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-今日の独言- 官打チ
「官打チ」とは、官位が器量以上に高くなると、かえって苦労したり、不運な目に遭ったりすることをいう。無論、迷信・迷妄の類に過ぎないであろうが、平安期や鎌倉期の宮廷では本気で信じられていたようで、13世紀初葉、後鳥羽院は鎌倉の三代将軍実朝に対し、元久元(1204)年の従五位下から、たったの十年間で、建保元(1213)年には正二位にまで昇進させており、さらに甥の公暁に暗殺される建保7(1219)年の前年には、1月に権大納言、3月に左近衛大将、10月に内大臣、12月に右大臣と、めまぐるしいまでに昇任を与える。下記の後鳥羽院の歌解説にあるように、最勝四天王院が鎌倉方調伏のためとされる風聞がまことしやかに伝えられるのもむべなるかな。最勝四天王院障子和歌の成立は建永2(1207)年だが、計460首を数えた絢爛たる名所図と歌の競演の裏に、陰湿なる呪詛が籠められているのかもしれない。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<春-52>
おもひすてぬ草の宿りのはかなさも憂き身に似たる夕雲雀かな
宗祇
宗祇集、春、源盛卿許にて歌詠み侍りしに、夕雲雀。
邦雄曰く、世を捨てるつもりでいながら、さて浮世との縁の断ち切れぬ草庵の暮らし、天を恋いつつ鳴き上がって、夕暮ともなれば草生に隠れねばならぬ雲雀、このうつし身、あの春鳥、所詮は同じと溜息をつくように詠う。15世紀末の、古典を究めた高名の連歌師、さすがに和歌の秘奥もしかと体得して、申し分ない調べ。下句は発句にも変わりうる、と。
み吉野の高嶺の桜ちりにけり嵐も白き春のあけぼの 後鳥羽院
新古今集、春下、最勝四天王院の障子に、吉野山かきたる所。
邦雄曰く、京の東白河に建てられた後鳥羽院の勅願寺、最勝四天王院は、鎌倉の将軍実朝の調伏が目的との流説もある。承元元(1207)年、院27歳、鋭い三句切れといい、「嵐も白き」の胸もすくような秀句表現といい、一首は心なしか必殺の抒情とも呼ぶべき気魄に満ちている。結構を極めた寺院は12年後、実朝の死の直後に廃毀、翌々年承久の乱は勃発した、と。
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