あなたを見つめて。。 monochrome life

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母が死んだ。

2011年04月12日 00時14分14秒 | そして親愛なる人へ
金曜日の昼に三重県の叔父さんが急死されたという訃報を聞いて、土・日に三重まで行かないといけなくなって、

どうにかプリントした4点を土曜の昼までに額装してしまおうと、真夜中も0時を過ぎてやっと仕上げた。

風呂に入ろうと浴室のドアを開けたのが土曜になった深夜1時を過ぎたころだった。

2階で鳴り止まない電話に胸騒ぎがしてバスタオルを腰に巻いたまま階段を駆け上った。

電話は切れてしまっていたが留守番ランプがせわしなく点滅していた。

2ヶ月前にホームに入った母の様子がおかしいからすぐに今から来てくれという伝言だった。

もう眠りについていた家の者に行くことだけを告げて、ひとり車でホームに向かった。

いつもは遠回りする道を待ちきれずに激しく雨が降るなか一方通行を逆走して走った。

途中で交番の前も走ったが非番の警官と目が合ったけれど、そのまま突っ切って走ってしまった。

部屋に着くと母はもう息をしていなかったけれど、身体はまだとても温かかった。

頭をナゼながら肩をゆすって大声でこちら側に呼びもどそうとしたが無駄だった。

死因は肺炎による心不全だった。

7年看ていながらたった2ヶ月ホームに短期入所して痛い思いと寂しい思いだけを与えたまま死なせてしまった。

集まった兄弟と明け方まで今後の事を相談して自宅に帰ったが3時間余裕があったけれど眠ることなど出来なかった。

土曜の深夜1時に亡くなって土曜の夜に通夜をすませ、0時から日曜の朝まで棺の守りをしながら朝まで起きていた。

結局34時間くらい起きていただろうか。

棺に入れてやろうと毎週作っている母親の好きな豆からのぜんざいを作りかけていたが、そのときとうとう睡魔がやってきて

いま、鍋にいっぱいの作りかけのぜんざいが残っている。

昨日の日曜に告別式が始まる2時間まえになんとか時間を作ってNadarまで作品を持っていった。

こんなときに写真展など不謹慎なのかもしれないが、数週間まえまで諦めようとした考えはなくて、むしろここでなにかの

区切りというかピリオドを打ちたかったのかもしれない。

MFIやNadarスタッフの好意に甘えてさせてもらいました。

今日、MFIよりギャラリーの写真が送られてきた。

素晴らしい展示をありがとう!

モノクロ普及委員会 第6回写真展 『白黒つけない』Gr展が明日より始まります。

大阪心斎橋・農林会館B1ギャラリーNadarにて2011年4月12日(火)~ 4月24日(日)まで

open 11:00 - close 19:00

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生きながらえる意味     Canon 5D EF50mm F1.2L

2010年11月08日 19時42分31秒 | そして親愛なる人へ



『 死は生の対局としてではなく、その一部として存在している 』

村上春樹 『 ノルウェーの森 』。

昔、『 メビウスの輪 』というのを小学生だったか理科の実験で教わりました。

注釈:【メビウスの帯は、1858年に、ドイツのライプツィヒの数学者アウグスト・フェルディナント・メビウスと、同じくドイツのフランクフルト・アム・マインの数学者ヨハン・ベネディクト・リスティングが、それぞれ個別に発見した。】

紙テープを輪にして糊付けします。

その紙が仮に道(人生と云っても構わない)だとして一匹の蟻を置いて、その蟻が歩いていくと一周回ってまた元の位置に戻ります。

でも蟻は裏にある、もう一つの道の存在を永遠に知ることはありません。

こんどは、その紙テープをひと捻りして糊付けすると、蟻は表も裏も繋がりながら永遠に歩くことができます。

このひと捻りが蟻にとって、この世に鏡像の世界があることを教えます。

長く患う人を近くで看ていると、死というものへの恐怖心が薄れていきます。

それはいけないことでは決してなくて、むしろ自然に自分のなかに受け入れていくという感覚です。

若いころは死に恐れを持っていました。

死というものがこの世に存在しないから、誰もその存在を体験したことがない未知のものだったからかもしれません。

同じようにどれだけ長生きするより、短くてもいかに生きることのほうが大切なんだ、などと考えたりもしました。

でも、今はすこし違います。

人の世話になってもいいのじゃないか、何もすごいことや特別なことを成し得なくてもいいのじゃないか。

患って朽ち果てるように生きながらえても、いいのじゃないかなどと思っています。

毎夜、母親を寝かせ終えたあと聞き取れないほどの、でも何とか僕に思いを伝えようとする 『 ありがと… 』 の母の声が今日も聞けたことへの感謝の気持ちが自分の胸に生まれはじめています。

ほんの少し心のなかで紙テープをひと捻りすれば、死はそれほど怖くも悲しいものでもないのかもしれません。

明日も今日とおなじように生きていこう。
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