あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「ピアノ・レッスン」人間の情熱は、必ず身勝手なものである。

2017-03-21 00:59:44 | 映画
ジェーン・カンピオン監督の1993年の映画『ピアノ・レッスン(原題:The Piano)』をやっとこさ鑑賞しました。













これは映画を知らない人でも音楽を聴けば聴いたことのある人は多いのではなかろうか。



Michael Nyman - The heart asks pleasure first





自分は当時これのサントラの音楽がしょっちゅうテレビのCMで流れていたのを聴いて(当時13歳くらいだったと想う)すごくいい音楽だと想って誰の音楽か知りたかったのだが、いったい誰の音楽なのかわからずじまいだった。
それで何年か前にこの「ピアノ・レッスン」という映画のサントラ曲であることを知ってとても嬉しくてサントラを聴いていた。
それでやっと今日観れた映画なのですが、大変良い映画であった。
「官能的」ということ以外まったく知らずに観たのだが、これほどまでに原始的で官能的な映画だとは想わなかった。
映像美も素晴らしく、自分好みのダークな曇り空や海と砂浜の色、そして原生林の野生の濃い土や緑の色といった自然の根源的な美がまた人間の官能美を際立たせて自分は終始うっとりとしてしまう映画であった。

”女性の求めるものがこの映画にある”、”女性の琴線に深く触れる映画”などと言われていることに大いに納得してしまう。
女性というのは男性よりもずっと野生的な存在であるのだな。
主役のホリー・ハンターが是非ともこの主演を自分が演じたいと監督に売り込んだという話もいい話ですね。
自分も女優だったらば、というか女性だったらば、一度は経験したい愛なのではなかろうか。
一度は”殺される覚悟”で人を愛したいと、多くの女性が感動して共感するものが確かにこの映画には詰まっているのでしょう。



何故、人は男も女も”理性で感情を抑えること”が美徳であるのだと言われるようになってしまったのでしょうか。
わたしはちっともそれは想いません。
むしろ男から殴られるかもしれないことも恐れず泣き叫んで感情をぶちまけている女性なんか見るとぐっと来るものがあります。
しかしこの映画の主人公エイダは口がきけないので、泣き叫ぶことができないのです。
何故そんな苦しみのなかにいる女性を”自分勝手な人間”だと人は想うのでしょう。
それは彼女の苦しみを想像もしていないからです。
だから感情を抑えず野生的に行動する人間を”自己中心的で醜い”と言うのです。
でもこの映画の主要人物はすべてが苦しんでいる者たちです。
だからこそ美しく、官能的で恍惚に溢れているのです。
理性で感情を抑えることこそ苦しく美しいと想っている人は人間の苦しみをわかっちゃいない。

ちゃいますか?
理性が美徳だとか言うのなら、肉食やめたらどうですか?
肉食こそ野蛮で暴力でよっぽど自分勝手で自己中心的な人間の行いじゃないですか。
あなたは野性性の美しさをわかっているのです。
自分の身勝手さを受け容れて(許して)いるのです。
だから肉喰うてるのです。
だから他者の野性性を醜いなんて言っちゃ、ただの棚上げです。
肯定してください。
人間の醜さなんてもの、ほんとうはどこにもないのです。
そこに苦しみがある限り、そこに哀しみがある限り、ただひたすらに美しいばかりなのです。
身勝手な人間ほど、苦しみの中に救いを求めています。
”求めること”それが美しさであり、すべての愛なのです。



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