あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

Sad Satan

2019-06-20 01:48:25 | 物語(小説)
彼女と別れて、4年半が過ぎた頃のことだった。
同僚の送別会のあと、ウェイターの男はタクシーを呼んだ。
酷くお酒を飲みすぎてしまったからである。
皆、帰ったあとの薄暗いカフェにはウェイターの男の姿だけが窓から見える。
ソファーの席に深く腰を沈めて目を瞑ってタクシーを待っている。
時間は午前の二時半になろうとしている。
車が店の前に止まる音が聞こえ、ウェイターの男は店の灯りを消して店を出て、鍵を閉めるとタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手にマンションの場所を教える。
すると少しの変な沈黙が過ぎた。
だがそのあと車は何事もなく発車した。
ウェイターの男は安心して重い瞼をまた閉じた。
いつから雨が降りだしてきたのだろう。
嗚呼さっきも、店を出たとき既に雨は降っていた。
静かに、あまりに静かに降っていたから気づかなかったのかも知れない。
夢と現を、まるで行ったり来たりすると同時に、タクシーはカフェとウェイターの男の住むマンションの間の道を、行きつ戻りつしているかのように感じる。
うとうとと、心地の良い微睡みのなか、雨の音が聴こえ、その透明な闇の空間の底から響いてくるように、運転手の男の声が、ウェイターの男に向かって話し掛ける。




そうか...。
一度、会ってみたいと、想っていたのだよ。
いや...話し半分に聴いて貰って構わない。
俺も今夜は、大分疲れている。
だけれども今夜、逃してしまったなら、もう話す機会を二度と失うかもしれない。
あんたも、それは惜しくてならないはずだろう。
良かったら、遠回りさせてくれないか。




ウェイターの男は、運転手の低く落ち着いた声に目を閉じたまま応えた。
「気にせず、走り続けてください。何処でもいいですから。」




運転手の男は微かに笑うとこう答えた。
「悪いね。いや、代金は要らないよ。今夜のドライヴに付き合ってくれるならね。」




優しく、地面を撫でるように這う声で運転手の男は穏やかに話し始める。




俺は...あんたにずっと会いたいと想っていたよ。
この話をできるのは、あんた以外にはいない。
俺のなかだけに置いておくのは、あまりに荷が重い。
彼女も...きっとそれを望んでいることだろう。
あんたが知るべきことだとも、想ったんだ。
全く快い話ではないと想うが、良かったら最後まで聴いてくれ。
今から四年半ほど前、俺は彼女と出会った。




運転手の男は鮮やかに、その時の記憶を想い起こす。




今日一日の仕事を無事に終え、ホースを手にして蛇口を閉め、ビニール手袋とマスクを棄てて額の汗を首にかけているタオルで拭って一息吐いた瞬間だった。
突然、電話が鳴り響き、男は作業服とウレタンの白い前掛け姿で受話器を取った。
電話口から、少女のような声が聴こえた。
声が小さく、男は何度も聞き返す。
するとようやく、相手が何を言っているかわかった。
「きみに話したいことがあるんだ。」
まるで付き合っていた女に別れ話を切り出す男の口調のようにその声は冷たくぎこちなかった。
男は素性のわからぬ怪しい相手に対し、冷静に応えた。
「一体、どういった話しかな?悪いが俺はこの工場の責任者でも主任でもなんでもない下っ端の人間だよ。ただ後片付けと戸締りの責任を任されているだけだ。此処の遣り方について言いたいことがあるなら明日の早朝にかけてきてもらえるかな。」
少しの沈黙のあと、相手はこう言った。
「憶えてない?前に此処で、きみに会ったことがある。」
男は記憶のなかを探り、女の姿を見つけようとした。
だが見つからなかった。
「憶えてないね。それはいつの話だろう?」
幼い声と口調で、相手は言った。
「三ヶ月前くらい。」
「嗚呼...もしかして、あの晩の、工場の側に立って、こちらをずっと監視するように見ていた人間かな。あの夜はコンタクトレンズを落としてなくしてしまったんだ。女性であるとは想ったが、顔はぼやけていて俺には見えなかったよ。」
はっきりと相手は答えた。
「それがぼくだよ。きみを見ていたんだ。」
男はこの返事に訝しく感じた。
返答を考えていると相手は男を誘うように言った。
「もし会って話をしてくれるなら、お金を払うよ。それ以外でも、できるものを払うよ。」
男はこれを聞いて何かの調査員か、それとも工作員だろうかと想った。
確かめるように男は訪ねた。
「それは、俺じゃないと駄目なのかい。」
すると相手は、男の望む返答をした。
「きみと会いたいんだ。」
男は不安と興味の交じり合うなか応えた。
「わかったよ。では俺の言うカフェに、明日の午後一時に、来てもらえるかな。」




あの日も、そう言えばこんな雨が降っていたな。
運転手の男は右の窓に当たって落ち続ける雨を遠い目で見つめながら言った。
その約束の当日、驚いたことに彼女は一時間近く遅れて遣ってきた。
でももっと驚いたのは、待たされることが我慢ならない俺がじっと耐えてその場で静かに待っていたことだよ。
俺はそのとき何を考えていたのだろう。
そのときの俺が何を待っていたのか、俺はわからない。
ただカフェの窓から外を眺めていて、行き交う人間たちのあまりにも空虚な存在に泣きたい想いで待っていたよ。
彼女ももしそんな人間の一人だったなら、今ごろ俺はどうしていたのだろう。
運転手の男は窓に映った自分の目のなかのその暗闇に彼女の面影を探すように見つめながら話を続けた。




約束の時間から一時間と少し過ぎた頃、男の向かいの席に、女は静かに座った。
男を激しく諫めながら、同時に請い願うような目で、女は見つめた。
その凝視のあと、女は漸く謝罪した。
「遅れてしまってごめんなさい。実は場所を間違えて迷ってしまったんだ。」
男はこの言葉にとてつもない安堵を覚えた。
目の前の女が、全く嘘を言っているようには想えなかったからだ。
男は黙って、半ば放心したように女の顔を眺めている。
女は丸い黒縁眼鏡をかけ、前髪を短くした黒いショートボブの髪型に腰が細くコルセット状になった鎖骨が露になる黒のワンピースを着ていた。
童顔で額と顎が小さく、丸々とした目が愛らしく、年は40歳を越えているようにも見えた。
男の目には非常に疲れ切っているように感じた。
でも何より目を引いたのは、その折れそうな華奢な少年のような体型だった。
男はその身体を遠目に眺めて、想わず目を伏せた。
何か観てはならないものを観てしまったように感じた。
それは味わったことのない感覚だった。
彼女の身体を凝視し続けると何かが確実に破綻してゆくように想え、男は荒くなる呼吸を宥めるため目の前のカップに手を伸ばし黒い珈琲を飲もうとした時だった。
女の細い骨ばった白い右の手の指が、男の左手の甲の上に触れた。
男は慌てて、咄嗟に手を引き、女を見た。
女は濡れた情熱的な眼差しで男に向かって言った。
「会ってくれて本当に嬉しいよ。」
男は生唾を飲み込み、右手で珈琲のカップを掴むと一気に飲んだ。
動揺を隠せなかったが、男は落ち着き払った様子を必死に装い、女に訪ねた。
「一体、この俺に、どのような要件があるのかな。一先ず、安心させて貰える言葉は貰えないだろうか。」
男はそう言うと女の浮き出た鎖骨を一瞥し、またぞろ目をテーブルの上に伏せた。
女は眉間を寄せ、浮浪者のように伸びたウェーブの掛かった男の抜けた髪が一本その首もとに汗で張り付いているのを見つめながら言った。
「単刀直入に言いたいところなのだけれども...少し此処では話しにくいかな。良かったら、お酒の飲める場所に移動しない?」
男は顎の無精髭を右の親指で擦りながら女を見て言った。
「それは構わないが...まだ時間が早すぎやしないかい。もう少し日が落ちるまで、何処か別の場所で話すのはどうだろう。」
すると女は無邪気に微笑み、こくんと頷いた。
「うん。そうしよう。この近くにさ、大きな川があるよね。ちょっと行ってみたいから其処に行かない?」
馴れ馴れしく子供のように話す女に男は緊張が解れ、自然と微笑み返して答えた。
「ああ、あの河川敷にちょうど良い高架下の場所がある。其処なら雨を凌ぎながら川を眺めて話せるよ。其処に行こうか。」




そう、あの日、俺は車で来ていたのだがね、車をカフェの駐車場に起きっぱなしにして彼女の赤い傘を差して高架下の場所まで身を寄せ合うようにして歩いた。
人間の温もりを、俺はとても複雑な感覚で感じていたよ。
俺はそれは想い出したくもないものだったんだ。
でも、あの日、俺は知ってしまったんだ。
俺が最も求めているものは、俺を最も苦しめるものであるということにね。




高架下に着いても、女は赤い傘を差したまま、男に身を寄せて立って動かなかった。
男は女から離れずに言った。
「まだ雨が心配かい?」
すると女は、開いたままの傘を淀んだ川に向かって投げて言った。
「もう赤い傘は差さないよ。」
男は女の奇行に困ったように笑うことしかできなかった。
やはり俺に興味を持つ女は、普通ではないんだな。男はそう想うと胸を痛めた。
しかし男は、冗談に冗談を返すようにその傘を拾いに川のなかに足をつけようとした。
その瞬間、女が本気になって男を止めたので男はまた笑った。
男は慈悲深く微笑んで女を見つめ返しながら言った。
「物は大切にしなくてはならないよ。」
女は何も言わず、男の目をまた最初に見せた責め苛むような目と、怒りと悲しみと、懇願するような目で見つめた。
そして信じがたくも、男の求めていた言葉を女は放った。
「今夜、一緒に、モーテルで一晩泊まってくれない?」
男はこの言葉に、深く絶望しながらこう答えた。
「良いけれども、俺は何もしないよ。俺は無性愛者だからね。」
沈黙のあと女が囁くように放った。
「アセクシャル...?本当に?」
男は吐き気に口を右手で覆ったあと言った。
「ああ、本当だとも。俺は今まで何にも性的な欲情を感じたことがない。」
それを聴いて、女は激しい悲憤に堪えているかのように見えた。
男は女を慰むように言った。
「でもそれでも良いなら、一夜を共にすることは可能だよ。」




彼女は、酷く悔しそうだったが、それでも良いと言ってくれた。
そのあと、彼女は俺以上に触れることを恐れているように見えた。
そのあと、barに行くのはやめて、酒とつまみを買ってモーテルに行って、ラジオで流れていたブルース音楽を聴きながら一緒に飲み交わし、酔い潰れたあとは彼女は、俺に父親のように腕枕をして一緒に眠ってほしいと言った。
俺はそれに応え、それ以上は何事もなく朝が来た。




俺と彼女は、その後約半年間、ただ安いモーテルで週に二度、彼女の要望で添い寝するだけの関係を続けた。
俺はどんどん、彼女に会う度に彼女への愛着は増し、彼女を人間として愛おしく感じるようになって行った。
そして何となく、これはもしかしたら性的な欲情というものかもしれないと感じる感覚をうっすらと感じるようになってきた頃、或る晩、俺と彼女のそれまでの平穏な関係は終わったんだ。




或る夜、モーテルで酔いが回り、女は突然男にこう言った。
「一緒にお風呂に入らない?」
男は青ざめ、首を横に振り、目を瞑って答えた。
「それだけは、絶対にできないよ。」
女は寂しげにベッドに横になると男を呼んだ。
「さあおいで。可愛い坊や。」
男はソファーに座りながら目をぱちぱちと瞬かせて何かを考えているようだった。




あんたも同じ誘い文句で誘われたのかなんて...俺は訊かないけれども...もし彼女が同じように男を誘ってきたのなら、それは実に微笑ましいことだよ。
彼女はただ子供が欲しいのだろうかと、一瞬、馬鹿な俺は想ったよ。
だが俺の当時の職業を考えると、それは有り得ないと感じた。
子供のことを考えるなら、それは到底考えられない。
俺の当時の職業は、人間の潜在意識のなかで常に差別され続けて忌み嫌われてきたものだからね。
何故、よりによって、父親の遺伝子に、俺を選ぶ必要があるだろう。
彼女は、何故よりにもよって、この身体に死が染み付いた俺を選んだのだろうと、その時は疑問でならなかったよ。




男はその夜、酒の勢いも借りて、素直にベッドに横になって自分を誘っている女にずっと気になっていたことを訪ねた。
「何故、俺なんだ?俺が遣っている仕事がどんなことか、君は知ってるよね?」
女は両手を重ねて右耳の下に敷くと目を閉じた。
「きみをずっと監視してた。」
男は目を剥いた。
「なんだって?」
「ごめんなさい。君が後片付けの役を任されてから、隙だらけだったから。」
男は興奮して言った。
「いや、言っている意味が全くわからない。もっとわかるように説明してくれないか。」
女は上半身を起こすと右の人差し指を上に向けて曲げ、挑発するように男を誘う動作をした。
男は深く溜め息を吐き、折れてベッドに横になり至近距離で見つめ合う形で呼吸をあらげながら再度落ち着いて訪ねた。
「それはつまり...俺が後片付けをしている最中に監視カメラを設置して俺を監視していたということかい?」
彼女は意味深げな笑みを浮かべ、言葉を濁すように言った。
「きみだけを観ていたわけではないよ。」
男は鼻息を荒くするなか訊いた。
「では俺以外に、何を観ていたんだ?」
彼女はゆっくりと瞬きをしたあと、こう答えた。
「ぼくの家族たちをだよ。」




その瞬間、俺は崩壊してゆく自分自身と、俺を崩壊させてゆく彼女のたった二人の世界に死ぬまで取り残され続けることをみずからに預言したよ。
何故だかわかるかい?
俺はずっとずっと、あの日、彼女と出会った瞬間から、恐ろしい関心で彼女が俺を知りたがっていることをどこかで勘づいていたからだよ。
俺はその理由に気付いていたんだ。
でも気づかない振りを自分に対してし続け、彼女は実はただ俺と寝たいだけじゃないかって、そこにある浅はかな目的を望んでいた。
だが俺の最初の勘は、おぞましいことに当たっていた。
彼女が監視していたのは、俺が彼女の家族を殺し続けるその姿、殺害方法と、そして俺の手によって引き裂かれ、生きたまま解体されゆく彼女の家族の姿だったんだよ。
俺は確かに、彼女の家族たちを、屠ってきたんだ。




男は目の縁を赤くさせ、低く震える声で女に問い掛けた。
「なるほどね。やはり俺の勘は当たっていたのだね。それでどうしたいんだ?この俺を。自殺へ追い込みたいのかい。」
女は男と見つめ合うなか涙を流し、男の胸に抱き着いた。
そのまま、互いに震え合う肉体を重ねたまま言葉を見喪い、二人は夜が明ける前まで眠りに就いた。




夜が明ける頃、彼女は俺を起こして言ったんだ。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」と。
つまり、こういうことさ。人間が最も苦しむこと。人間にとっての最高の地獄とは。それは最も愛する者を、みずからの薄汚れた欲望によって殺してしまうことだ。
彼女は俺に、"最高の地獄"を味わわせるためだけに、俺の恋人と、そして家族になると言ったんだ。




俺は無論、その15年続けてきた仕事を辞めざるを得なかった。
それで今のタクシーの運転手の仕事を、彼女を養うために続けてきた。
俺が探せば普通に他の仕事も難なくできるのに、何故そんなきつい仕事をしていたか、あんたは気になっているだろう。
俺は20歳を過ぎたころ気づけば、自分が生きているようには想えなかった。
でも心臓は動いている以上は生活をして行かなくてはならない。
俺は自分に似合う仕事をしようと想った。
とにかくこの世で最低の、底辺にある仕事が俺に最も向いていると感じたんだ。
底辺の仕事と聞いて一番に想い浮かぶのは性風俗業界だ。俺は其処に足を踏み入れるくらいなら自殺した方が良いと感じた。
そしてその次に浮かんだのが、彼女の家族を次々に解体して大量殺戮してゆくと殺(屠畜)業界だ。
これなら、俺にもできそうだと感じた。
いや、寧ろこれ以外、俺はしてはならないと感じてならない確固たる強迫観念によって、俺はその仕事を15年続けて来れたんだ。
心を殺せる術を学ぶなら、牛や豚を生きたまま解体する作業も何ともないよ。
最初の数カ月は、永遠に吐き気の終わらない職業だと感じていたけれどもね。
ただ肉だけは働いた一日目から、食べることはできなくなったし、食べたいとも感じられなくなった。
そこは彼女と共通している。
俺が日々解体している存在が人間であるということを俺は知っていたからこそ、その記憶を完全に忘却してしまえたんだ。
それは、この世で最も、悍ましいことだからね。
彼女は俺に色んなことを目覚めさせてくれたよ。
どれも死ぬまで消えることのない地獄ばかりさ。
彼女は自分でサディストだと言っていたが、俺はそれを完全否定している。
どうしても、俺を傷めつける理由が彼女には在るからだよ。
それはあんたも同じだ。
あんたはどうやら、彼女にとって特別な存在で今も在り続けているようだ。
それにしても此処は何処だろう。夢中になって、随分と暗い場所まで走って来てしまった。


気づけば雨はやんでいて、男が窓を開けると涼しい初夏の風が車内に吹き入って来た。


運転手の男は一度も後ろを振り向くこともバックミラーを見ることもなかった。
男は独り言のように、疲れた声で話を続けた。


女は男を起こして見下ろし、こう言った。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」
男は目脂を擦ったあと女を見上げて頭のなかでその言葉の意味を反芻し続けた。
その言葉はやがて、男のなかで三つの言葉に分けられた。
『彼女の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『彼女を愛し、そして殺すこと』
その三つの言葉を、男は数ヶ月かけて反芻するうちに、やがてその三つの言葉は自然と次の三つの言葉に変じて行った。
『俺の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『俺の最も愛しい存在である彼女を愛し続け、そして殺すこと』
男はあてどない悲しみのなか、自分の15年間の罪の重さに亡羊となり、為す術もなく、ただ彼女を見上げて言った。
「嗚呼…わかったよ。」


精神の葛藤など、何もなかったよ。
後悔することも、なかった。後悔したところで、もう戻れないんだ。
俺は彼女の家族を22歳の時から、15年間、生きたまま解体して殺し続けてきたんだ。
彼女は俺にこう言ってるんだよ。
「お前の最も愛するわたしを生きたまま解体して殺せ。そしてその地獄の苦しみのなかにお前は独りで死んでゆけ。」
彼女は何十年と、自分の家族を食べ続けてきたことにずっと、吐き気を感じながら後悔し続けている。
俺は後悔する代わりに、彼女を殺さねばならないんだ。
それが彼女の、彼女の家族に対する愛なんだよ。
それは悪魔との契約ではなく、神との契約なんだ。
悪魔と契約していたのは、俺の方なんだよ。
俺の母親も生きていたら、俺を彼女のような目で見たのかもしれない。
悲しい悪魔を見るような目で。
俺の母親は敬虔なクリスチャンだったんだ。
彼女は”肉欲”と”肉食”を同等の重さの、殺人に相当する罪であると信じていた。
”肉”を欲すること。それが殺人に繋がり、姦淫に繋がり、殺戮という肉食に繋がるのだと。
”肉”とは、万物のなかで最も地獄に通じている。
地獄は肉を表しており、肉は地獄を表している。
それが”悪魔(Satan)”という存在であると。
彼女はまるで俺の母親の生まれ変わりかと想うほど、同じことを言うんだ。
イエスの血と肉を食べなければ、人は虚しく滅びゆくのだと。
何の価値も、そこにはないのだと。
人は死んだまま、死んでゆく。
なのに彼女は、”自分だけの死”を求めている。
そうして”殺される者”は、無事に死ねるのか。と、彼女に訊ねたことがある。


”殺さない方法”などない。と、諦めて男は生きていた。
殺さないで、赦される方法はないのだと。
女は決まってアルコールに良い心地で酔った時に必ず、窓から夜の空を眺めながら”死”について語りだした。


彼女は詩人であるから、そんなことはちっともおかしくもないのだが、俺にはその言葉の全部が、俺の罪悪感を深めるためのものに感じた。
苦しいばかりだったよ。彼女の話す言葉の殆どが俺にとって。
彼女は何より、”死”を愛していることを、俺は知っていた。
でもそれは、死を最も、彼女は受け入れられないからだよ。
彼女は愛する両親を早くに亡くしている。
そして輪廻転生というものを彼女は自分の感覚を通して信じている。
そう…彼女の言っていることは、彼女がずっと俺を責め続けていることは、決してAllegory(諷喩)ではなかったんだ。


「それが”死”なのかい。」
男はソファーに座って女の後ろ姿に問いかけた。
細い首を左に傾け、星の出ていない曇る夜空を観ながら女は答えた。
「死が死を食べ続け、死は死を選ぶ。死は死で在る為、死ではないものに気づくことができない。死は死を求めない。死は、死だからだ。」
男は湧き上がってくる肉欲のなかで続けてこう訊ねた。
「俺が、ずっと殺してきた君の家族も、死であるのかい。」
女はその場に座り込み顔を両手で覆う仕草をしたあと、みずからの両の手のひらを見つめ乾いた声で言った。
「死は死を、死に沈め続ける。」


彼女は初めてと殺(屠畜)場の映像を観た時、そこに、彼女の亡き最愛の父親の姿を見つけた。
そして彼女は覚ったんだよ。”死”の連鎖が、”地獄”の連鎖という真の此の世に存在し続ける”悪魔”の存在であるということを。


信号もないのに、男は車を止め、涙を耐えているように見えた。


静寂のあと、男は左手で口元を覆い、目頭を抑えたあと言った。


「俺はまだ…彼女の裸をまともに観たことがないんだ。何故かと言うとね…。俺が生きたまま解体してきた、その姿の、直前の姿に見えてしまうからなんだ。恐ろしくて、見ることができないんだ。その後の工程を…俺は忘れることができないんだよ。」

















一話完結的連続小説「ウェイターの男シリーズ」


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