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エコログTB事務局詠子さんの「節分」にトラックバックしています。
今日のお題は、「節分」です。
<日々余話>
<鬼-考>
昨日は節分、大阪発祥の恵方巻きが全国にずいぶんひろがったらしい。
保育園でも、子どもたちを遊びに興じさせるため豆撒きをする。
迎えに行ったら、大きくて愛嬌たっぷりの鬼の面を頭から被って嬉しそうに出てきた。
保育士さんたち苦心の結晶だろうが、なかなか立派な仕上がりだ。
こんな鬼たちがいっぱい駆け回って、みんなで「鬼は外、福は内」とやったら、さぞ盛り上がったろう。子どもたちのはしゃぐ情景が眼に浮かぶ。
鬼という存在は、私たちにとって意外に郷愁の湧くものだと思う。
鬼ごっこもあったし、そういえば子ども時代の遊びに、鬼は欠かせないものだったのだから、なにやら懐かしく感じるのも当然か。
手許の仏教辞典のお世話になると、
<鬼>の字は、人の屍の風化した姿から成った、とあるから象形文字か。
中国では古来、心思を司る<魂>は昇天して<神>となり、肉体を主宰する<魄>は地上にとどまつて<鬼>となる。したがって一般に亡霊をいうことになる。
人の認識を超えて、人に働きかけてくる超人的作用の、忌避すべき観念につらなるもの。
インドの死者の霊<逝きし者>を訳して<鬼><餓鬼>というが、仏教の流入によって,「輪廻転生する鬼や、供養を受ける亡霊」の観念が生じた、とある。
そういえば、六道の一つに<餓鬼>が数えられ、<鬼界>ともいう。
<鬼界>とはなかなかにぎやかなものだ。夜叉、羅刹、牛頭、馬頭、赤鬼、青鬼など、いろいろござる。生霊・死霊の怨霊の類も鬼の一種であり、物の怪の類もまた鬼と重なる。
さらにいえば、我が国の<鬼>は<隠>であった。和語の<隠(おに)>が転訛したとされる。
隠れて見えないもの、常民社会の異界にあって不断は眼に見えないものだから、異邦人や山の民も鬼とされたのだ。
となれば、我が国の鬼文化は百花繚乱とも言うが相応しい世界だし、彼らの跳梁跋扈する狼藉ぶりも多彩きわまりなく咲き乱れる。八百万の神に比して、八百万の鬼が如くに斯々巷に出没してはさんざ活躍なさってきたのだ、といえよう。
神は目出度くとも劇的にはならず、鬼は怖けれどまた哀しくもあり、さればこそ劇的な存在となりえて、能・歌舞伎など伝統芸能にも、その出番たるや数知れず登場する。
「百鬼夜行絵巻」など、人の世なんかよりよほど豊かな世界だと、つくづく魅了されたものだ。
節分の豆撒きに限らず、鬼たちがいきいきと跋扈し活躍した伝承の数々を、肉化した文化としてもっともっと伝え遺していきたいものだ。