あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

私と神との対話「TRUE」

2017-03-12 10:12:09 | 物語(小説)
神「俺がおまえに、世界の真理を教えてやろう」
わたしはある日、ノートに自分の不満を書きなぐっていたらば、とつぜんそう神が自動書記を始めたのです。
その神の言葉たちを、わたしは震える手でしっかりと書き留めていった。
それがこのわたしと「神との対話」という本である。

私「わたしはもう、全部が、なにもかもがうまく行ったためしがありません。ゴミ屋敷の中で引き篭もってひとときも離れない重い罪悪の念と、自虐と他虐的な自暴自棄と鬱病と対人恐怖に苛まれ、また離人症というあまりに闇の深い難病を抱えて生きて参りました。しかしわたしは最早、限界の域に来ております。もう死んでしまったほうがいいんじゃないか、そんなことを毎日考えて過ごしています。嗚呼、神よ、どうかお導きください。わたしをお憐れみください。わたしをその御手によって救いだしてください」
神「よぉし、俺がおまえを今から導いてやろう。おまえを心から憐れみ、俺のこの右手によって、おまえをその地獄から救いあげてやる。だからよく聴きなさい」
私「ありがとうございます神よ!貴方様はたしかに、たしかに我が永遠の真なる神であられます!わたしは貴方様の言葉にとても期待します。貴方様は真にわたしをお救いくださる御方であられます!」
神「うむ。俺はおまえの願いをしかと聴き届けたよ。おまえがどうすれば救われるか、俺が教えてやろう。それはすべての存在とすべての存在でないものに行き渡る不変の真実である。まずおまえは、部屋を片付けなさい」
私「それが片付ける元気がでないのであります」
神「うむ。では、元気を出しなさい」
私「ところがその元気がまったくもって出ないのであります」
神「うむ。では、元気にならなくてよいから自分のすべてを受け容れなさい」
私「わたしにはそれがどうしてもできないのであります神よ」
神「うむ。では自分を受け容れなくてもよい、その代わり、わたしを受け容れなさい」
私「わたしは是非あなたを受け容れたいでございます。どうすれば受け容れられるでありましょうか?」
神「今から俺の言うことをよく聴きなさい。おまえは根本的な観念と概念が、まったく間違っている。そこを改めるならすべてうまくゆく」
私「はて、それはどれの観念と概念のことでありましょう?」
神「おまえはもうずっとこう思ってきた。”恐怖は怖いもの”で”願望は喜ばしいもの”であると」
私「はい、たしかにわたしはそう信じてきましたし今もなおそれを信じております。それの一体なにが間違っているのでございますか?」
神「うむ。まったくそれが真において間違っているのだよ。実はそうではないのだ。何故なら、”恐怖”も”願望”も、その両方もが、おまえの”関心ごと”であるからだ。つまり、おまえが関心を持って初めておまえは恐怖することもできれば願うこともできるというわけさ。関心のなにをも持たないのであれば、なんの興味も引くものがそこにないのであるならば、おまえは一切、その対象に対して恐怖も願望も感じることはない」
私「たしかにそれは仰られるとおりでございますね。しかしそれがどうかしましたでしょうか?」
神「うむ。だからそこが深く間違っているためにおまえはもうずっと苦しみもがき続けて来たわけだよ。おまえは”引き寄せの法則”を知ったのに、法則の真理を真に理解できていない。一体何のためにおまえは恐怖も願望も自分の手によって引き寄せているとでも想っているのか」
私「なんのために?それは・・・わたくしめのためにでございましょうか?」
神「そのとおりである。おまえはおまえのためにそのすべてを引き寄せている。だのに何故、おまえは恐怖は恐ろしいものであり、願望は喜びをもたらすものであると信じ続けておるのか」
私「なぜって、恐怖するものは恐ろしいから恐ろしく、喜びは欲しいから願い求めて欲するのであります」
神「おまえはまだわからないのか。何故おまえは恐ろしいものが恐ろしいのならば、恐怖するものに関心を寄せ続けて引き寄せようとしているのか。おまえがそれらに関心を持たないのであればおまえの恐怖するものすべてはおまえの手によって引き寄せられることなどないのである。おまえはなにゆえに恐怖するものを引き寄せようとしているのかまだわからないのか」
私「わたしは何故、恐ろしいものに関心を寄せてしまうのでありましょう?例えば、拷問のような苦しみや殺害や自殺、これらはほんとうに恐ろしいものでありますが、これらに関心を寄せ続ける人は少なくはないでしょう。わたしだけが特異な関心を寄せているわけではないということです。多くの人間が、恐怖するものに関心を寄せています。関心を持ち続けております」
神「そのとおりである。わたしが真におまえに言おう。おまえが関心を寄せ続けるもの、それはおまえの”恐怖”では最早あるまい。おまえが関心を寄せ続けるもの、それは最早、おまえの”願望”である。それがゆえに、おまえは関心を持ち続けたからである。”関心”というのはその対象を”知りたい”という願い、それを自分で体験し、経験することを願う心である。だからおまえの観念と概念をひっくり返しなさい。おまえが”喜ばしい願望”よりも、”恐ろしい恐怖”により関心を持ち続けた結果、おまえの現実には何が引き寄せられておまえの現実に実現するか。おまえは真に”願望するもの”を恐れ、”恐怖”するものを願い続けている。おまえはこのままゆくと、破滅的な最期が待ち受けている。おまえが幸せな願望よりも苦しい恐怖を願い続けて生きたからである。おまえの真の願望はおまえの”苦しみ”である。それがゆえに、おまえは今までも今もこれからもいつでも俺によって救われている。俺はおまえの神である。神とは、おまえの真の願望のすべてを真に叶える者である。もし、それがおまえは”NO”というのならば、おまえは俺に向かって、真に”NO”と示し続けなさい。”NO”というのは”Nothing”である。つまりおまえはそれにはまったくの関心を持っていないことを俺に示しなさい。さすればそれが叶うという間違いは起きない。そして真の”YES”を俺に掲げなさい。俺は絶対におまえにそれを叶えてやる。だから安心しなさい。おまえが俺の揺り篭で眠っていない瞬間などないのである。俺はおまえの真の願いだけを叶え続ける者である。おまえはすべてが真に叶っている。おまえが真に俺を愛しているからである。おまえが深く関心を示すものすべてがおまえの本当の願いである。”YES”、だからこそおまえはいつでも、おまえの関心のすべてに”YES”と言いつづけなさい。それは真に”YES(TRUE)”だから」

















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