赤ちゃんのお世話がちゃんとできるかしらと、不安な気持ちで退院。
晴れがましい気分や誇らしい気持ちも、もちろんあったんですが、半分くらいで。
世間一般のイメージ・・・「退院イコールおめでたい出来事の象徴」みたいなことには、残念ながらなりませんでした。
で、自宅に帰るなり、まあ実の親のことですので書いちゃいますが、ベビーベッドを置く場所について同居の母と言い争い(苦笑)。
そう、何度かお話ししたとおり、実母と同居してるんです。つまり、これ以上ない育児の協力者がいるってこと。
それなのに何が不安かとお思いでしょうが、何しろ母が私を産んだのなんて半世紀も前のことで(そこまでじゃないか?)、もはやすべてが忘却の彼方に・・・。
したがって、母も私と同じように不安だったと思われます。
そんなふうにして、ヨロヨロ育児のはじまりはじまり。
最初の1カ月はとくに、赤ちゃんを生かしておくこと以外、何も考えられないくらいでした。
生かしておくというのは変な言い方ですが、別の言い方をするなら「死なないようにする」。赤ちゃんって、放っておいたら絶対に死んでしまう存在なんですよね。
私がミルクをあげなければ、死んでしまう。目を離してベッドから落ちたりしたら、死んでしまう。私の責任。
これが・・・プレッシャーでした。
こわかった。すべてが自分の手にゆだねられているということが。
放っておいたら生きていけない存在と、今まで暮らしたことがない。この点、前回もふれたようにお座敷ペット、たとえば生まれたての子猫なんかを世話したかたなどは、かなり意識がちがうんじゃないかと推測するのですが・・・。
ただ、たとえペットが死んじゃったとしても、飼い主の罪にはなりませんよね。
ところが、もし母親が育児放棄したり、適当に抱いて落っことしたりして死亡事故にでもなったら・・・。
過失致死罪? 私、前科者になるの?
すみません、法律上どうなのかはよく知らないのですが・・・ベビーベッドをみつめながらそんなことを考えていた、新米ママ時代の私。
当時は、ベッドのあるリビングに自分の布団をおろして、一晩中そこで赤ちゃんを見ていたんです。
夜中に何度も授乳したりあやしたりしなきゃならないから、ダンナさんが寝ている寝室より、リビングのほうがやりやすくて。
ただ、そうなると、夜中に起きているのは自分ひとり。
赤ちゃんは、1人のうちにはいりません。まだ神さまの段階なので。
人間は自分ひとりきり、みたいな孤独な気分・・・。
といっても、そこでダンナさんが来てくれれば助かったかといえば、そういうことでもないんですよね。なにしろ男の人はおっぱい持ってませんので(笑)。
いま考えてみると、あのとき感じた孤独感は、いわゆるマタニティーブルー。ホルモンの乱れも大きかったのではないかと・・・。
あと、栄養不良とか睡眠不足。
どのママさんもそうだと思いますが、出産後の自分の食生活なんて、まさに二の次、三の次。睡眠なんて、四の次。ママ本人が楽かどうかなんて、五と六なくて、七の次。
・・・なんて。
思いっきりネガティブなことばかり並べてしまい、恐縮です。これを読んで引いてしまった妊婦さんがいらっしゃいましたら、本当に申し訳ありません。
でも!
ご安心ください。つわりのページと同じことを書きますよ。
こんな思いをしたにもかかわらず、約2年後に2人目を授かりました。
こりてなかった自分に、拍手!
っていうか、母性本能恐るべし!
生まれた赤ちゃんの存在が、つらい体験を払しょくしてしまうくらいすばらしかったという証明でもありますね。
本当に・・・。
赤ちゃんのあの神々しさは、もう格別としか言いようがなくて。
こんな存在がほんとに私のおなかの中にいたんだろうかって、まじまじとみつめてしまったくらいです。
出産後しばらくして親戚が会いに来てくれたんですが、もう高齢のおじさんが、感に堪えないように言いました。
「お地蔵さんにそっくりだなあ・・・」
言われて私も気付きましたが、本当によく似ていますよね。とくに、水子地蔵さまに。
お寺なんかで何げなく眺めてきた、たくさんの水子地蔵たち。あれがどんな思いで作られていたのかを、はじめて理解した瞬間でした。
だからこそ。
相手が神々しすぎるからこそ、あの時期のお世話が、あんなにつらく感じたんじゃないかと思うんです。
泣かせちゃいけない、死なせちゃいけない、こんなに神々しいのに、こんなにかわいいのに・・・って。
このテーマを書くのに、こわいとか恐怖とかおののいたとかいう言葉をたくさん使ってしまいましたが、それは単なるこわさというより「畏れ」に近い。
妊娠出産という、これ以上ないほど神秘的な体験を経て誕生した命に対する「畏怖」だったのかもしれません。
その証拠に。
これもつわりと同じ展開。2人目のときは、比べものにならないくらいお世話が楽でした!
なぜなら、その頃の私は嫌っていうほど知っていたから。相手は神さまではなく、正真正銘の人間さまだということを。
教えてくれたのは、もちろん冬坊。夏坊が生まれたとき2歳半、いわゆる魔の2歳児です。
泣きわめく魔の2歳児に比べれば、新生児の泣き声なんて小さい小さい、抱っこしたって軽い軽い。
別の意味で神さまに見えました。
でもこうして書いてみると・・・1人目の冬坊のおかげで、自分がどんなに助かったかがわかりますよね。
つわりから始まって、すべて冬坊の母親養成スパルタ教育により、夏坊を楽に育てることができました。
どうもありがとう、冬坊。
でも次に特訓するときは、もすこしお手柔らかにお願いしますね(笑)。