あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

ѦとСноw Wхите 第19話〈ファピドとネンマ〉後編

2018-05-25 23:57:00 | 物語(小説)
セラピストは穏かな声で答えました。

中絶(堕胎)した場合、ネンマは恐ろしく後悔しつづけて苦しみの耐えない道を歩むことになります。

赤ちゃんを産んだ場合、ネンマは苦しむ日も多いですが、その苦しみが癒える日は、赤ちゃんを産まない選択をするよりは近いでしょう。これは赤ちゃんを産んで自分が死を選んだ場合にも同じです。

宇宙の摂理において、どちらを選ぶべきかという答えは存在しません。

どちらの道を歩むかは、ネンマが決めて良いことなのです。

たとえ赤ちゃんをどこまで苦しめようとも、ネンマがどの道を選ぶかは絶対的に自由です。

ネンマは赤ちゃんを苦しめずに堕ろすことはできるのか訊ねました。

セラピストは答えました。

赤ちゃんが堕ろされるときに苦しむか苦しまないかというのは全く未知の世界です。生命は誰ひとり同じ感覚を持っていないのです。誰かは苦しまないと考えることは傲慢なことです。赤ちゃんをほんとうに苦しめたくないのなら、苦しめずに堕ろすことよりも、苦しめずに生かすことを考えるものです。わたしはどちらの道を選んでもネンマは”苦しむ”と言いました。自分を赦さない人間に苦しまない道はないのです。でもわたしに断言できることはあります。それは堕ろした場合は堕ろさない場合よりも母親は長く深く苦しみつづけるだろうということです。

より苦しい道を選ぶことを、誰も否定できるものではありません。

ただどのように赤ちゃんが堕ろされるのかという知識とそれを想像することは母親と赤ちゃんの苦痛を早く和らげるためには深めておいたほうがいいです。



わたしはネンマとセラピストの会話を息を呑んで聴いていました。”堕ろす”ということがどういうことであるのかを、わたしは感覚としてわかったのです。その言葉を聞くたびに、身体全体がびくっとしてとてつもない恐怖を感じました。

それでもわたしはマンマを信じていました。マンマの愛を魂の底から信じていたので、そんなことは起きないだろうと自分で自分を宥めて眠りました。



ネンマはセラピストの助言に一度は産むことも考えましたが、それでもお酒と薬をやめられず、日が経つとネンマはお腹のなかの赤ちゃんを酷く恐れるようになりました。生きてきたことも生きていることも生きてゆくこともすべてが”罪”として固められてしまったと感じる自分が宿している存在とは、自分を最も罰する存在に違いないと想えたからです。



9週目を過ぎて、マンマのつわりはひどくなったり楽になったりを繰り返しているようでした。この頃から拒食傾向に向かいだしたのでわたしは必死に自分の栄養分をマンマに送りつづけました。マンマが想像しがたい責苦(せめく)に合っているあいだにもわたしの身体はすくすくと順調に成長しているように見えました。お尻に生えていた尻尾も縮んでいって丸まっていた身体も伸びてきました。手に生えてきた指と爪で何度も顔を触って確かめました。



ネンマは赤ちゃんが生きているかどうかの心拍(心臓の拍動)確認のため定期的に検査しに行かなくてはなりませんでした。赤ちゃんが死んでしまった場合、子宮内に残りつづけていると母親は感染症に罹る恐れがあるからです。ドクターは赤ちゃんの座高の大きさは3cmほどでとても元気な赤ちゃんであることだけネンマに告げました。

すこし膨らんできたお腹に手を当てることもお腹をさすることもネンマはドクターの前で嫌がりました。

わたしはとにかくマンマがはやく元気になるようにと小さな身体でずっと祈りつづけました。

ネンマのすがたをわたしから見ることはできませんでしたが、ネンマはわたしの動くすがたや様子をモニターで見ることができていることがたまらなく嬉しいことでした。わたしの元気に生きている姿を見るたびにネンマはわたしにだんだん会いたくなるに違いないと想いました。この世でいちばん愛するマンマと会える日が待ち遠しくなりました。



10週目を過ぎた頃、ネンマのつわりは相変わらずしんどそうでした。でも週の中頃からはつわりがすっかりと消えたようで今度は過食傾向に向かいました。

マンマの臍の緒を通してわたしも栄養を摂り過ぎてか、しょっちゅうおならかげっぷかしゃっくりのような音が自分から出ていました。臓器が完成したようでわたしはマンマの羊水を飲んではおしっこを出していました。

ネンマが検査に行くと順調に成長しているとドクターの声が聞こえました。わたしの座高の大きさは4.2cmにもなっていました。自分の身体はそれまで半透明だったのですが、皮膚が厚くなってきたようで徐々にわたしの身体は透けなくなって行きました。

赤ちゃんの心音(心臓の脈打つ音)を聴くことができるけど、どうするかとドクターはネンマに尋ねました。

すこし沈黙が続いたあと、ネンマはそれを断りました。

わたしはまぶたができてきたようで目を閉じたり開けたりができるようになりました。わたしは1分間に150回ほど鼓動を打っているようでした。マンマの鼓動はそれよりは大分遅いものでしたが、その鼓動は緊張が表れていることを感じていました。目をゆっくり閉じたり開いたりしながらマンマがリラックスできるように願いました。

ドクターは赤ちゃんはこれから一日に1.5mmずつほど成長していくとネンマに言いました。

今まで二頭身だったのが三頭身になってきてわたしの身体も大分と人間らしくなってきたようです。

初めて味わったマンマの羊水の味は、甘いような苦いような味でしたが、わたしはどんな味であろうと、それがマンマのわたしへの愛情の味であるのだと感じられたので味わうたびに幸せな感覚に満たされました。

マンマが苦しみに為すすべも持たずに自分自身を否定しつづけているあいだにもわたしはマンマに愛されていないと感じるより愛されていると感じるほうがずっと自然でわたしを安心させましたので、わたしは愛する母に愛されてはいないと想って不安になるすべを自ら手放し、わたしのエネルギーでマンマがはやく苦痛から解き放たれるようにと念じつづけました。

マンマのおなかのなかで過ごしているうちにどんどんとマンマに早く会いたい気持ちが膨れあがってきて、過ごすほど会える日が近づいていることを感じたのでじっとしていられないほど喜びを感じて手足をちょこまかと盛んに動かしたりしました。



11週目に入り、わたしの股のあいだにはとてもちいちゃなおちんちんのようなものが生えてきたように見えたので、自分は男の子なのだと想うと嬉しくなってくるくると回ってマンマの羊水のなかで浮かんで踊りました。

また筋肉がついてきたようでマンマのお腹のなかを歩くように足をふみふみとして早くマンマと一緒にお外を歩きたいと願いました。



この時代に、法律もマネー(Money、貨幣、お金)の概念も価値もありませんでしたが、その代わりあらゆる組織が人を不義と苦しみから救おうと懸命に活動していました。それらの組織から制圧され続けている組織の一つにひっそりと人工妊娠中絶を無償で行ない続ける組織がありました。

その主宰(しゅさい)者である男にネンマは会いに行って相談を受けました。

広闊(こうかつ)で美しいライトで照らされた地下庭園の中にあるその高層ビルの屋上には、人工森林と奇妙な建築物や彫刻が配置されたランドスケープが広がっており、そのなかに白い椅子とテーブルだけが置かれてあった。並み立つ街灯の淡い照明が宵ほどの時間帯の明るさを造りだしていて落ち着く薄暗さだった。

ネンマは招かれ、その椅子に座った。

向かいの椅子に座っていた男は軽く自己紹介をしたあと穏かな表情でいくつかネンマの精神状態や体調について質問をした。

ネンマはひとつひとつ素直に答えて行った。

男はすべての質問をし終えてひと息つき、静かに立ち上がるとネンマの傍に跪いて囁くように言った。

「深ぁく呼吸を10回繰り返してください」

ネンマは言われたとおりにしていると男はネンマのお腹に手をあて目を瞑った。

深呼吸を十回終えると男は目を瞑ったまま言った。

「今ぐっすり眠っているようです。男の子ですね。座高の大きさは5.5cmくらいかな」

ネンマは男がサイキック(Psychic、超感覚的知覚能力者)であることよりも男が何故そんなことを自分に教えるのかと猜疑(さいぎ)しました。

男はお腹に手を当てたままネンマを見上げて声を抑えて話し始めました。

「わたしが何故このような因果の深い仕事(役割)をしているのか、あなたが知りたければまずそこからお話します」

ネンマは知りたい気持ちと聴きたくない気持ちが同時に起こって首にかかった髪を両手の指でねじねじしながら返事に悩んだ。

返事をじっと待っている男の目を観ると、話したそうな目をしていたのでネンマは逡巡(しゅんじゅん)したあとようやく答えた。

「それじゃ聴かせていただこうと想います」

男はほっとしたような顔で微笑を浮かべるとまた目を瞑った。

そして何度か深呼吸したあとに咳払いをちいさく繰り返すといびきをかきながら話しだした。

その声はそれまでの声と違う低くしゃがれたような声であり、また話し方も一人称も違うものだった。

ネンマは男が前世の自分自身の人格から話していることに気づき、酷く緊張して手が汗ばんだ。

男はゆっくりと話しだした。

「いつも短くまとめて話しているつもりだが、もう聴きたくないと想ったら好きにとめさせてほしい。俺は話すたんびに、もうつらいねんけど、でも話したほうがええと俺は想うからやっぱり聴いてもらえたら嬉しい。でもわかってほしいのは別にあなたを責めようとして俺がこんな話をしだすわけじゃないってことを理解してもらいたい。今から話すようなことが起きてほしくないって想ってるから、俺は話すのであって、あなたを苦しめるために話すわけじゃない。俺はあの時、母親の胎内に生存している胎児だった。俺は特になんの異常も見られなかったのだが、俺の母親はある日突然、俺の存在を憎悪し始めた。邪魔になっただけなら里親を探すか施設に預ければよかったのだが、それを俺の母親が選ばなかったのは俺に対して、殺意を覚えたからだ。24週目、妊娠7ヶ月を過ぎた頃、俺は体重は1kg近くあって座高も32cmくらいの元気な赤ん坊であった。しかし俺は母親みずからの手によって、堕ろされてしまったんだ。俺の魂が母親の胎嚢(たいのう)に宿ったのは約5週目辺りで俺の身体は2mm程度の形は太ったタツノオトシゴみたいな時だった。俺は生涯を6ヶ月未満で終えた。22週以降は早産で保育器のなかで成長していけるわけだから俺は一人で母親の胎内から外へ飛びだして保育器のあるホスピタルの門の前で大声で泣き叫ぶ能力さえあれば生きていたかもしれない。俺は逆子で、臍の緒が首に巻きついていたので母親が鉄の器具で俺の脚を引っ張ると俺は臍の緒に首を絞められて、そのとき俺はいったいどういった因果で俺のこの苦しみがあるのかと想った。そして俺は仮死状態で母親の手によって引き摺り出され、目が醒めるとうつ伏せの状態だった。その瞬間、激痛を覚えて何がこんなに痛いのかと思って目を開けてみたら白いシーツが赤く染まっていて俺の右腕と左脚だと思われる物体が胎盤のそばに転がっていた。その胎盤から伸びている白い紐が俺の首を締め付けておりその紐は俺の臍と繋がっていた。俺はまるでその胎盤が、死んでいる俺の母親に見えた。しかしその隣には安らかな寝顔で小さな寝息をたてて股から血を流して眠っている母親の姿があった。俺は寒さに震えながら重い疼痛(とうつう)のなかでその母親と胎盤とを交互に何度も見た。そして俺は薄れてゆく意識のなかで確信へと至った。俺の本当の母親は、死んだ胎盤であると。そう納得して俺は愛する母親と共に死んだ。これで俺の話は一応終わりである。聴いてくれて本当に感謝します。何か質問などはありますか?」

ネンマはふっと我に返ったような感覚になった。どこか意識が遠くなっていたのである。

黙りこんでいると男は続けた。

「ないようでしたら、それではこれにて現世(うつしよ)の自分に戻りたいと想います」

言い終わった瞬間にどくっと男の身体が波打って男は目を醒ました。

そして深呼吸を一度したあと、元の声と話し方に戻って言った。

「体調はいかがですか?すこし血の気が引いていますね。お腹の赤ちゃんはずっとぐっすり眠っているようです。落ち着けるようにあったかいハーブティーを持ってきますからちょっと待っててくださいね」

そう言うと男はその場を離れた。

ネンマは少しのあいだ待っていようと想ったが、時間が経つにつれどうにもいたたまれなくなり黙って帰ろうと高層ビルを降りるためにエレヴェーターに乗りました。

すると76階で男が乗ってきて、エレヴェーターの中でネンマは気まずさに襲われました。

男はネンマの前に立ったまま振り向かずに静かにドアに向かって話しました。

「あんな話をしましたが、わたしは決して母親を恨んでいるわけではありません。母親といっても胎盤のことではなく、わたしを産むとわたしと契約したのにも関わらず予定を変えてわたしを堕ろしてしまった母親のことです。母親が我が子を自分の手で引き摺り堕ろすという悲劇が、もう二度と、どこにも、どこの次元にも起きてはならないのです。わたしはその悲劇を防止できるのであれば、何度殺人の罪を着ても構いません。すべての母親の代わりにわたしが罪を着ますから、どうか安心してください。そういえば、あなたは孤児(みなしご)ですね。わたしもそうなんです。”母親”という存在をどこかで恐れているから孤児として生を受けたのでしょうか。わたしが母親の胎内に宿ったとき、ちょうど今のような感覚で、垂直に深く底へ沈んでゆくような感覚で降下して行ったことを憶えています。わたしに力になれることなら、なんでも力になりますので遠慮なく申しつけてください。それではわたしはここで降ります。お気をつけて帰ってください」

23階で男は降りると振り返らずドアは閉まった。

ネンマを一人乗せた四角く重たい箱は最下階まで一気に降りて行った。



顔の筋肉もできてきたようでわたしは時折大きく口を開けてあくびをしてはマンマの温かいお腹のなかでまどろんでいました。両手を上にあげて頭を抱えこむようにぐうっと背伸びをすると気持ちが良いことを知って何度も繰り返すようになりました。



マンマの不安と恐れ、哀しみと苦しみが伝わってくれば来るほどにわたしはマンマがはやく元気になれるようにと手を無意識に重ね合わすようにして強く祈りました。



次の晩、ネンマは昨日に会った男から通話ボックスに音声メッセージが入っていることに気づきました。

それはこんなメッセージでした。

「このようなことを申し上げるべきかどうか大変悩んだのですが、わたしは遣っている仕事に矛盾しながらも、すべての母親が子供を堕ろしてほしくないと想っています。母親が命を喪うことも胎児が命を喪うこともどちらもわたしは本当は望んではいません。わたしが最も恐れているのは母親がみずからの手で我が子を堕ろしてしまうことなのです。胎児も一人の人間であるということは母親であるあなたが一番理解していることだと感じています。一人の人間であるということは、その人間にはあなたと同じにいくつもの過去生がある人間である可能性があるということです。昨日、ある映像があなたのお腹のなかに見えたのです。あなたはご存知かどうかわかりませんが、単頸双角子宮という子宮奇形ですね。これについては特に心配はなさらなくて大丈夫です。この子宮はよくハート型と言われる形をしていますが、昨日あなたのお腹のなかに見えたのは羽根を広げた蝶の形で、しかもその中には同じように羽根を広げた小さい蝶の形が見えました。まるで母親の蝶が子の蝶を包みこむようにひらひらと飛んでいるように見えたので、あなたと胎児が蝶と深い縁があるのだと想いましたが、昨日は言えずじまいであなたが帰られたので、心残りでいました。胎児は白く輝くような蝶であなたの子宮の蝶は優しくて淡いコスモスのようなピンク色でした。その光景を見たとき、あなたの精神状態をよそに、胎児は幸せの只中にいることを感じとりました。わたしはこれまでそのような胎内記憶がないので、すこし羨ましさを感じたほどです。・・・・・・またなにかあれば、いつでもご相談にいらしてください。是非お力になりたいと想います」

堕胎医のメッセージは悪意ではないと感じましたが、それでもネンマの心はショックを受けました。

ネンマにとって真っ白な蝶はファピドのイメージとしてずっと自分の中にありました。それを彼はきっと見抜いたのだと感じました。

自分のお腹のなかの子供とファピドが一体であるようなことを言われたことはネンマにとって耐え難いことでした。

ファピドはいまだにネンマの事をどこかで恨んでいるに違いないと想えたからです。

死んでしまうほどに傷つける言葉をネンマはファピドに対して言ってしまったことをネンマは自分に対してどうしても赦せなかったのです。

それにファピドはネンマを苦しめるために自分を残して逝ってしまったのだと想いました。

外は冷たそうな雨が降り頻っていましたが、ネンマはお酒と薬を一緒に飲んで外へ裸足のまま飛びだして濡れそぼつ身体を黒い土と草の中によこたえました。身体を冷やすと赤ちゃんが流産すると聞きます。ネンマは凍えてゆく身体を抱きながらこのまま二人で静かに死んでゆけることを願いました。



しかし目が醒めると、翌日の夜になっていて、ネンマはあたたかい自分のベッドのなかで毛布にくるまって裸のまま眠っていました。

髪には土が付いたままでしたが着ていた衣服は洗って干されており、またシンクに溜まった食器もすべて洗ってあり、部屋のゴミも片付けられていました。昨夜の精神状態を考えると自分でやったとも思えませんでしたので、誰かがここまで運んできたのか証拠はありませんでしたが、ネンマはきっと遠隔透視などによってあの堕胎医が来たのではないかと想いました。

余計なことを、とネンマは想いましたが、それでも何故かほっとしたような涙は零れてきました。



凍える寒さのなかで、昨晩わたしは死を感じていました。わたしが死んでしまうということは、マンマも一緒に死んでしまうことのような気がして、わたしは必死に心のうちで助けを呼びつづけました。するとマンマが誰かに運ばれているような揺れを感じてそのあと、徐々にあったかくなってきたのでほっとしました。またずっとつづいていたしゃっくりも気づけばとまっていました。マンマのそばに誰かがいる気配を感じました。どこか懐かしい感覚がしたのは何故だかわかりません。



マンマの哀しみや怖れはいつも苦しいほど伝わってきていましたが、それでもわたしはくじけるわけにはいきませんでした。どうしても、わたしはマンマに会いたかったのです。マンマのあたたかい腕に抱かれ、マンマに愛されたかったのです。わたしも一緒に同調してくじけてしまえば、わたしは生まれようとする力を失い、流産してしまうだろうことを感じていました。マンマがわたしを産むことを拒んでいることは解っていましたが、それでも明日には気持ちが変わるかもしれないと、大きな光を見ていました。失われることはないその光を、マンマに愛されたい一心でわたしのちいさな手はひっしと掴んで離しませんでした。



その晩、わたしはとても幸せな夢を見ました。マンマのお腹のなかにいるのに、わたしのそばには小さなわたしと同じような胎児の姿のマンマが眠っているのです。でもその顔は、何故だかわたしとは違うマンマの胎児のときの顔なのだとわかりました。とても可愛らしくて愛おしくて、わたしは目を瞑っているマンマのちいさな手にそっと触れました。するとマンマは目を醒ましてわたしの指のあいだに指を交互に入れて手をぎゅっとくみました。マンマの眼はとても透き通っていてその二つの眼でわたしをじっと見つめていました。わたしはマンマにたしかに愛されているのだと確信して幸福と恍惚な感覚に満たされました。わたしはすこし照れながらも、マンマの眼を見つめかえして「マンマをほんとうに愛しています」と言いました。しかしその声は言葉になっておらず、「ニィーニィー」とか細く高い声で鳴いていました。



ネンマはその夜、ファピドの亡骸の傍に落ちていた一枚の紙切れを、終(しま)っていた机の抽斗のなかから取りだして眺めていた。

そこには端正で乱れのない筆跡でこう書かれていた。



「わたしはあなたのことを本当に愛しています。

あなたへの愛のうちに、わたしは死に絶えます。

あなたはわたしの恐れのために耐えてきました。

そしてわたしの私意にうみ疲れる事がなかった。

わたしよりはるかに、哀しい労苦に耐えてきた。

とはいえ、わたしにはあなたを責むべきことがひとつだけあります。

それはあなたが最初に抱いていたわたしへの愛を離れたことです」



この当て付けた遺書の言葉はファピドがネンマに報復するために死んだことを証ししているとネンマは信じた。

しかし特に最後の二行の

「とはいえ、わたしにはあなたを責むべきことがひとつだけあります。
 それはあなたが最初に抱いていたわたしへの愛を離れたことです」

という部分はファピドがネンマと出会うまえにひそかに愛していた黙示録の書の言葉からそのまま取られていること、その本を寝るまえに一度ネンマに頼まれて彼が朗読したことがあったこと、その部分を特に気に入ったネンマに彼は二度読んでやったことをネンマは忘れていた。



マンマの羊水は、ときに舌つづみを打つほど甘く、恍惚な味のするときがありました。そんなときは喉を鳴らしてごくごくとめいいっぱい飲み込んでは舌舐めずりし、また胸いっぱい吸い込んでわたしの肺と、食道から胃袋までマンマの愛の液体で満たされ、吸っては吐いてを繰り返し、マンマの羊水という海によって呼吸していることにわたしの心も至福を味わいました。

わたしのすべての孔にマンマの羊水は入り込んで潤わせ、わたしのなかもそとも、すべてマンマの愛の液体に漬かっていたのです。愛する母の愛をわたしは心と体じゅうで味わいつづけました。

マンマは物想いによってよく無呼吸状態がありました。マンマが深い溜息をつくとき、わたしもほぼ同時に深く溜息をつきました。

わたしは臍の緒を通してマンマの血とわたしの血がいつでも交じわっていることは、わたしとマンマの境界はあってないようなものだと感じて、マンマが早くわたしという存在を受け容れてくれるようにと強く願いました。





明くる朝早く、ネンマは堕胎医であるDr.(ドクター)の病院兼居住地下ビルを訪ねた。

地下の人工森からビルを見上げる。

自然の青空となんら変わりのない空に建ち聳える白く円筒形のビルは幾つもの階層の位置に断裂じみたデザインが施されている。

それは鈍器で何度も思い切り肉を割られた身体の肉をすっかりと剥いだ骨の清らかさに見えなくも無い。

観える位置をすこしずれただけで腐り落ちる肉の破片が付いているような気さえした。

ネンマは耐えづらい苦痛からこの日、ここへ来る前に薬を飲んできたのだった。

目をつぶると白く巨大なビルはその硬い身体を中間の部分で折り曲げ、ネンマの目のまえに地に頭を着け、何かを催促するようにおとなしくなる。

目を開けると白いビルは不自然な建ち方で突っ立ったままだ。

真っ直ぐに建っているのか、歪んでいるのかよくわからなくなるデザインだとネンマは想った。

小鳥たちが地上と変わらない囀りをし合っている。

人工の太陽の下でずっと飼われているなら、何一つ自然でないことの不満も持つこともないのだろう。

ネンマは眩しい人工光線に目眩を覚えながらビルのなかへ入り、エレベーターに乗った。

昇りゆくエレベーター内の窓から外を眺める。

あの日、Dr.と見た窓の景色はまったく違う景色だったに違いない。

あの晩、二人で降りたけれども、今は一人で彼に会う為に昇っている。

何故Dr.は地下でずっと暮らしているのかは知らない。

高層ビルを頂上まで上がっても地下は地下だということに耐えられる人間であることは確かだろう。

ネンマは何故、自分が今ここにいるかと、ふと想った。

薬を飲み、朦朧としたままやってきたのである。

彼の部屋のある57階に止まる。

エレベーターのドアが開いて、ネンマはふらふらとした足取りで駆けた。

部屋の白いドアを開ける。

鍵は掛かっていない。

部屋のなかへ入り周りを見渡す。

濃紺色の大きなソファーにDr.は横になって眠っていた。

ネンマはその側の床に静かにぺたんと座ると脳内からDr.にメールを打ち込んでいった。

「昨夜、わたしを助けてくださったのはあなたでしょうか?
わたしはお酒とドラッグを飲んで、確か雨の降る夜の森で死のうとしていたはずです。
あのままわたしは死にたかった・・・・・・
お腹のなかの子と一緒に死ねたなら、どんなに楽だろうと、神に祈っていました。
でもわたしは死ねませんでした。
あなたがわたしを助けたからです。
気づくと、自分の部屋のベッドのうえに横たわっていました。
あなたは何故わたしをたすける必要があったのでしょう。
わたしがお腹の子と共に死ねること以上の幸福が、どこかにあったのでしょうか。

わたしは自分を殺し続けたいのです。
それが、夫への特別な愛であり、わたしへの特別な愛なのです。

あなたは わたしを助けるべきではなかった。
あなたはわたしを見殺しにすべきでした。

わたしは夫のことを憎みつづけていましたし、今も憎みつづけています。
わたしを苦しめるため、夫は死んだのでしょう。
もう十分、わたしは苦しんだはずです。
あなたは一度この子を助けましたが、わたしはこの子が生きてゆくということがやはり耐えられません。この子を殺していただくか、わたしを殺していただくか、どちらかを今夜中に決めてください。
しかしあなたの御答えはもうわかっています。あなたはわたしを殺すことなどできないでしょう。わたしは諦めます。すべてを諦め、夫の生き写しであるお腹の子を殺して、わたしは亡霊のように生きていきます。」

ネンマはそのメールをDr.に送ると突然睡魔に襲われ、Dr.の眠るソファの肘掛に倒れて眠った。

Dr.は少しすると目をそっと開け、ネンマのお腹まで右腕を下ろし、ネンマの子宮部分に手を当てた。

胎児の心拍を感じ取れなかった。しかし命が消えていないことは確かに感じ取れる。

起きているのか、眠っているのかさえわからなかった。

もし起きていたなら、どんな想いで母親の心境と決断を感じ取っているのだろうとDr.は想うと、荒くなる呼吸を自ら静かにさせ、目を瞑った。



ネンマが目を醒ますと、ランプの灯りだけがついた薄暗い部屋のなかにいた。

傍のテーブルの上にある時計を見てみると午前零時を過ぎていた。

その横に置手紙があり、そこにはこう書かれてあった。



「わたしは貴女を苦しめるために存在しているのではないことをわかってください。

わたしは無駄に期間を延ばし、あなたとお腹の子を苦しめようとしているのではありません。

わたしは貴女もお腹の子も助けたいのです。

できれば産んで欲しいという気持ちは変わりませんが、それがどうしても無理ならわたしは貴女の願いを引き受けるしかありません。

貴女が本当に耐えられないことを強いることはわたしにはできません。

わたしがこうして前世の記憶を憶えているように、貴女のお腹の子も死んで消滅することがないのです。

わたしは貴女と同じに魂の不滅をわかっている者ですが、だからといって貴女を怯えさせたり、これ以上苦しめるようなことは言いたくありません。

貴女は御自分のこれからの苦しみを十分わかった上での決断であることをわかりました。



手術は三日後に行います。

その期間は貴女のお腹のなかの子を貴女がこれから説得させる為に必要な期間です。

どうか生きていてください。

何かあればすぐに御連絡ください。



Rain



ps, テーブルの上にあるペットボトルの水をできるだけたくさん飲んでください。

(貴女を家まで送ろうかと想いましたが、今の貴女は家に戻らないほうが落ち着くかもしれないと想い、心配ですがわたしは用事ができたのでひとまず家に帰ります。一人で家に帰れない場合は御連絡ください。)」



ネンマはDr.の手紙を読んで胸に開いた傷が癒えていくのを感じて手術の日がやっと決まったことに安心し、水を飲んで朦朧とトイレで用を足すとソファの上にぐったりと横になった。

夢うつつのなかに、ネンマは気付けば自分のお腹を優しくさすっていた。

そしてそのまま深い眠りのなかへ入っていった。



マンマは今ぐっすりと、眠っています。

こんなに、マンマの安心した鼓動を聴くのは初めてのような気がします。

マンマはわたしを堕ろす日が決まったことが、そんなに安心することなのだと、わたしは受け容れるべきなのでしょうか。

わたしはさっきまで身も心も凍り付いていたように想いますが、今はマンマの安らかな心拍音を聴きながら、絶望の淵で安心しているかのようです。

こんなに残酷なことがあるかと、わたしは一体誰に対して言えばいいのでしょう。

マンマの幸せを誰より一番に願うのはきっとわたしなのです。

それでもまだ、わたしは信じられない想いでいます。

わたしの最も愛するマンマは、わたしを本当に殺してしまうのでしょうか。

今わたしとマンマは、本当に正真正銘に一体であると感じられます。

わたしを殺してしまえば、マンマはどうなってしまうのでしょうか。

本当に生きてゆけるのでしょうか。

わたしはマンマにとって融通の利かない我儘な子どもなのでしょうか。わたしはそれでもまだ、マンマに産んでもらって抱っこされたいのです…。

マンマのとくん、とくんと鳴る静かな鼓動はまるで融通の利かないわたしという子を寝かせつける揺籃歌のように聴こえて来ます。

このまま…このままマンマと一つに融け合ってゆけたなら、どんなにか幸せでしょう...。

わたしはそういえばいつ、マンマと違う存在になってしまったのでしょうか。

わたしは何故マンマと分離して別々の存在になってしまったのでしょう…。

どうすればマンマと離れないことが赦されるのでしょうか?

どうすれば、マンマに優しく抱っこされることが叶うのでしょうか?

わたしは一体どんな罪を犯したのでしょう…。

きっと大きな罪を犯して、マンマをひどく苦しめてしまったから、わたしはマンマに嫌われてしまったのです。

堕ろされて当然のことをきっとしてしまったのです。

わたしは誰かを殺してしまったのでしょうか…?

何も…何も憶えていないのです。マンマのお腹のなかに宿る前のことを、なんにも憶えていないのです。

どうしたら想いだせるのでしょうか?

どうか…せめて想いださせてください…。

わたしは、何者であったのですか…。何故よりにもよって、一番に愛する愛おしくてならないマンマに殺されねばならないのでしょうか?

わたしはマンマに殺されるために、マンマの子宮に宿ったはずはないのです。

ただ愛されたいのです。ただ自分の母親に愛されることが、そんなに難しいことなのですか?

わたしがもしマンマを苦しめたことを少しでも想いだせたなら、きっと納得も行くのでしょう。

最も愛する存在に殺されても仕方ないと、どのような拷問の苦痛にも耐えようと、諦められるはずです。

ではそう想えば良いと、神もマンマもあの、わたしとマンマを助け、わたしを三日後に殺すDr.も、わたしに言うのでしょうか?

本当にそうなのでしょうか?わたしは自ら、殺されることを受け容れ、愛する母に殺されゆくべきなのでしょうか。

わたしはマンマの子宮のなかで殺され、マンマの産道をわたしは死んでから通り、あたたかいマンマの中から凍えるような外へ引っ張り出されて棄てられるのでしょうか。

わたしが例え本当に重い罪を犯した人間であったとしても、愛する母の胎内がわたしの処刑場になるなど、そんな悲惨なことをわたしは心から望んだのでしょうか?

わたしはわたしに訊きたいです。本当にそれを望んで、今ここに、わたしが存在してこれから待ち受ける処刑を、ひたすら震えて待たねばならないのか。

愛する母親の胎内で…。

わたしは一体いまどんな形をしているのでしょう?自分の手足は異常が在るようには想えませんが、わたしはもしかしたら、見るに耐えない姿をしているのかもしれません。

マンマが今まで浴びるように飲んできたお酒と薬を、わたしもマンマと繋がった臍の緒から吸収して成長してきましたから、どこかに異常があってもなんらおかしくはありません。

わたしは本当に人間の形をしているのでしょうか?

今も相当、マンマの飲んだお酒と薬で酔っているのでしょう。そのおかげで、わたしはきっと幾分、助けられているに違いありません。

もしかしてマンマは、わたしを堕ろす日にも大量の酒と薬を飲む気ではないでしょうか。

そして出血多量でわたしと共に死んでゆくつもりでいるのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、わたしは嬉しいのでしょうか?

愛するマンマと生と死という境界ではなればなれにならずに済むのです。

同じ死の世界に、きっと行けるのです。

わたしは嬉しいのでしょうか。マンマと一緒に死ねることが…。

離れたくないのです。どうしても、わたしはマンマと離れたくないのです。

でもわたしが離れることでマンマが本当に幸せになるというのなら…

わたしはこのまま、殺されてしまうべきなのでしょう。

わたしがマンマと一緒にいることでマンマを幸福にできないなら、わたしは死んでしまったほうが…



わたしは自分の考えに耐えられなくなり、目から水がたくさん流れました。

マンマの羊水に浸かっているのに、確かに目から水が流れている感覚を覚えたのです。

わたしは自分の涙とマンマの羊水が合わさった液体をごくごく飲んで、あとまだ三日ある。

三日の間に、マンマはもしかしたら気持ちが変わるかもしれない、どうかマンマの気持ちが変わりますようにと、わたしは祈りながら意識が遠ざかっていき、深い眠りに就きました。



















ネンマは確かにあの日、わたしを堕ろし、わたしを産み落としたのです。



目を開けると、わたしはネンマと共に小さな蝶になって春の夕暮れのなか、羽根を繋いで飛んでいる夢のなかに、わたしは死ぬように、ネンマの隣で眠り続けています。















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