポツダム宣言」の受諾が、8月14日深夜まで引き延ばされたがために、8月に入ってソ連の参戦を招き、その結果、朝鮮半島における日本軍の武装解除を、38度線以北をソ連軍が、以南をアメリカ軍が担当し、南北に朝鮮が分断される要因となって、朝鮮戦争をもたらしたのである。さらには8月6日の広島、9日の長崎の原爆投下も回避できたかもしれないのだ。


「国体」としての天皇制護持を最優先した日本の支配層と、占領政策の基本路線としての日本の非軍事化と民主化を要請する、マッカーサーとの間の「談合的取引」は、1条から8条までの「象徴天皇制条項」と9条の「戦争放棄」条項とを抱き合わせ、新憲法に実現したのである。

昭和天皇ヒロヒトの戦争責任を免罪した、「日米談合象徴天皇制民主主義」体制の中で、戦後賠償を中心とした、戦後責任と贖罪の契機が、国民的な規模で欠落させられることになった。
冷戦構造の中における日本の反共基地化をめざすアメリカの、賠償請求権の放棄という講和政索の中で、日本の当局者は、戦争責任と戦後責任を直視せず、値切りと延滞を基本路線とする外交交渉を、羞恥心を抱くことなく進めることができたのである。


嘗ての植民地支配ないしは軍政支配を受けていた地域の人々の犠牲のうえに敗戦後の経済復興があり得たにもかかわらず、自分たちの努力だけでなしえたものと錯覚し、「神武景気・イザナミ景気」や「イワト景気」と名付け得るような無神経さを露呈しつつ、好景気を享受してきたのだ。

敗戦後の日本は、自らの戦争責任と戦後責任、および植民地侵略と支配に対する責任を回避し、「高度経済成長」を推進する条件を整えつつ実践し、アメリカを中心としたアジア地域における新植民地主義の代理人的役割(エージェント)を果たしつづけたのである。
ヴェトナムもインドネシアも、第二次大戦後も続いた植民地脱却の戦いのなかに置かれたつづけたゆえに、日本への持続的な賠償請求交渉を行えなかったのであり、彼らの犠牲のうえに「高度経済成長」が成ったということを銘記しておかねばならない。