山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

此比まで失せざらん花こそ

2005-02-10 00:17:12 | 文化・芸術
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風姿花伝にまねぶ-<8>

<四十四、五>

 此の比よりは、能の手立、大方替るべし。
 たとひ、天下に許され、能に得法(トクホウ)したりとも
 それにつきても、よき脇の為手(シテ)を持つべし。
 能は下らねども、力なく、やうやう年闌(タ)け行けば
 身の花も、よそ目の花も、失するなり。 
    (-略-)
 もし此の比まで失せざらん花こそ、まことの花にてはあるべけれ。
 それは、五十近くまで失せざらん花を持ちたる為手ならば
 四十以前に、天下の名望得つべし。
 たとひ天下の許されを得たる為手なりとも
 さやうの上手は、殊に我身を知るべければ、猶々脇の為手を嗜(タシナ)み
 さのみに身を砕きて、難の見ゆべき能をばすまじきなり。
 かやうに我身を知る心、得たる人の心なるべし。


先ず念頭に置かれているのは、四十代半ば以降は、十七、八の変声期ともまた異なる曲り角だということだ。
天下に名望の名手といえども、下り坂に向かうこの時期にはとりわけ、「よき脇の為手」たる達者な助演者が大切だというのである。
この指摘は要点を押さえたものといえる。
年を古にしたがい、往年の力なく、身の衰えにだんだんと進みゆく時期なれば、
身についた花も、よそ目の花も、消滅してゆくのが定めなのだが、
この「よそ目の花」がなくなったのちにこそ、「まことの花」を有する芸人か否かが明らかとなる訳で、
「もし此の比まで失せざらん花こそ、まことの花にてはあるべけれ」の一行は、
芸の道を歩む者の真価を問う厳然とした言といえるだろう。


  参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫

雲がいそいで良い月にする

2005-02-09 14:11:36 | 文化・芸術
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<エコログのなかのある対話から-その3>


なかなか四方館さんはエコログ書かれるペースが速くて、内容が深いのですぐには追いつけず・・。ぼちぼち読ませていただきます。

「旧いノートより」とのことですが、いつもながら、四方館さんの言語表現→もっとさかのぼっては現実の捉え方の的確さには驚くべきものがあります。それこそ現象学的記述ですね。

異なる障害をもつ人たちが、集まって一緒に身体表現をステージの上でおこなう。彼らの多くの共同性や共通認識が「一般」からははずれており、また彼ら同士でも障害が異なるのだから、共同性は生まれにくい、といった見方をなさったようですが、この「共同性」「共通認識」まとめていえば、四方館さんが挙げられた通りの、「コモン・センス」には、いろんな次元があると思うのですよ。

それこそ、統合失調症患者の基礎障害を純粋に示す患者として紹介さ れた例のアンネ・ラウも、彼女がコモン・センスを欠いていたか、といえば、ある上層次元では欠いていたけれども、深層次元ではけっして欠いていなかったはずで(いや、上層と深層は、逆かもしれません、まだ考え中です)、そうでなければ一般の読者にあれだけ通じる普遍的な言葉で自らの障害を伝え得なかったでしょう。彼女は多いに共通感覚を持っていたと思います。人との共同性にも生きえた、共通認識ももっていた、けれども、「人と共通の土台」に立てなかった部 分が確かに、大いにあった。そして私も、特にアンネ・ラウ論文を書いた26歳当時は。

土台、と書きましたが、他の身体などの障害をもつ人たちにとっても、この土台、の一つの目だった場所として、「舞台(ステージ)」に立つ、違う者どうしの皆で立つ、ということは、それだけで重要なことではないかな、と思いました。

身体訓練や即興的な課題、本番での彼ら一人一人の「固有性」。彼ら自身は、多分、この固有性の中に、固有性から出発して、自分たちが他者らとつながれる、という可能性を感じ得ないかもしれません。ですが、四方館さんら見守る周囲の人たちには、「それぞれ固有なものの中にこそ、またそこから感得できる人間の普 遍性」のようなものが、様式・かたちとして、見出せるのじゃないかなーと想像するのです。

何が固有で何が非固有かって、そういえば私は大学院入試論文で、「主体における個別と共同」なんて変なテーマで考察したんですが、徹底して固有と思っているものの中にも、非固有性、「固有な自分が自分 でなくなる地点」が現れ出てくるんですね。自分が「消える」と言ってもいい。このへんは、卒業論文書いていてわかったことですが(論文の話はどうでもいいんですが)。

だから、結論的には、「固有な表現」ということにこだわる必要さえないのかもしれない、ということを思います。演劇、舞台表現というものは、つまるところ、表現の固有性をめざすのか、できるだけ多くの人の心に響く(届く)ものをめざすのか、どちらなんでしょう? また両者は、かなり近いところにあるんでしょうか? きっとそうでしょうね。
(2004/11/29 11:44)


四方館
深夜、コメントの返信を書いたのに、
ブラウザのトラブルでアップロードできなかった。
原稿も消えてしまった。参ったな。
あらためて。


Yさんのコメント、見事な、画期の一文と読みました。
>統合失調症患者の基礎障害を純粋に示す患者として紹介された例のアンネ・ラウも、彼女がコモン・センスを欠いていたか、といえば、ある上層次元では欠いていたけれども、深層次元ではけっして欠いていなかったはず-
さらに続けて、彼女が大いに共通感覚を持っていたし、人との共同性にも生きえた。ただ「人と共通の土台」に立てなかった部分が確かに、大いにあった。という視点、この認識でアンネ・ラゥを捉えていたことは、凄いの一語につきます。
そしてあなたは、精神障害者へのこの認識を、他の障害者、肢体不自由、ダウン症、自閉症など、知的障害も含めた身障者の世界に敷衍していく。
まったく言葉というものを持たない、いっさい言葉を発語することのない障害者だとしても、深層における共通感覚、人との共同性があるはず、と。 
そう、そのとおりだと私も思います。


ただこのことは立証可能かと云うと、どうなんだろう。いずれ脳科学の世界でありうるのかも知れない。だけど現在のところどんなに先端の知に問うたとしても、確たることはなにも言えないだろう。
この認識は<信>に似たものとしかいいようがないんじゃないか、と。
そう、この<信>に似たものへ仮託して、彼らの深層の共通感覚、共同性に、共鳴というよりは共振というほうが相応しいような気がするが、そこに響きあうような表出世界がありうるんじゃないか、と。
そういう作業として取り組めるんじゃないかと思いつつ、彼らに関わっていたと思います。


固有と非固有、
>徹底して固有と思っているものの中にも、非固有性、「固有な自分が自分でなくなる地点」が現れ出てくるんですね。- という地点について私は経験的に知る由もないのだが、ありうることだと思われる。
>自分が「消える」-との謂いにまでおよぶと、凝然として立ちすくむしかない。


これは余談だけれど、私は一卵性双生児として生まれ育っているのですよ。
まったく同じ遺伝子を持ったものが、お互いずっと顔つき合わせて育ってきた訳。
小学生くらいまでは、親もお揃いを着せようとするから、他人はおろか親や兄弟までよく見ないと間違える。中学・高校は制服だから、なにをか況や。
大学こそ違えたけれど、高校卒業までずっと一緒だった。もちろん寝室まで一つ部屋。
だから私自身の固有性というものは、まず双子の相手-もっとも近しい他者との、ちょっとした違いを拾い出していくことから出発していることになる。
成人する頃までそんな日常性だから、良くも悪くも、もっとも近しい他者とのあいだにある<親和力>みたいなものに包まれるようにずっと居たんだね。
その反動で、成人後の40年は、お互い別々に、とても突っ張って生きてきた、という感じ。
これ、笑い話くらいにしかならないけれど、そういうことなんです。


最後の、固有な表現について、
演劇であれなんであれ、表現者はみずからの固有の表現になんとしても拘りつづけるものです。
但し、その求める固有の表現は、同時に、できるだけ多くの人の心に響くもの、言い換えれば、多くの人々の無意識に通底して共鳴しうる世界をめざしているものだ、と思っています。
(2004/11/30 12:47)



こんにちは。お疲れ様です。再度アップロード、有難うございます。いえいえ四方館さんが、まず個々のエコログでずばりと鋭いことを書かれて、それに対して私がプラスになる(この言葉(プラス・マイナス)嫌いなんで、contribution(寄与、貢献)と言いましょうか)になるかと思われる考えを、それも元々考えていた内容を書かせてもらう機会をいただいているだけなんです。

それはもう、まだ短いお付き合いですが、自分のエコログ以上に、四方館さんの多くのエコログの一つ一つが読めて、コメントを書けたほうが私には個人的にはすごくためになっていると思います。

それで、人との共通感覚、共同性は、つまるところ、四方館さんのおっしゃる通り、「信」に似たもの、というか、「信」(共通している、共同性の内に在ると信じられること)そのものが大きく支配していると思うのです。この「信」の次元を果たして脳科学が解明できるのか、やっぱり無理なんでしょうね。

固有と非固有、というので経験的になかなか近づきがたいのでしたら、最初に出しちゃいますが、西田幾多郎ですね、個の中に普遍を見出す、という立場で考え抜いたひとりですね。精神病理学者の木村敏氏も、生涯その立場を貫いておられます。

だから、木村氏が個別の患者さんの中に普遍性を見出そうとしたように、四方館さんは徹底的に、個別な演劇(活動)の中に、普遍性を見出す、というより、観客らに感じ取ってもらう、という方針でいかれたらいいと思いますし、その意味で、表現者は自らの固有の表現になんとしてもこだわり続ける、とおっしゃることは、もちろんその通りだと思うのです。

ただ、趣向をちょっと変えて言ってみますね。「愛しています」という、愛する人に伝える言葉、この言葉をどんな風にどんな表現形態で発しても、本当に「私だけの愛の表現よ。」と言い切れるかどうか。あるいは、いつもやっている日常生活動作(これ、社会 福祉の用語です。)どれを取っても、それが「私」「その人」固有な動作だと、どこまで言い切れるか。

これは、人の経験はすべて「(他者の)模倣」から始まる、といった次元で話しているのではありません、それは当然のことでしょうしね。でも人生は、演劇は創造じゃないかって思いますよね、もちろん。

結局、その劇「だけ」の、「固有な」表現にこだわるのさえ、やめてみませんか、という刺激的な(?)誘いかけをしているのですよ、私は。つまり、固有な、ここにしかない劇を創り上げる、という意味での創造性に縛られるよりも、それさえ捨てる、平凡な一市民でいいじゃありませんか、その意味でいう平凡な劇に成っていいじゃありませんか、ということなんです。

もちろん乱暴すぎる発言で、実際の表現活動はすべて、自分(たち)固有のものをと思 い、またそうでしかありえないんですが、どんな固有なものを創ってもそこに平凡さを感じられるくらいの非凡さ、かな?それを観られると、表現活動の呪縛のようなものからは解放される気がするのです、たとえば台詞・動作ひとつとっても。

それから、奇遇ですね、私の夫は二卵性双生児の兄で、また外見が見事に、全然似ておりません。皆がびっくりするのです。けれども夫には子ども時代から今まで、一番の身近な友達が双子の弟だったようで、二人とも 近い分野の学者になり、同じ日に博士号を取得しましたが、夫には実はそれ以外に親しい友達というのがほとんどいないんですね。

四方館さんの場合は、双子のきょうだいの方と少しでも違いを見出していかねばならないながらも、最も近しい他者との間の「親和力」に包まれてもいらっしゃった。夫の場合はどうなんだろう。双子の弟がきょうだいであり一番の友達だったから、他に残すべき友達も、要らなかったんでしょうね。実際、友達要らない、といったようなことを言ってますし。(ゆえに私、Yしか居ないのですよ。そういった事情です、端的に言えば。)

とにかく、平凡に価値を見出す、ということを演劇でもあえて実践できませんか、というのがお話の要点です。心の態度だけの問題かもしれません。でも、皆が皆、アイデンティティとか言っている昨今で、アイデンティティを捨てるというのはひとつ、いい案でしょう。私自身が、そして夫はとっくに、そうなのですが。

私も四方館さんも、絶対に思索者ではなく、実践に生きるタイプである、ということは間違いなさそうですね。そう思っております。
(2004/12/01 13:31)


四方館
固有・非固有について、ちょっと議論が噛み合いにくいなって感がありますね。

昔、安部公房が周辺飛行と云うエッセイを書いていた。
彼は小説だけでなく「幽霊はここにいる」とかいくつか戯曲も書いている。
一時期、演劇好きが嵩じて、劇団づくりに手を染めたんだね。周辺飛行というのは彼流の役者のためのメソッドというか方法論について書いたものなんだけれど。
ここで彼はしきりに「neutral」ってコトバを強調していた。役者ってのはとにかく心身の状態をneutralな状態におくこと。演技はそこから始まるんだと。
彼の演劇における実践は、寺山修司ほどの話題を集めなかったけれどね。そりゃ、時代感覚からいくと寺山修司の「特権的肉体論」のほうがずっとセンセーショナルで前衛的だったからね。安部公房の演劇観は小説の世界に比べればずっと穏健でオーソドックスだ。


で、neutralの問題。これは私にとっては、ごくあたりまえのことだよ、と受け止めた。
すでにK師のもとで5.6年は経験を積んでいたし、元来、身体ってのはだれでも心以上に、制度的で、習慣的で、どんなに塵芥-からだの癖-がこびりついているかってことを、いやというほど知っていたからね。


役者にしろ、踊り手にしろ、およそ自分自身を観客に曝け出して成立させる表現とは、その者がどんな場合でも、安部公房の言葉ならneutral、私なら <素>の状態、日常のということではなく、本来的な、まったく癖のない<素>の状態から生み出されなくちゃダメなんだ、と。もちろん完全なる neutral、<素>なんてものは現実にはあり得ないから、あくまでそれを目指す。

<技>の次元の問題と云うのは、身体表現にかかわらず、すべ からく<身体>を媒介にするわけで、そこではよく禅問答みたいになるけれど、<無心>になれ、<無の境地>になれといいますね。これは<心>の問題であるだけでなく同時に<身体>の問題でも当然あるわけで、言い換えると<心-身>において要請されていることですね。
「どんな固有なものを創ってもそこに平凡さを感じられるくらいの非凡さ」や
「それを観られると、表現活動の呪縛のようなものからは解放される気がするのです」
との言質であなたが言わんとするところを、このあたりの問題として捉えるなら、私はまったく異議なしで、表現者とは、いくらベテランになっても、どんなにその道に精通しても、絶えず<心-身>において<無-空>に立ち返り、そこから始まるんだよ、と。


<固有の表現>なんて云ったって、その<固有性>というものは自我などというものからはもっとも遠く、むしろ対極にあるようなものなんだ、と。
そういう意味でなら、まさにそのとおりなんで、私らはずっとそうやってきている心算なんですね、あたりまえのこととして。
私は<表現>と云うのはすべて<技>の問題として捉えきらなくちゃダメだと考えているので、そこに還元できないところで、あなたが言われているとすると、噛み合わないのかなということになるんでしょうね。
(2004/12/02 00:02)



やっと来れました。

いえいえ、四方館さんのおっしゃっている通りですよ。私も演劇に関して何が言えるのか、まだわからないですし、そのうえで、四方館さんにここまで明確にお話していただくと、其の通りだと思えます。neutral、「素」の話だったんだと自分でも思います。

また、別エコログを読ませていただきますね。精神状況が地の底に落ちておりました。
(2004/12/04 06:22)

壁をまともに何考えてゐた

2005-02-07 13:30:56 | 文化・芸術
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<LETTER OF GRAND ZERO―世界のサダコたちへー>

レター・オブ・グランド・ゼロの演出にあたり
ポストコロニアリズムについて以前にも掲載紹介したが
あらためてここに、日本の近代から現代-明治維新から終戦後の60年-に通底する
植民地主義の意識と無意識を抉り出したすぐれて刺激的な小論を紹介したい。
私自身の言葉で要約するなど到底叶うべくもなく、些か煩瑣ではあろうが、
以下は、論旨に沿った引用抜粋のみで構成する。


<日本の植民地主義・帝国主義への構造的批判>
 - 小森陽一 作品社刊「ポストコロニアリズム」所収

・近代日本の成立-「自己植民地化」のプロセス

安政五カ国条約という不平等条約によって開国した日本は、「万国公法」と名付けられた国際法の支配する世界システムに参入した。
この万国公法は世界を二つに分断してしまった。
欧米列強を中心とするキリスト教国を「文明国」として特権化し、その他の地域を「野蛮」な「未開国」と位置づけた。
「文明国」が「未開国」の領土を、「無主の地」として領有支配する植民地主義を正当化した。


欧米列強という他者の論理を、事実上は強制されているにもかかわらず、自発性を装いながらその他者の論理を模倣・擬態し、あたかもその他者の論理を内面化し完全に実践できるかのようにふるまえる方向で自己改革するプロセスを、「自己植民地化」と名付けている。
その意味で「文明開化」と「富国強兵」政策は、欧米列強の論理に基づく徹底した「自己植民地化」政索だった。


文明と野蛮に世界を分断し、包摂と排除を反覆再生産していく「万国公法」システムの中で、未だ文明国ではない日本を、しかし未開国=野蛮でもないと位置づける論理を編み出したのが、福沢諭吉の「文明論之概略」(1874年)であった。
福沢は「今、世界の文明を論ずるに、欧羅巴諸国並に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古(トルコ)、支那、日本等、亜細亜の諸国を半開の国と称し、阿弗利加(アフリカ)及び墺太利亜(オーストラリア)等を目して野蛮の国といい、(-略-)」と社会進化論的な発展段階説に基づきながら、「文明」「半開」「野蛮」の三段階を規定し、日本を「半開」に位置づけている。
福沢の「半開」論は、次のような強迫観念を潜在させることになる。
すなわち「半開」は「文明」という他者としての鏡に自己を映し、「文明」の基準にしたがって自己像を形成し、「文明」の側からその進化を認知されない限り「半開」たりえない。だからこそ「半開」が「未開」や「野蛮」と見做され「文明」の奴隷にならないためには、もう一方の他者としての鏡である「未開」ないし「野蛮」を発見するか捏造して、そこに自己像を映しながら、彼らと比べれば自分たちは十分に「文明」に属しているのだ、ということをつねに自己確認しながら言い張っていくしかない。しかもこの二つの鏡像は同時に構成されなければならない。
ここに開国後の日本が「植民地的無意識」と「植民地主義的意識」とを、常に対になった裏表の関係として構造化しなければならなかった要因がある。
しかも、この「殖民地主義的意識」に基づく植民地化は、連続的に反覆されなければならない。
なぜなら、植民地主義的な支配が遂行され、自国の領土となってしまえば、鏡像としての機能は失われてしまい、新たな植民地化へと向かわなければならないから。
日本の植民地化において、過剰な「同化政策」=「皇民化政策」がとられた最大の要因である。


1869(明治2)年、明治政府は「北海道開拓史」を創設、現住の民アイヌを臣民と化し、無主の地を「北海道」として植民地化。
1879(明治12)年、「琉球処分」によって「沖縄」が、
1895(明治28)年、日清戦争によって台湾が、
1910(明治43)年、日露戦争によって朝鮮が植民地化されていった。
そのすべての地域で徹底した「同化」=「皇民化」政策が実施されていった。
そして、1931(昭和6)年、「満州事変」以後、満州の植民地化から十五年戦争、そして太平洋戦争へと雪崩れこんでいく。


・戦後-「植民地主義的意識」の忘却と「新植民地的無意識」の形成

80年近くにわたる日本の植民地主義は、敗戦という外側からの力によって断ち切られた。
「ポツダム宣言」を受諾した「終戦の詔勅」(玉音放送)では「米英二国」に対する戦争にしか触れておらず、中国に対する侵略戦争については一切触れられていない。
「終戦の詔勅」は、第一次世界大戦以後略取した南洋諸島、台湾と満州、朝鮮半島を解放することを宣言した「カイロ宣言」を無視ないしは隠蔽しているのである。


GHQの占領政策の中、日本国民の多くは、嘗てあった植民地支配の記憶を忘却し、引き揚げ時の被害者意識や戦後の混乱のなかで、植民地支配の責任を取ることについて思考停止し、嘗ての「植民地主義的意識」の存在自体を無意識の淵に落とし、いわば「植民地的無意識」を構造化していったのである。
こうした状況をもたらした最大の要因は、すべての侵略戦争と植民地支配の最高責任者であった大元帥天皇、昭和天皇ヒロヒトの責任を免罪したところにあった。
「国体」の護持、昭和天皇ヒロヒトを生き延びさせることが、終戦にあたっての死守すべき課題となって、1945年7月26日に連合国から出された「ポツダム宣言」の受諾が、8月14日深夜まで引き延ばされたがために、8月に入ってソ連の参戦を招き、その結果、朝鮮半島における日本軍の武装解除を、38度線以北をソ連軍が、以南をアメリカ軍が担当し、南北に朝鮮が分断される要因となって、朝鮮戦争をもたらしたのである。さらには8月6日の広島、9日の長崎の原爆投下も回避できたかもしれないのだ。


「国体」としての天皇制護持を最優先した日本の支配層と、占領政策の基本路線としての日本の非軍事化と民主化を要請する、マッカーサーとの間の「談合的取引」は、1条から8条までの「象徴天皇制条項」と9条の「戦争放棄」条項とを抱き合わせ、新憲法に実現したのである。

昭和天皇ヒロヒトの戦争責任を免罪した、「日米談合象徴天皇制民主主義」体制の中で、戦後賠償を中心とした、戦後責任と贖罪の契機が、国民的な規模で欠落させられることになった。
冷戦構造の中における日本の反共基地化をめざすアメリカの、賠償請求権の放棄という講和政索の中で、日本の当局者は、戦争責任と戦後責任を直視せず、値切りと延滞を基本路線とする外交交渉を、羞恥心を抱くことなく進めることができたのである。


嘗ての植民地支配ないしは軍政支配を受けていた地域の人々の犠牲のうえに敗戦後の経済復興があり得たにもかかわらず、自分たちの努力だけでなしえたものと錯覚し、「神武景気・イザナミ景気」や「イワト景気」と名付け得るような無神経さを露呈しつつ、好景気を享受してきたのだ。

敗戦後の日本は、自らの戦争責任と戦後責任、および植民地侵略と支配に対する責任を回避し、「高度経済成長」を推進する条件を整えつつ実践し、アメリカを中心としたアジア地域における新植民地主義の代理人的役割(エージェント)を果たしつづけたのである。
ヴェトナムもインドネシアも、第二次大戦後も続いた植民地脱却の戦いのなかに置かれたつづけたゆえに、日本への持続的な賠償請求交渉を行えなかったのであり、彼らの犠牲のうえに「高度経済成長」が成ったということを銘記しておかねばならない。

けふは蕗をつみ蕗をたべ

2005-02-04 14:03:14 | 文化・芸術
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エコログTB事務局詠子さんの「節分」にトラックバックしています。
今日のお題は、「節分」です。

<日々余話>

<鬼-考>

昨日は節分、大阪発祥の恵方巻きが全国にずいぶんひろがったらしい。
保育園でも、子どもたちを遊びに興じさせるため豆撒きをする。
迎えに行ったら、大きくて愛嬌たっぷりの鬼の面を頭から被って嬉しそうに出てきた。
保育士さんたち苦心の結晶だろうが、なかなか立派な仕上がりだ。
こんな鬼たちがいっぱい駆け回って、みんなで「鬼は外、福は内」とやったら、さぞ盛り上がったろう。子どもたちのはしゃぐ情景が眼に浮かぶ。


鬼という存在は、私たちにとって意外に郷愁の湧くものだと思う。
鬼ごっこもあったし、そういえば子ども時代の遊びに、鬼は欠かせないものだったのだから、なにやら懐かしく感じるのも当然か。


手許の仏教辞典のお世話になると、
<鬼>の字は、人の屍の風化した姿から成った、とあるから象形文字か。
中国では古来、心思を司る<魂>は昇天して<神>となり、肉体を主宰する<魄>は地上にとどまつて<鬼>となる。したがって一般に亡霊をいうことになる。
人の認識を超えて、人に働きかけてくる超人的作用の、忌避すべき観念につらなるもの。
インドの死者の霊<逝きし者>を訳して<鬼><餓鬼>というが、仏教の流入によって,「輪廻転生する鬼や、供養を受ける亡霊」の観念が生じた、とある。
そういえば、六道の一つに<餓鬼>が数えられ、<鬼界>ともいう。


<鬼界>とはなかなかにぎやかなものだ。夜叉、羅刹、牛頭、馬頭、赤鬼、青鬼など、いろいろござる。生霊・死霊の怨霊の類も鬼の一種であり、物の怪の類もまた鬼と重なる。
さらにいえば、我が国の<鬼>は<隠>であった。和語の<隠(おに)>が転訛したとされる。
隠れて見えないもの、常民社会の異界にあって不断は眼に見えないものだから、異邦人や山の民も鬼とされたのだ。


となれば、我が国の鬼文化は百花繚乱とも言うが相応しい世界だし、彼らの跳梁跋扈する狼藉ぶりも多彩きわまりなく咲き乱れる。八百万の神に比して、八百万の鬼が如くに斯々巷に出没してはさんざ活躍なさってきたのだ、といえよう。
神は目出度くとも劇的にはならず、鬼は怖けれどまた哀しくもあり、さればこそ劇的な存在となりえて、能・歌舞伎など伝統芸能にも、その出番たるや数知れず登場する。
「百鬼夜行絵巻」など、人の世なんかよりよほど豊かな世界だと、つくづく魅了されたものだ。


節分の豆撒きに限らず、鬼たちがいきいきと跋扈し活躍した伝承の数々を、肉化した文化としてもっともっと伝え遺していきたいものだ。

雪空ゆるがして鴨らが白みゆく海へ

2005-02-03 03:43:02 | 文化・芸術
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<歩々到着> - 1

 無駄に無駄を重ねたやうな一生だつた
 それに酒をたえず注いで
 そこから句が生まれたやうな一生だつた。


漂白放浪の俳人山頭火が、その晩年、日記のなかに記した述懐である。
山頭火の放浪日記は、「行乞記」と名づけられ、昭和5年以後のものからが現存している。
それ以前の日記は、何故かは判らないけれど、みずから焼き捨てている。


「焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか」

「行乞記」を書き始めてから数日後、
昭和5年9月14日の記に、
 晴、朝夕の涼しさ、日中の暑さ、人吉町、宮川屋
球磨川づたひに五里歩いた、水も山もうつくしかつた、筧の水を何杯飲んだことだらう。
一勝地で泊るつもりだつたが、汽車でこゝまで来た、やつぱりさみしい、さみしい。
郵便局で留置の書信七通受取る、友の温情は何物よりも嬉しい、読んでゐるうちにほろりとする。
魚乞相があまりよくない、句も出来ない、そして追憶が乱れ雲のやうに胸中を右往左往して困る。
‥‥‥‥
熊本を出発するとき、これまでの日記や手記はすべて焼き捨てゝしまつたが、記憶に残つた句を整理した。
云々とある。


「旅人とわが名呼ばれん初時雨」
或は
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
昭和の芭蕉を目指したか、
山頭火とすれば旅を棲家と放浪すべく不退転の決意で出立したのだろう。
その決意が、几帳面なほどに書き溜めてきたそれまでの日記いっさいを焼き捨てさせた。


種田山頭火 本名、種田正一。
明治15年12月3日、現在の山口県防府市八王子に生まれた。
父竹治郎は27歳、母フサは23歳であった。
一歳年長の姉フサ(何故か母と同名)、三歳下に妹シズ、五歳下に弟二郎、
七歳下に弟信一と、祖母ツル。
生家は近隣から大種田と呼ばれた富豪で、敷地は850坪余だったという。
父の竹治郎は、祖父の早世によって、明治4年、十六歳で家督相続している。
竹治郎が戸主となった翌年の明治5年には、
田地永代売買の禁が解かれ、
さらに、明治6年には、
地租改正の条例が公布されている。
封建制度からの脱却として、土地の個人所有及び売買が容認され、
地主には地価に対する租税が賦課され金納となった訳である。
当時、概ね収入の三割近くもの地租だったというから、
この現金による納入に、地主たちはいつも金策に忙しかったろう。
やがて彼らは米相場に一喜一憂する商人と移り変わってゆく。
大種田と呼ばれ、近在に鳴り響いた富豪の大地主も、
若くして惣領となった竹治郎の相場での失敗や、
彼の遊蕩が因となって衰退してゆくことになる。