山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

雲がいそいで良い月にする

2005-02-09 14:11:36 | 文化・芸術
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<エコログのなかのある対話から-その3>


なかなか四方館さんはエコログ書かれるペースが速くて、内容が深いのですぐには追いつけず・・。ぼちぼち読ませていただきます。

「旧いノートより」とのことですが、いつもながら、四方館さんの言語表現→もっとさかのぼっては現実の捉え方の的確さには驚くべきものがあります。それこそ現象学的記述ですね。

異なる障害をもつ人たちが、集まって一緒に身体表現をステージの上でおこなう。彼らの多くの共同性や共通認識が「一般」からははずれており、また彼ら同士でも障害が異なるのだから、共同性は生まれにくい、といった見方をなさったようですが、この「共同性」「共通認識」まとめていえば、四方館さんが挙げられた通りの、「コモン・センス」には、いろんな次元があると思うのですよ。

それこそ、統合失調症患者の基礎障害を純粋に示す患者として紹介さ れた例のアンネ・ラウも、彼女がコモン・センスを欠いていたか、といえば、ある上層次元では欠いていたけれども、深層次元ではけっして欠いていなかったはずで(いや、上層と深層は、逆かもしれません、まだ考え中です)、そうでなければ一般の読者にあれだけ通じる普遍的な言葉で自らの障害を伝え得なかったでしょう。彼女は多いに共通感覚を持っていたと思います。人との共同性にも生きえた、共通認識ももっていた、けれども、「人と共通の土台」に立てなかった部 分が確かに、大いにあった。そして私も、特にアンネ・ラウ論文を書いた26歳当時は。

土台、と書きましたが、他の身体などの障害をもつ人たちにとっても、この土台、の一つの目だった場所として、「舞台(ステージ)」に立つ、違う者どうしの皆で立つ、ということは、それだけで重要なことではないかな、と思いました。

身体訓練や即興的な課題、本番での彼ら一人一人の「固有性」。彼ら自身は、多分、この固有性の中に、固有性から出発して、自分たちが他者らとつながれる、という可能性を感じ得ないかもしれません。ですが、四方館さんら見守る周囲の人たちには、「それぞれ固有なものの中にこそ、またそこから感得できる人間の普 遍性」のようなものが、様式・かたちとして、見出せるのじゃないかなーと想像するのです。

何が固有で何が非固有かって、そういえば私は大学院入試論文で、「主体における個別と共同」なんて変なテーマで考察したんですが、徹底して固有と思っているものの中にも、非固有性、「固有な自分が自分 でなくなる地点」が現れ出てくるんですね。自分が「消える」と言ってもいい。このへんは、卒業論文書いていてわかったことですが(論文の話はどうでもいいんですが)。

だから、結論的には、「固有な表現」ということにこだわる必要さえないのかもしれない、ということを思います。演劇、舞台表現というものは、つまるところ、表現の固有性をめざすのか、できるだけ多くの人の心に響く(届く)ものをめざすのか、どちらなんでしょう? また両者は、かなり近いところにあるんでしょうか? きっとそうでしょうね。
(2004/11/29 11:44)


四方館
深夜、コメントの返信を書いたのに、
ブラウザのトラブルでアップロードできなかった。
原稿も消えてしまった。参ったな。
あらためて。


Yさんのコメント、見事な、画期の一文と読みました。
>統合失調症患者の基礎障害を純粋に示す患者として紹介された例のアンネ・ラウも、彼女がコモン・センスを欠いていたか、といえば、ある上層次元では欠いていたけれども、深層次元ではけっして欠いていなかったはず-
さらに続けて、彼女が大いに共通感覚を持っていたし、人との共同性にも生きえた。ただ「人と共通の土台」に立てなかった部分が確かに、大いにあった。という視点、この認識でアンネ・ラゥを捉えていたことは、凄いの一語につきます。
そしてあなたは、精神障害者へのこの認識を、他の障害者、肢体不自由、ダウン症、自閉症など、知的障害も含めた身障者の世界に敷衍していく。
まったく言葉というものを持たない、いっさい言葉を発語することのない障害者だとしても、深層における共通感覚、人との共同性があるはず、と。 
そう、そのとおりだと私も思います。


ただこのことは立証可能かと云うと、どうなんだろう。いずれ脳科学の世界でありうるのかも知れない。だけど現在のところどんなに先端の知に問うたとしても、確たることはなにも言えないだろう。
この認識は<信>に似たものとしかいいようがないんじゃないか、と。
そう、この<信>に似たものへ仮託して、彼らの深層の共通感覚、共同性に、共鳴というよりは共振というほうが相応しいような気がするが、そこに響きあうような表出世界がありうるんじゃないか、と。
そういう作業として取り組めるんじゃないかと思いつつ、彼らに関わっていたと思います。


固有と非固有、
>徹底して固有と思っているものの中にも、非固有性、「固有な自分が自分でなくなる地点」が現れ出てくるんですね。- という地点について私は経験的に知る由もないのだが、ありうることだと思われる。
>自分が「消える」-との謂いにまでおよぶと、凝然として立ちすくむしかない。


これは余談だけれど、私は一卵性双生児として生まれ育っているのですよ。
まったく同じ遺伝子を持ったものが、お互いずっと顔つき合わせて育ってきた訳。
小学生くらいまでは、親もお揃いを着せようとするから、他人はおろか親や兄弟までよく見ないと間違える。中学・高校は制服だから、なにをか況や。
大学こそ違えたけれど、高校卒業までずっと一緒だった。もちろん寝室まで一つ部屋。
だから私自身の固有性というものは、まず双子の相手-もっとも近しい他者との、ちょっとした違いを拾い出していくことから出発していることになる。
成人する頃までそんな日常性だから、良くも悪くも、もっとも近しい他者とのあいだにある<親和力>みたいなものに包まれるようにずっと居たんだね。
その反動で、成人後の40年は、お互い別々に、とても突っ張って生きてきた、という感じ。
これ、笑い話くらいにしかならないけれど、そういうことなんです。


最後の、固有な表現について、
演劇であれなんであれ、表現者はみずからの固有の表現になんとしても拘りつづけるものです。
但し、その求める固有の表現は、同時に、できるだけ多くの人の心に響くもの、言い換えれば、多くの人々の無意識に通底して共鳴しうる世界をめざしているものだ、と思っています。
(2004/11/30 12:47)



こんにちは。お疲れ様です。再度アップロード、有難うございます。いえいえ四方館さんが、まず個々のエコログでずばりと鋭いことを書かれて、それに対して私がプラスになる(この言葉(プラス・マイナス)嫌いなんで、contribution(寄与、貢献)と言いましょうか)になるかと思われる考えを、それも元々考えていた内容を書かせてもらう機会をいただいているだけなんです。

それはもう、まだ短いお付き合いですが、自分のエコログ以上に、四方館さんの多くのエコログの一つ一つが読めて、コメントを書けたほうが私には個人的にはすごくためになっていると思います。

それで、人との共通感覚、共同性は、つまるところ、四方館さんのおっしゃる通り、「信」に似たもの、というか、「信」(共通している、共同性の内に在ると信じられること)そのものが大きく支配していると思うのです。この「信」の次元を果たして脳科学が解明できるのか、やっぱり無理なんでしょうね。

固有と非固有、というので経験的になかなか近づきがたいのでしたら、最初に出しちゃいますが、西田幾多郎ですね、個の中に普遍を見出す、という立場で考え抜いたひとりですね。精神病理学者の木村敏氏も、生涯その立場を貫いておられます。

だから、木村氏が個別の患者さんの中に普遍性を見出そうとしたように、四方館さんは徹底的に、個別な演劇(活動)の中に、普遍性を見出す、というより、観客らに感じ取ってもらう、という方針でいかれたらいいと思いますし、その意味で、表現者は自らの固有の表現になんとしてもこだわり続ける、とおっしゃることは、もちろんその通りだと思うのです。

ただ、趣向をちょっと変えて言ってみますね。「愛しています」という、愛する人に伝える言葉、この言葉をどんな風にどんな表現形態で発しても、本当に「私だけの愛の表現よ。」と言い切れるかどうか。あるいは、いつもやっている日常生活動作(これ、社会 福祉の用語です。)どれを取っても、それが「私」「その人」固有な動作だと、どこまで言い切れるか。

これは、人の経験はすべて「(他者の)模倣」から始まる、といった次元で話しているのではありません、それは当然のことでしょうしね。でも人生は、演劇は創造じゃないかって思いますよね、もちろん。

結局、その劇「だけ」の、「固有な」表現にこだわるのさえ、やめてみませんか、という刺激的な(?)誘いかけをしているのですよ、私は。つまり、固有な、ここにしかない劇を創り上げる、という意味での創造性に縛られるよりも、それさえ捨てる、平凡な一市民でいいじゃありませんか、その意味でいう平凡な劇に成っていいじゃありませんか、ということなんです。

もちろん乱暴すぎる発言で、実際の表現活動はすべて、自分(たち)固有のものをと思 い、またそうでしかありえないんですが、どんな固有なものを創ってもそこに平凡さを感じられるくらいの非凡さ、かな?それを観られると、表現活動の呪縛のようなものからは解放される気がするのです、たとえば台詞・動作ひとつとっても。

それから、奇遇ですね、私の夫は二卵性双生児の兄で、また外見が見事に、全然似ておりません。皆がびっくりするのです。けれども夫には子ども時代から今まで、一番の身近な友達が双子の弟だったようで、二人とも 近い分野の学者になり、同じ日に博士号を取得しましたが、夫には実はそれ以外に親しい友達というのがほとんどいないんですね。

四方館さんの場合は、双子のきょうだいの方と少しでも違いを見出していかねばならないながらも、最も近しい他者との間の「親和力」に包まれてもいらっしゃった。夫の場合はどうなんだろう。双子の弟がきょうだいであり一番の友達だったから、他に残すべき友達も、要らなかったんでしょうね。実際、友達要らない、といったようなことを言ってますし。(ゆえに私、Yしか居ないのですよ。そういった事情です、端的に言えば。)

とにかく、平凡に価値を見出す、ということを演劇でもあえて実践できませんか、というのがお話の要点です。心の態度だけの問題かもしれません。でも、皆が皆、アイデンティティとか言っている昨今で、アイデンティティを捨てるというのはひとつ、いい案でしょう。私自身が、そして夫はとっくに、そうなのですが。

私も四方館さんも、絶対に思索者ではなく、実践に生きるタイプである、ということは間違いなさそうですね。そう思っております。
(2004/12/01 13:31)


四方館
固有・非固有について、ちょっと議論が噛み合いにくいなって感がありますね。

昔、安部公房が周辺飛行と云うエッセイを書いていた。
彼は小説だけでなく「幽霊はここにいる」とかいくつか戯曲も書いている。
一時期、演劇好きが嵩じて、劇団づくりに手を染めたんだね。周辺飛行というのは彼流の役者のためのメソッドというか方法論について書いたものなんだけれど。
ここで彼はしきりに「neutral」ってコトバを強調していた。役者ってのはとにかく心身の状態をneutralな状態におくこと。演技はそこから始まるんだと。
彼の演劇における実践は、寺山修司ほどの話題を集めなかったけれどね。そりゃ、時代感覚からいくと寺山修司の「特権的肉体論」のほうがずっとセンセーショナルで前衛的だったからね。安部公房の演劇観は小説の世界に比べればずっと穏健でオーソドックスだ。


で、neutralの問題。これは私にとっては、ごくあたりまえのことだよ、と受け止めた。
すでにK師のもとで5.6年は経験を積んでいたし、元来、身体ってのはだれでも心以上に、制度的で、習慣的で、どんなに塵芥-からだの癖-がこびりついているかってことを、いやというほど知っていたからね。


役者にしろ、踊り手にしろ、およそ自分自身を観客に曝け出して成立させる表現とは、その者がどんな場合でも、安部公房の言葉ならneutral、私なら <素>の状態、日常のということではなく、本来的な、まったく癖のない<素>の状態から生み出されなくちゃダメなんだ、と。もちろん完全なる neutral、<素>なんてものは現実にはあり得ないから、あくまでそれを目指す。

<技>の次元の問題と云うのは、身体表現にかかわらず、すべ からく<身体>を媒介にするわけで、そこではよく禅問答みたいになるけれど、<無心>になれ、<無の境地>になれといいますね。これは<心>の問題であるだけでなく同時に<身体>の問題でも当然あるわけで、言い換えると<心-身>において要請されていることですね。
「どんな固有なものを創ってもそこに平凡さを感じられるくらいの非凡さ」や
「それを観られると、表現活動の呪縛のようなものからは解放される気がするのです」
との言質であなたが言わんとするところを、このあたりの問題として捉えるなら、私はまったく異議なしで、表現者とは、いくらベテランになっても、どんなにその道に精通しても、絶えず<心-身>において<無-空>に立ち返り、そこから始まるんだよ、と。


<固有の表現>なんて云ったって、その<固有性>というものは自我などというものからはもっとも遠く、むしろ対極にあるようなものなんだ、と。
そういう意味でなら、まさにそのとおりなんで、私らはずっとそうやってきている心算なんですね、あたりまえのこととして。
私は<表現>と云うのはすべて<技>の問題として捉えきらなくちゃダメだと考えているので、そこに還元できないところで、あなたが言われているとすると、噛み合わないのかなということになるんでしょうね。
(2004/12/02 00:02)



やっと来れました。

いえいえ、四方館さんのおっしゃっている通りですよ。私も演劇に関して何が言えるのか、まだわからないですし、そのうえで、四方館さんにここまで明確にお話していただくと、其の通りだと思えます。neutral、「素」の話だったんだと自分でも思います。

また、別エコログを読ませていただきますね。精神状況が地の底に落ちておりました。
(2004/12/04 06:22)