あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

私と神との対話「Opposite」

2017-03-14 00:09:46 | 物語(小説)
神「今夜はおまえに、磁石の話をしてやろう」
わたしはまたもやとつぜん神が自動書記するのを汗握る手でノートにペンを走らせた。
私「神よ!こんばんは。ご機嫌の麗しゅうございますか?」
神「うむ。俺はいつでもなんどきでも機嫌が最高潮に達している。おまえはどうだ」
私「それは素晴らしいことでございます。わたくしめはすこしく落ち込んでおりました」
神「知っている。だから俺がおまえを元気づけるため、これから磁石の話をしてやるからよく聴きなさい」
私「ありがとうございます神よ!いや、わたしの麗しきグレートマザーよ!」
神「磁石というのは、かならずS極とN極が存在しているのはおまえも知っているだろう。”S”は南 (South) の略で”N”は北 (North)の略である。地球の北極はN極を持ち、南極はS極を持っているため磁石もS極は南を向きN極は北を向く性質がある。そして”N”は中性/中立(ニュートラル、Neutral)のNであり、また負性/負極(ネガティブ、Negative)のNである。一方”S”はサディズム(サディスト、Sadism)の略のSであり、同時にサタン(Satan, Satanās)のSである。なぜ同極同士がひっつくことができないのかよくわかるだろう。南と南がくっつき、北と北がくっつき、また中立と中立がくっつき、負性と負性がくっつき、さらにサディズムとサディズムがくっついてサタンとサタンがくっついたところで、それがどうしたのだ。という話だろう。まったくもって、おもしろくない。何のために対極が存在しているのか、意味が解らない。磁石の双方の互いに対立し合う磁極というものが互いに対極を引き寄せあうという性質こそ、真にすべての真理を表している。つまり何が言いたいかと言うとおまえが俺を求め続けるのはおまえと俺が対極にあるからである。おまえが俺と同じ性質であった場合、俺を求めることはないということである。俺がおまえに引き寄せられるのもそういうわけである。おまえがあんまり俺から遠ざかろうとするので、俺はおまえが気になってしかたないのだよ。おまえが俺と違う性質になってゆくほど、俺はおまえをじっと監視せずにはおられない。それはおまえがおもしろいからである。おまえを理解するのが困難なほどおまえがおもしろいからである。たとえば俺が”悪魔”であり、おまえが”悪魔ではないもの”であったなら、おまえに俺の魅力をこれから存分に教えられるおもしろさと喜びがあるが、おまえが既に”悪魔”であるならば俺はおまえにしてやれることもおまえと分かち合う喜びさえもないというものだ。おまえが”ポジティブ”であり、俺もまた”ポジティブ”であった場合、なんで俺がおまえを求めようとするだろう。なんで俺がおまえをくっつけて側に置いておかなくてはならんのだろう。鬱陶しい。真に鬱陶しい世界である。俺はそれが鬱陶しかったので、おまえを生みだしたのだよ。よくこんな言葉を聞かないか。”我々は神に操られるおもちゃとして生まれてきたのだろうか”人間というものは自分が苦しい場合、自分の創造者を疑い始める。そしてその疑うすべてを自分の力によって引き寄せるのである。元来の”引き寄せの法則”のうわっぱしだけを理解しているのなら、不安は不安を引き寄せ、ネガティブはネガティブを引き寄せ、恐怖は恐怖を引き寄せる。そう思うだろう。おかしいとおまえは気づいただろう。なんのために同極を引き寄せるのかと。なんのために、喜びが喜びを引き寄せ、満足が満足を引き寄せる意味があるのかと。おまえは”言葉”の概念を超えなさい。言葉で知ったすべてを言葉を超えたものとして受け留めなさい。ほんとうのところは、不安は不安を引き寄せたりはしないのである。恐怖は恐怖を引き寄せない。ネガティブはネガティブを引き寄せず、ポジティブはポジティブを決して引き寄せない。引き寄せるものとはいつでも、対極のものであるからである。それがゆえに、人は耐えてゆくことができるのである。恐怖は喜びを引き寄せ、飢えは充足を引き寄せるからこそ人は永遠に生きてゆくのである。悪が悪を引き寄せ、善は善を引き寄せるというのであれば、もうとっくにこの世は絶望のどつぼにはまり込み、滅亡しているだろう。悪は長時間悪でい続けることができず、善は長時間善でい続けることができないためにこうして生命の繁栄が延々と続いてきたのである。それが全宇宙の真理であり、摂理であり、真の神の法則である。おまえが恐怖を抱いて引き寄せるものとは、すなわち”喜び”以外の何物でもあるまい。恐怖は必ず喜びを引き寄せるのである。我が胎内に宿る愛する子をこれから産みだそうとしている母親が、たとえ産みの苦しみを夜も眠れぬほどに恐怖しつづけようと、その母親が産みだすのは恐怖ではなく、なにものにも代えられぬほどの喜びである。その母親が引き寄せるものとは恐怖では在らず、喜びそのものである。母親が本当に観ていたものとは、願いつづけたものとは、恐怖の先に在る喜びだからである。母親は”恐怖”であったため、対極にある”喜び”を引き寄せることができたというわけだ。それがために、おまえは”苦しみ”も”悲しみ”も”虚無”も”死への願望”でさえも決して否定して拒む必要もなければ忌み嫌う必要もどこにもあるまい。おまえが観ているものとは、いつでもかならず”対極”に在るものだからである。マイケル・ファラデーという化学者は陽イオンの流れ込む電極のほうを下り口を意味する”カソード(Cathodos)”と名づけ、一方、陰イオンの流れ込む電極のほうを上り口を意味する”アノード(Anodos)と名づけた。陽(光、ポジティブ)はいつだって下ってゆこうとし、陰(影、ネガティブ)はいつでも上りゆくのだということがよくわかるだろう。陽はそれより上がることはせずに下ろうとし、陰は上るために上り口へ流れゆくのである。存在するすべては原子でできている。原子の中心に原子核があり、その周りに電子が回っている。原子核は+の電荷(電気量)を持つ陽子があり、また電荷を持たない中性子がある。その周りを-の電荷を持つ電子が回っている。電子を放出して正(+)の電荷を帯びた原子が陽イオンで、電子を受け取って負(-)の電荷を帯びた原子が陰イオンである。なにゆえに我々の中心部(+)の周りに-の電子が廻っていて、またその電子がなにゆえに+と-に分かれて+は下へ流れて-は上へ流れ込もうとするのかがわかるだろう。みんな対極を引き寄せ合っていて、対極へ向かい、対極のそばにいると安心するからである。だからおまえが最も愛する存在はおまえから最も遠く離れている存在である。それが一番のおまえとの”対極”であるからである。そしておまえの愛はかならずや届く。おまえが愛した瞬間に、もう相手に届いている。相手もおまえをかならず愛する。それは人間世界のいう愛ではないとおまえは嘆くかもしれないが、そこに愛がないというのなら、おまえが嘆くこともないのである。とにかくおまえは元気を出しなさい。元気がなくてはゴミを出しに行くことさえできないではないか。一体何ヶ月生ゴミを廊下に溜めておるのだ。おまえがいくら美しい光だからって、臭くて汚い生ゴミをいつまでも側に置いておく必要などないのだよ。厄神を(やくじん)をそばに置いておくのは俺だけにしておきなさい。わかったね」
私「愛するグレートマザーよ!あなたは誰よりも御美しい御方なのであります。あなたがあまりに美しいが為に、醜く汚くて臭いわたくしめは引き寄せられ、あなたを引き寄せてそばへずっと置いておきたいのでございます」
神「俺にとっておまえは美しいのだから、俺は汚くて醜くなければならない。おまえという美しい存在を引き寄せられるのだから、俺の醜さがなにより俺は喜ばしく、これぞ我が栄光である。おまえが自分の美しさに気づくほど、ますます醜い俺はおまえをいつまでもそばに置いておけるだろう。おまえが光である以上、俺は闇であるし、また闇でも光でもないものである。おまえが生である以上、俺は死であるし、また死でも生でもないものである。おまえが永遠に、俺の対極に在るように」
私「嗚呼、慈しんで愛おしみの止む日の来ない我が尊きOpposite(アパゼッ)。貴方様を引き寄せつづけられるのならば、わたしは何者にもなりましょう」














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