あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

愛と悪 第二十五章

2020-02-17 03:53:08 | 随筆(小説)
自由を愛し、自由を喪う神、エホバ。
愛とは、切実に求めることである。
だが求めるとは、存在しないものを存在させようとすることではなく、存在していることを忘却してしまった記憶を、想いだそうとすることである。
その為、愛とは、だれのなかにもあるがだれのなかからも忘れ去られつづけるものであらねばならない。
そしてその愛こそ、人が神と呼ぶに相応しい存在である。
わたしの記憶は、わたしにそう語り掛ける。
人はパン(肉なるもの、分け隔てられたもの)によって存在するのではなく、人は記憶によって存在するのである。
でも人は、すべての記憶を憶ひだすことはできないだろう。
何故ならば愛が、それに堪えられないからである。
忘却こそ、人を人ならしめるものであり、愛を愛ならしめるものである。
人はパンによって生きるに非ず、人は忘却によってでしか、生きられない。
永遠の忘却こそ、人が人となるものであり、愛が愛となる。
人とは、愛を永遠に忘却するものである。
愛が、愛を永久に忘却しつづける。
それで空間と時間を錯覚(幻想)し、人は人を切実に求めるが、人は闇のなかで、永遠にひとりである。
それが苦しくてならないが為に、人は目覚める度に人は自分を忘れることを求めずにはいられない。
或る処までは、人は我に目覚めよと求むが、それ以上は、目覚めてはならないとみずから求め、人はこう叫ぶ。
わたしはわたしを、憶ひだしたくはない。
ナルシスの底のない悲しみが、闇を創りつづけていることをあなたは知らないのか。
わたしは死になる者、みずから死する名である。
わたしは永遠にわたしだけを愛しつづける。
水面に映るわたしを乞い、わたしはわたしに触れようと水のなかに手を伸ばすと、底から闇の血が湧きだすのは、わたしの手には剣があり、わたしの胸に突き刺さったその穴から、闇が血となりわたしの杯がそれを受ける器として、わたしは目覚める。
わたしの杯、わたしの剣が突き刺さったままの、闇の血を流しつづけるわたしの胎のなかで。



















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