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ロシア人の表と裏(下)

2022-12-16 20:39:54 | 戦争
ロシア人の表と裏(下)
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」114/通算546 2022/12/16/金】屋上庭園の防水&リニューアル作戦は12/14に南西側の花壇塗装を完了して基本的に終えた。台風後の9/27から3か月近くヒーヒー言いながらの悪戦苦闘の作業だったが、結構充実感はあったし、体を動かしていたから手足の筋肉がずいぶんガッチリし、食欲も旺盛になったきたので、この冬を乗り越える自信も高まってきた。

一連の営繕作業は“オーストラリアン・ハズバンド”、DIYで人件費ゼロだから随分安く済んだ。1.6リットルのペンキは1缶4000円として20缶だから8万円、刷毛や金物などを含めて12万円ほどか。単純な比較はできないが、10年ほど前に業者に頼んだら特注の「笠木/かさぎ」も使ったので200万円ほどかかった。人件費がないと随分安いもので、10分の1とか2でできることもあるわけだ。

小生の場合DIYは「遊び」でもあり、12万円で3か月近くも大いに楽しめたのは結構なことだった。あとはコマメにメンテナンスすればいい・・・ところが人間の性か、問題が発生しないと、つまり尻に火がつかないと行動しないのだ。平和がずーっと続くと思っている。多分大丈夫だろう、そのうち点検するか・・・なんていう調子。トラブルが起きるまで見ざる聞かざる言わざる、ノー天気。「先の心配していたらキリがない、第一辛気臭いよ、♪それよりボクと踊りませんか、ウフッフーッ!」。

大慌てで軍事力増強・・・3年後4年後には大丈夫だと思っているようだが、オリンピックやサッカー・ワールドカップじゃあるまいし中露北がそれを指くわえて待っているか? 第一、中露北も軍事力を増強するのだから「十分な軍事力、これで安心」なんてあるわけない。軍拡競争するなら安上がりの核兵器を開発したり買ったり借りたらいい。軍拡競争はカネがかかるから中露北は日本が脆弱な、兵器もキンタマ=根性も弾もちょっとしかない時を狙って襲うだろう。

プーチン・ロシアに侵略されたウクライナは必死で戦っているが、素人でも3か月ほど訓練すればまあまあ戦えるようだ。実戦の中で鍛えられ有能な戦士になっていくのだろう。ウクライナ人は300年間もロシアの強権独裁支配を受け、1917年のロシア革命の際にも独立を目指したが、残虐なレーニン、トロツキーに潰されてしまった。ロシアとの今の戦いを勝たなければ独立のチャンスは再び三度遠のくから必死である。

1991年のソ連崩壊の際にウクライナは表向きは独立したのだが、米英はウクライナに「危機の時は我々が守るから」と核兵器を放棄させた。プーチン・ロシアは2014年にウクライナからクリミア半島を強奪したが、米英は「危機の時は我々は逃げるから」になってしまった。プーチンは「米英は口先だけのヘタレ」と意を強くしたろう。

それから8年、米国では是々非々外交で何をしでかすか分からないトランプから、平気でアフガニスタンから逃げ出すほど軽佻浮薄なバイデンに政権が変わると、プーチンはウクライナ侵略の好機と判断したろう。米英はもとよりEUも日本も完全になめられたのだ。

営繕作業にキリがついて小生は久し振りにブックオフへ行ったら「おい、ヂイサン、俺を読め」と自己主張する本があった。「ロシアを決して信じるな」(新潮新書、2021年)だった。著者は中村逸郎氏。一気呵成に読破したが、とても分かりやすかった。ロシア研究者だが、情に流されずにロシア人を観察し、その屈折した生態、思考を愛憎交えて深く紹介している。WIKIによると氏の経歴は、

<1956年11月2日生まれ、国際政治学者。筑波大学名誉教授、島根県立大学客員教授、専門研究分野は現代ロシア政治、日露関係。博士。

来歴:島根県生まれ。1980年3月、学習院大学法学部政治学科卒業。1986年3月、同大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。1983年9月から1985年迄モスクワ国立大学、1988年9月から1990年迄ソ連邦科学アカデミー「国家と法研究所」に留学。

2000年4月、島根県立大学総合政策学部助教授、2001年4月、筑波大学社会科学系助教授、2007年7月、同大学人文社会系教授に昇進。2012年4月から2014年3月まで、同大学国際総合学類長。また、東京大学教養学部後期課程非常勤講師も担当。2022年3月、筑波大学を定年退職。2022年4月から島根県立大学客員教授。筑波大学名誉教授。

2022年5月、ロシアのウクライナ侵攻に伴うロシア政府による日本への報復措置によって、ロシア連邦への入国を恒久的に禁止された。

著書:『東京発 モスクワ秘密文書』1995年、『ロシア市民 体制転換を生きる』1999年、『帝政民主主義国家ロシア プーチンの時代』2005年、『虚栄の帝国ロシア 闇に消える「黒い」外国人たち』2007年、『ロシアはどこに行くのか タンデム型デモクラシーの限界』2008年、『ろくでなしのロシア プーチンとロシア正教』2013年、『シベリア最深紀行 知られざる大地への七つの旅』2016年、『ロシアを決して信じるな』2021年>

「ロシアを決して信じるな」の版元・新潮社はこうアピールしている。

<北方領土は返ってこない。ロシア人は狡猾で、約束は厳禁である――。毎年、現地を踏査し、多くの知己をもつ、知の最前線に立つ著者にそこまで考察させるロシアとは、一体、どのような国なのか。

誤作動のため寸前で発射をまぬがれた核ミサイル。ありふれた出来事となった反体制者の暗殺。世界最悪の飲酒大国。悪魔への奇妙な共感。全土に流布する「プーチンは偽者」という説。さもしい大都市モスクワ……かの国の不条理に絶望し、怒り、戸惑い、ときに嗤いつつ描き、ロシアの本性を浮かび上がらせる。

魔窟のような隣国を知悉するために、現代史の貴重なスクープからスリリングな紀行まで、柔らかな筆致で綴る日本人必読の書。

序章 核ボタンはついに押されたのか!?/第一章 暗殺社会ロシア/第二章 「ひたすら祈る」―魔窟からの脱出/第三章 倒錯する日常生活/第四章 決して信じるな―ロシア人は嘘八百/第五章 「偽プーチン」説の真相/第六章 飲まずにはいられない―世界最悪の飲酒大国/第七章 祖国を愛せないロシア人の悲哀/第八章 ロシアの二枚舌外交―ウラジオストクの北朝鮮労働者/第九章 モスクワのわるいやつら―さもしさがあふれる都市/第十章 暴走する親切心/終章 絶望のロシア>

同書を読んで小生は「目からウロコ!」の連続だった。1990年代初期、バブル景気の余韻が残っていた頃だと思うが、NHKの「エルミタージュ美術館」番組の人気を受けて小生は「同美術館見学をハイライトにしたロシアツアーを煽ろう、視察してみるか」と考えていた。当時のロシアはソ連崩壊後でルーブルは安く、ドル稼ぎのために外国人の旅行を誘致していたので、上手くやれば人気が出るだろうと思ったのだ。ソ連崩壊でロシア人も自由民主人権法治の民になっているはずだ、という思いもあった。どうやらロシア人を甘く見ていた、無知だった、と教えてくれたのが「ロシアを決して信じるな」である。以下ざっくりと紹介するとこんな風。

【その1】<ミハイールは言うのだ。「相手を信じやすい人、つまり騙されやすい人はロシア人の恰好の的になる。このタイプには嘘の約束が効く。噓がばれても『そんなはずはない、何かの誤解だろう』と勝手に信じ込んでくれるからね。嘘に嘘を重ねて行けるし、何も実行しないでもいいので、まったく楽な相手だ」

私とミハイールは北方領土交渉について会話していたのだが、詳しいことを知らないミハイールは頭を抱えてしまい、一息ついてからそう言ったのだ。「嘘の約束を繰り返すのがロシア人の交渉術」と言わんばかりに得意気だったが、私はロシア人の毒性に触れたように感じた。

難しい交渉には相手がおり、簡単には埒が明かないものだ。だから、まずは相手を油断させるために(相手に期待を持たせるような)嘘の約束を交わす。こうして交渉の主導権を密かに握る。バレると相手は激昂するが、お人好しの人間は「そんなはずはない」と積極的に乗り出してくるから、新しい嘘をつけば相手はほっとする。嘘に嘘を重ねていく・・・まさにロシア人に毒を盛られるのだ。

どんなにお人好しでもやがては不信感を抱き、交渉への熱意を喪失させる。しかしロシア人は「相手に非がある」と開き直る。ロシアの流儀は、交渉の初めに嘘をつき、嘘から交渉をスタートさせるというものだ>

★修一の感想:まるで安倍晋三と森喜朗の2人の元首相の必死の対露外交がなぜ上手く行かなかったを解いているような話だ。始めからプーチン・ロシアは北方領土を返還する気はなく、ちらちらと甘言を弄して日本から支援を引き出し、日米関係にヒビを入れられたら御の字というシナリオだったのだろう。「騙された方が悪い」、これがロシア流なのだ。

「ロシア極東の石油・天然ガス開発プロジェクト『サハリン2』をめぐるLNG(液化天然ガス)供給への不安も露呈し、日本のエネルギー調達の脆弱性が改めて浮き彫りになっている」(内田高史・東京ガス社長、2022/12/13マイナビニュース)。オソロシア・・・ロシアを信じてはいけない、常に警戒すべし。

【その2】<2014年にロシアがウクライナ領のクリミアを併合したことに端を発し、プーチン・ロシアに対する経済制裁は拡大する一方だ。大企業を中心に経営難に陥るケースが続出し、毎月のように銀行が営業停止に追い込まれている。2018年3月のロシア大統領選の直前に、モスクワ市の都心で街頭インタビューをすると、女子学生はこう率直に語った。

「大学で専門知識を取得しても就職先がない。スーパーの店員になるしかなく、プーチン大統領の再選には反対です。ソ連時代を過ごした母は当時、失業はなかったと回想し、今の若者は不幸な時代に生きていると同情してくれます」

ロシアの統計によれば、失業者は若者に多く、2017年9月時点で20~24歳の失業者は13.9%、15~19歳は25.7%に達する。

プーチン政権が発足してから2020年でまる20年にもなるが、反政府活動化が逮捕されたり毒殺されたりし、辛辣に社会批判する250人のジャーナリストが不審死しているという情報もある。友人のドミートリーとラリーサの夫妻はそのようなプーチン政権に不信感を募らせているが、彼らはこう本音を明かした。

ドミートリーは言う、「私たちの大統領は自分に歯向かう奴らを平気で殺すんだよね。すごい政治家だ。こんな指導者がいるのは世界中でもロシアだけだよ。ロシアはやはり強国だね」。私の解釈では「強国」は限りなく「恐国」に近いように思えた。ラリーサもこう語る。

「ロシアは予見できない国です。予想だにしなかった不思議なことが突然起きたり、時には他人の悪意による行いで生活が歪められたりします。思い通りに行かないことばかりで、他人への期待はいとも簡単に裏切られてしまいます。だからあなたはロシアでは、ビックリしたり失望したりすることばかりに見舞われます。そのため、逆に言えば、人間の倫理や善意を問う文学や哲学思想が多くなるのです」

ドミートリーは苦笑いしながらこう言い放った。「結局、ロシア人のいないところがいい場所なのです」・・・私は言葉を失った>

★修一の感想:強権独裁、それを支える国家テロによる残虐な毒殺事件が続くロシア。プーチンの政敵アレクセイ・ナワリヌイ氏は2020年8月20日、致死性の高い神経剤ノビチョクで毒殺攻撃を受け、一か月ほど死線をさまよった。

《命をとりとめたナワリヌイに協力した調査報道機関ベリングキャットは2020年12月14日、ロシアの独立系メディアであるザ・インサイダー、CNNなどとともにこの事件を取材し、容疑者としてロシア連邦保安庁(FSB)職員8人を公表した。これに対してプーチン大統領は同月17日の記者会見で、ナワリヌイが米国の情報機関から支援を受けていたとして、FSBによる監視を正当化しつつ、「毒を盛るなら、殺害していただろう」と述べてロシア政府が暗殺を試みたとの疑惑を否定した。この顛末はドキュメンタリー映画化された。

連邦刑務所局は2020年12月28日、ナワリヌイに対し帰国とモスクワにある当局事務所への出頭を命令、帰国しない場合は収監すると警告した。また、翌月12日にはナワリヌイが執行猶予の条件を破ったとして、当局が裁判所に同氏の収監許可を要求した。

ナワリヌイは2021年1月13日、同月17日に帰国すると発表、17日の夜にモスクワのシェレメーチエヴォ国際空港に到着するも当局に拘束された。ナワリヌイの弁護士を務めるオリガ・ミハイロバは、ナワリヌイが入国する前に拘束されたと明らかにした。ミハイロバによると拘束の際に当局はミハイロバの同行を認めなかった》(WIKI)

まるで狂犬のような独裁統治でプーチンはやりたい放題。有史以来、言論・報道の自由がないから国民の大多数は独裁者にマインドコントロールされているか、本音を隠して表は「従順な良き国民」を演じているのだろう。不満や疑問に思ったところで国民は報復を恐れて「触らぬ神に祟りなし」と自己保身で殻に閉じこもるか、祖国から逃げ出すしかない。それともウォッカをひっかけて憂さを晴らすのか。

現代ロシアの作家ドミトリー・ブイコフ曰く「ウォッカは、いわば潤滑剤だ。ロシア人と現実との間の緊張を和らげてくれる。ウォッカがなかったら、ロシア人の傷つきやすい魂と残酷な現実は、互いに傷つけ合ったことだろう」。

しかし、今年2月24日のロシアのウクライナ侵略はウォッカで癒せるものではなかった。翌日のラジオ局「モスクワのこだま」の持ち番組でブイコフはこう嘆いたという。

<今日の放送をしないで済むのなら、高い代償を払ってでもそうしたかった。自分の母親が亡くなった日と同じくらいの悲しみを抱え、それでも今日、逃げ出すことはできなかった。私たちが生きているあいだに、またもや戦争が起きた。

ロシアがどうやってこの戦争から抜け出すのか、そのときどうなっているのか、私にはわからない。おそらく、とても長い時間がかかるだろう。ロシアにとってこの戦争が、自国民との戦争にもなることは間違いない。すでにモスクワでも平和を訴えた人が1000人以上逮捕され、わずかに生き延びていた報道機関も制圧され、「戦争に反対する可能性がある」だけの人々の自宅にまで警察が押しかけて逮捕しようとしている・・・

いまのロシア政府はブレジネフ政権と比較にもならないほど、女だろうと子供だろうと自民族だろうと他民族だろうとどんな相手も敵に仕立てあげようとしている。周知のようにプーチンはなにか超越的というか、形而上学的といってもいいほどの憎悪にかられている。これは恐ろしいことだが、最も恐ろしいのはロシアがこの先長い時間をかけてその道を行こうとしていることだ・・・>(岩波書店のサイト「コロナの時代の想像力」2/25)

ロシア、中共、北朝鮮・・・21世紀の火薬庫だ。自由陣営は軍事力・防衛力を高め、露中北を包囲し、孤立させ、崩壊・自壊させるべし。備えあれば憂いなし、日本が核兵器を大量に持つだけでも大きな抑止力になる。世界は平時から戦時へ向かっている、日本も議論から行動へ大飛躍すべき秋だ。
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ロシア人の表と裏(上)

2022-12-13 16:12:32 | 戦争
ロシア人の表と裏(上)
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」113/通算545 2022/12/13/火】小生は「心の道標」教団、通称「みちしるべ」の始祖である。教義は「みんな仲良く」、それだけ。信者は・・・55羽ほどの雀で、朝7時、昼12時、夕3時の食事時に嬉しそうに集まるだけだが、まあ小生の無聊を慰めてくれるし、餌やりでも「やることがある」というのは老生の健康にも良いだろう。

20日ほど前からファルコン(はやぶさ)も1週間から10日間に一度ほど餌=雀を求めてやって来るようになった。1秒で襲来、1秒で雀を足にガッチリつかみ、1秒で去っていく。たった3秒の早業、まさに「隼」。実りの秋が終わり、多摩川や多摩丘陵で十分な餌を得られなくなり、我が家の雀を狙うようになったのだ。

小生はファルコンと2年ほどの付き合いで、精悍で元気なところが気に入っているが、ペットの雀を襲われると複雑な思いをする。弱肉強食は世のならい・・・人間は凄まじい雑食で何から何まで食い散らかしているから、絶滅危惧種になりそうなファルコンを責めるわけにはいかない。ボーっとして警戒心のない雀が真っ先に餌食になるが、雀たちも「まあ仕方がない」と、以前のような「2日間は我が家に近寄らない」という大ショックは受けなかったようだ。「慣れ」というのは良いのかどうか・・・喉元過ぎれば熱さを忘れる、そうでもしないと生きていけないのは確かだ。

天国ならぬこの世はリスクだらけである。リスクが許容範囲ならあまり話題にならないが、許容範囲を超えるようだと大騒ぎする。

<警察庁が2022年1月に発表した報告書「令和3年中の交通事故死者数について」によれば、2021年における全国の交通事故死者(事故発生から24時間以内に死亡)の数は2636人となり、2020年の2839人から203人減少(7.2%減少)した>(不破雷蔵のサイト)

死者数は2001年が8757人だから2021年で2636人というのは大きな減少だが、ここで言う死者は「事故から24時間内の死者」である。思うに、救急外来では24時間は延命のために人工呼吸器をつけておけば「死者」にはカウントされない、その裏技を利用拡大すれば死者数は減る。2日目、3日目、1か月後、1年後などに死んだ実際の交通事故死者数は4000人程ではないか。

1日当たり10人前後が事故死。世界中なら1000人ほどが死んでいるだろう。地球温暖化にNO!を叫ぶ人は多いのに、「動く殺人鬼、自動車NO!」なんて誰も言わない。自動車は便利で、自動車がなければ生活できないから「多少の事故死は仕方ないよね、許容範囲」。

「許容範囲」は人、時代、場面によってずいぶん違う。「戦争のない世界」を良しとする人は多いが、例えば今の「平和な日本」は戦争で負けて米国の属国になったことによってもたらされた。1945年の第2次世界大戦終了以降、先進強国間で戦争がないのは「核兵器」という凄まじい破壊力の「最終兵器」が抑止力になったからである。憎み合っているインドとパキスタンが激しい戦争にならなかったのは印パが共に核武装したことが抑止力になったからである。

この強烈な抑止力がなくなる「核なき世界」になったら、第3次世界大戦は明日から始まるだろう。中東のイスラム国は一斉にイスラエルと開戦する、中共はインド太平洋への武力制覇を躊躇なく進める、ロシアは旧ソ連の領土奪還を始める・・・日本は北海道をロシアに奪われ、沖縄などは中共に奪われる。

ちょっと考えれば「核なき世界」の危険性が分かるはずだが、「核なき世界教」信者は知りたくないのか、夢を見ているのか、利権=カネのためか、それとも中露北の共産主義独裁を理想と信じているためか、相変わらず「核兵器、ダメ!絶対!」、暗愚一筋一直線である。

中には「それで日本が消えてしまっても、そういう一途の殊勝な国があったと記憶されるだろう、それでも良いではないか」と言う人もいる。中露北の手先みたいな「容共左派」の人は日本でも世界でもゴロゴロしているが、「共産主義とは何か」をまともに勉強したことがないのではないか。

共産主義とは「共産党員のための、共産党員による、共産党一党独裁統治」であり、圧倒的多数である国民は食糧を得ることさえままならぬ奴隷状態に置かれるという、最悪の独裁統治である。かつては日本でも理想の国のように称賛されたキューバの今は、中露に物乞いするほど悲惨な状況だが、為政者は一党独裁共産主義という利権を手放す気配はない。読売2022/3/1「キューバへの禁輸措置60年、経済の混乱続く…市民『失政の責任をすべて米に転嫁している』」から。

<社会主義国キューバの経済が混乱している。キューバ政府は、実施から60年が経過した米国の禁輸措置などをやり玉に挙げ、市民の不満解消に躍起だ。

キューバは今、「この30年で最悪の経済危機」(ウォールストリートジャーナル)にある。原因の一つは、政府が2021年1月に行った二重通貨制の解消だ。米ドルと等価に固定していた 兌換ペソを廃止し、価値が24分の1の人民ペソに一本化した。

決済を簡素化して投資の促進につなげることなどを狙った経済改革だが、事実上の通貨切り下げは物価の急上昇を招いた。政府は、21年のインフレ率を約70%とするが、複数の専門家が数百%だと分析している。

物不足も深刻だ。政府の外貨不足が原因とされる。市民によると、コメや鶏肉の配給は滞りがちだ。「米国の経済封鎖は、キューバの発展にとって最大の障害だ」。ミゲル・ディアスカネル大統領は2月3日、自身のツイッターにフィデル・カストロ元国家評議会議長(16年に死去)の言葉を投稿した。60年前のこの日、ケネディ米大統領は、対キューバ全面禁輸措置の大統領令に署名した。

米国の経済制裁は、オバマ政権下で緩和の動きもあったが、禁輸措置の解消には至っていない。キューバ政府は、これまでの損害額が約1500億ドル(約17兆3000億円)に上ると訴え、多くの問題の根源が米国にあると主張する。

ハバナの自動車整備士の男性(35)はこう指摘した。「政府は失政の責任をすべて米国に転嫁できる。経済封鎖はもはや逆効果だ」>

要は「米国が経済封鎖を解かないとキューバ国民はさらに反米になる、だから封鎖を解除してくれ」ということだ。もともとキューバは反米なのだから米国は痛くも痒くもない。キューバが共産主義を止めればいいのであるが、美味しい汁、特権利権を共産主義者は絶対手放さない。日本のアカやアカモドキ、宗教や学問を装う人々なども無為徒食の利権を死守するだろう。日本学術会議、ナンミョー“財務”池田教、統一教会・・・利権集団ばっかり。

そう言えば12月12日は石川五右衛門の命日だった。浜の真砂は尽きるとも世に泥棒の種は尽きまじ・・・まったくもってその通り。まあ、利権のチャンスがない人が利権を非難するのは何となくサモシイから蔑視する程度にしておいた方が良さそうだ。それにしても「清く、貧しく、美しく」という清貧に甘んじ、民の苦しみに寄り添い慰めるべき宗教団体自体が銭ゲバというのは実に醜いものだ。

日本は「神道」の国柄である。教義らしい教義はないが、自覚はしていなくても日本、日本人らしさの根底には神道があり、小生が毎朝、お日様に一族の安泰を祈るのも神道なのかもしれない。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も神道に大いに感動している。

<ハーンは、日本人が感じている神道を、より明晰に鮮やかな形にして命を吹き込んだ。古代日本人は万物や自然現象の中に、即ち森羅万象の中に神の働きや魂の宿りを見た。天然、人事、万事に対して神霊や先祖の霊、死者の魂の働きがあると感得してきた。そうした日本人の霊的感覚をハーンは彼自身の霊性的な次元で明確にとらえている>(鎌田東二「神道とは何か」)

ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」を折に触れ何回も読み返しているが、イワンは強制収容所での日々を淡々と送っている。怒りも嘆きもない。イワンはソルジェニーツィンそのもので、「完全な諦観」だ。何故そうなのか、小生は読むたびに首をかしげた。booklogからストーリーを引用する。

<スターリン政権下のソ連。収容所(ラーゲル)での起床から就寝までの1日を淡々とした筆致で描いた作品である。

午前5時に起床し、野菜汁と粥の簡単な朝食を食べ、酷寒(マローズ)の中でブロック積みの作業をし、作業場近くの食堂で燕麦粥の昼食をとり、再び作業に戻り、作業を終えると点呼を受け、ラーゲルに戻り、野菜汁とパンの夕食にありつき、自室に戻っても外に出されて点呼を受け、ようやく眠りに就く。

そんな1日だったが、営倉へ入ることもなく、作業がよい調子で進み、タバコも買えて、病気にもならなかった。「幸せとさえいえる一日」。単調なそうした日々は3653日続く。

パンをいつ食べればよいかを考えて少しでも空腹感を紛らせる工夫をする。ときには粥や野菜汁を係の目をかすめて多く取り、自分が食べ、班のものにも回してやる。ちょっとした工作などの内職をして食べ物やタバコを分けてもらう。手に入れた木ぎれや針金で工夫して道具を作り出す。差し入れの小包をもらったものがいれば、機転を利かせて中身が盗まれないようにし、お裾分けをもらう。

イワン・デニーソヴィチは、目端が利き、器用である。だからといって狡猾すぎることもなく、根は親切で常識的な男である。そうした男が、ときに暗い気持ちになりつつも、目の前にある、不自由で厳しいラーゲルの日常を、淡々と生きている>

ソルジェニーツィンはロシア正教会の信者だった。世界で初めてのマルクス流「共産主義国」ソ連を創ったレーニンは宗教を排斥したが、レーニンなき第2次大戦でスターリンは対独戦で兵士の士気を高めるためにロシア正教会への縛りを緩めたという(松本佐保・日本大学教授)。国民を統治し共産主義独裁を維持する手段としてロシア正教会を利用するようになったのだ。霊験あらたか、小生がアカだと見ているFDRルーズベルト米国大統領の膨大な支援を受けてソ連はナチス・ドイツを撃破した。ドイツと手を組んだ日本も米ソに撃破された。

以来、ロシア正教会はロシア政権の「御用宗教」になったのだろう。権力に逆らわない、逆らってもひどい目に遭うだけという「諦観」の処世術が国民に蔓延し、表の顔と裏の顔、嘘と本音の使い分け、長いものには巻かれた振りをする、上に政策あれば下に対策あり、抗議をしてもひどい目に遭うだけ、耐え難くなったら外国へ逃げる・・・やりきれなくなったらまずはウオッカで憂さを晴らすというのがロシア人の処世術になったようだ。

ロシア人は有史以来、自由民主人権法治を経験したことがないから、圧倒的多数は「運命を従容として受け入れる」イワン・デニーソヴィチなのだろう。ソルジェニーツィンはロシア正教会信者でありロシアを愛しているが、「それでいいのか?」と命懸けで孤高の声をあげたのだ。

ロシアのサイト「Russia Beyond」は「ロシアの今」をテーマにするとプーチンの逆鱗に触れ廃刊されることを恐れているのだろう、もっぱら「ロシアの昔」を紹介しているが、チラチラと政権批判がうかがわれて興味深い。2018/12/17「ソルジェニーツィンが生誕100年:彼の生涯と創作を記憶すべき5つの理由」から引用する。

<ソルジェニーツィンが初めて逮捕されたのは1945年のことだった。当時彼は、召集を受けてソ連軍にいたが、前線から友人に書いた手紙が逮捕の理由だった。この頃のソルジェニーツィンは、レーニンの思想を熱心に支持しており、社会主義イデオロギーを裏切ったとしてスターリンを批判した。

だから、ソルジェニーツィンがソ連政府の政策を批判したときは、彼は、自分が何を語っているのかはっきり意識しており、持論を吐いたのだった。だからこそ、彼は危険だとみなされ、労働収容所での懲役8年の判決を受けた。

彼は、刑期の最初の1年間は、モスクワの建設現場での強制労働に従事する。次いで内務省国家保安局特殊研究所で2年間働いた。ソルジェニーツィンは数学者だったので、他の政治犯とともに科学研究を行った。しかし警備員の言うことを聞かなかったというので、カザフスタン北部の労働収容所(グラーグ)に移され、そこで残酷極まる扱いをいくつか目の当たりにした。

この経験により、ソルジェニーツィンは後にソ連の労働収容所における恐るべき劣悪な状態を描き出すことができ、世界に伝えることになる。スターリンが死んだ1953年、彼は8年の刑期を終えたが、釈放されることはなくカザフスタン流刑となった。

スターリンの個人崇拝が批判された後、ソルジェニーツィンへの告発は撤回され、彼は中央ロシアに戻った。1957年に名誉回復され、教師として勤めるかたわら、密かに文筆活動を続けた。

労働収容所についての彼の作品、とりわけ『イワン・デニーソヴィチの一日』が雑誌に掲載され、ソ連と西側で大反響を巻き起こした。この作品は、国家賞「レーニン賞」の文学部門の候補にもなる。

これに劣らずソ連政権に批判的な他の物語が出版されると、ソ連の秘密警察「KGB」は再び弾圧を始めた。1965年、KGBはソルジェニーツィンの原稿を押収。ブレジネフがソ連共産党書記長になると、ソルジェニーツィンの作品は再度発禁となった。KGBはソルジェニーツィンの監視のために特別部隊を編成しさえした。

ソルジェニーツィンは作家同盟から除名され、彼に対する批判キャンペーンがマスコミで始まった。しかしこの頃になると、彼はすでにノーベル賞にノミネートされており、その作品は地下出版で出回っていた。おまけに彼は何度も公開状を出して大っぴらにソ連政権を批判した。KGBは彼に出国を提案したが、彼は拒否した。

ソルジェニーツィンがノヴォチェルカッスクに旅行したとき、KGBのエージェントが彼の後を追い、気づかれないように毒を注入した。ソルジェニーツィンはこう回想している。

「私は、何か刺されたとか注入されたという感覚はまったくなかったが、その日のうちに、左半身の皮膚が痛み出した。夕方には悪化して、大きな火傷のようになった。朝には巨大になり、左の尻、左半身、そして腹と背中の全体に広がった…」

彼の苦痛は3ヶ月も続いた。後年の研究で致死量のリシンを注射されたことが分かった。だが彼はどうにか回復できた。

1974年、ソ連当局はソルジェニーツィンの強制国外追放を決定。彼は拘束され、ドイツに送られた。彼の家族は一ヶ月後に出国を許された。一家はチューリッヒに居を構え、ソルジェニーツィンは反ソ活動を非常な熱意で再開する。

しかし作家は、西側のリベラルなメディアの傾向に媚びようとか迎合しようとかいうつもりはなかった。彼は、ロシア正教と共産主義のイデー(理念、観念)が混然となった思想の持ち主であり、フランコの独裁政権への支持を表明したこともある。これは、リベラルなマスコミを怒らせた。

彼はまた、仲間の反体制派や反ソ的な作家も批判した。ソルジェニーツィンは誰にも妥協することはなかった。リベラルな西欧のジャーナリストからも軽侮された彼はアメリカに移住し、バーモント州に定住して、孤独な生活を送った。

1990年、ソルジェニーツィンのソ連の市民権が復活。彼の作品の多くが、故国で自由に出版されるようになった。1992年、ロシア連邦のエリツィン初代大統領は、ソルジェニーツィンと長時間電話で話した。ついに1994年、作家はロシアに帰還し、ロシア連邦下院(国家会議)の前で演説した。モスクワで彼は、アパートと別荘を与えられた。

だが、1998年にロシアの最高の褒章、聖アンドレイ勲章を授与されようとしたとき、ソルジェニーツィンは、ロシア当局とその行動を――主に国有財産の民営化と第一次チェチェン戦争を――嫌っていたため、拒絶した。

その後、プーチン大統領の時代には、やはりソルジェニーツィンは、ロシア政府の行動の大半について懐疑的であったが、ロシア文化勲章をはじめ、いくつかの賞を受賞している>(以上)

ソルジェニーツィンは1918/12/11~2008/8/3。侵略熱に侵された今のプーチン(1952/10/7~)を見て彼はどう思うだろう。「プーチンよ、お前もか?!」と勲章を投げ返すに違いない。(次号に続く)
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古老は「ただの高齢者」?

2022-12-09 10:51:58 | 戦争
古老は「ただの高齢者」?
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」112/通算544 2022/12/8/木】日本による真珠湾攻撃(1941年)で火ぶたを切った大東亜戦争から81年、1945年の敗戦により米国の属国、オンリーさんになってから77年・・・

占領下で主権がないのに押し付けられた憲法を「安楽第一」で後生大事にしてきたのは、国防を米国に任せれば軍事費を最低限に抑えられるからだ。狡猾と言えば狡猾だが、自尊自恃の独立した国家とはとても言えない。今はそのツケが回ってきた感じ。

妹が暴走族だったというA君はガタイが大きく、怒った時に相手を睨みつける表情は大層迫力があった。座右の格言は「粗にして野だが卑ではない」で、「良識ぶっているが根性が汚い奴」をトコトン侮蔑し嫌っていた。

A君のご先祖様は銭形平次のような岡っ引(御用聞き、目明かし? 地元の侠客が兼任することも珍しくなかった)で、長くてずっしりと重い十手(断面は六角形)を家宝としていたが、自衛というより敵の骨、武器(刀剣)を砕く兵器そのものだった。

A君の自宅軒下の燕(つばめ)の巣に雛を狙って青大将が近づくと親燕がA君に「親分、助けて! 蛇が子供を狙ってる!」と訴え、ヨシキタ、ガッテンと蛇を駆除したそうだ。燕が「人間がいるところに蛇は来ない、万一来たときは人間に訴え駆除させよ」という安全保障策を持っていたことにA君はビックリしたという。

燕は日本、蛇は中共、蛇をやっつけるのはアメリカ? アメリカ依存・・・世界の警察官を辞めたアメリカにすがるなんて最早時代錯誤も甚だしい、と小生は思う。

A君の格言の原点は城山三郎著「石田禮助の生涯 粗にして野だが卑ではない」である。<第五代国鉄総裁の石田禮助は、総裁在任中に勲一等を贈るといわれ、「おれはマンキー(山猿)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ」と言って固辞した。

国鉄総裁になり、はじめて国会へ呼ばれたとき、石田は代議士たちを前に自己紹介した。「粗にして野だが卑ではないつもり」。石田は長い生涯を、ほぼその言葉通りに生きた。

三井物産に35年間在職し、華々しい業績をあげた後、78歳で財界人から初めて国鉄総裁になった。明治人の一徹さと30年に及ぶ海外生活で培われた合理主義から“卑ではない”ほんものの人間の堂々たる人生を著者は克明な取材と温かな視線で描いた>(アマゾン)

小生は自分自身を、ムショ帰り、精神病院帰りの何をするか分からない奴、「粗にして野だが奸でもある」と恐れている。「奸」と言っても「敵に対してはよこしまで悪賢い、謀略を辞さない奴」というレベル・・・まあ、怪しい人格ではあるが、危機感ゼロのノーズロより遥かにマシだと思う。

世の中には「知にして優だが理ではない」とか、「衣食足りて礼節を知る」のではなくて「衣食住足りて知を忘れる」という人が随分多くなったような気がする。「無私の精神で国難に立ち向かう」とかは最早死語か?

小生は石田博英とも縁がある。<石田博英(いしだ ひろひで、1914/大正3年12月12日 - 1993/平成5年10月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(14期)。通称は名を音読みした「バクエイ」。所属した自由民主党では1969年から1971年まで党内派閥の二日会を率いた。

政務では労働大臣(第14・17・18・22・23・39代)、運輸大臣(第47代)、内閣官房長官(第16・17代)を、衆議院では議院運営委員長(第6代)などを歴任した。

来歴:秋田県山本郡二ツ井町(現能代市)で生まれ、大館市で育つ。祖父は花岡鉱山を開発した鉱山師。父は大阪造幣局の冶金技師だったが、第二次世界大戦後に栄養失調のため死去した。

早稲田大学政治経済学部に入学、在学中に恩師の吉村正(政治経済学部教授)に連れられて、三木武夫の選挙応援に関わり三木の知遇を得る。三木の選挙戦では、選挙民に嘲笑されてはならないと父親のフロックコートと山高帽を借りて、三木を自転車に載せて街頭演説を行った。

1939年に早稲田大学を卒業して中外商業新報(のち日本経済新聞)に入社、政治部に配属されて上海支局長や政治部次長を務める。1947年、第23回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で旧秋田1区から出馬し、初当選した。

当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・松野頼三・荒木万寿夫・原田憲・園田直・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太らがいる。

1956年の自由民主党総裁選挙で、石橋湛山陣営の選挙参謀を務める。石橋、石井光次郎、岸信介の3人が立候補した総裁選挙では熾烈な派閥抗争や金権選挙が繰り広げられ、後の自民党総裁選のパターンを形成する悪名高いものであったが、石田は金をばら撒く代わりに、ポストの空手形を乱発した。

石橋総裁の誕生に大きく貢献した石田は石橋内閣において、史上最年少で内閣官房長官に任命され、初入閣する。総裁選で石橋を支持した池田勇人は大蔵大臣に、三木武夫は自民党幹事長に起用されたが、石橋の病気によりわずか2ヶ月で内閣は退陣した。

石橋の退陣により発足した第1次岸内閣でも引き続き官房長官を務め、第1次岸改造内閣では労働大臣に横滑りする。労働組合に対しては厳しい姿勢で臨み、頻発する炭鉱ストを違法ストに認定して抑え込んだ。

第2次岸内閣発足に伴い一旦労相を退任するが、第1次池田内閣で三井三池争議の収拾のため、再び労相に任命される。皇居での認証式を終えた石田は、モーニングを着たまま九州の三井三池炭鉱に飛び、事態の収拾に奔走。中央労働委員会の仲裁裁定完全実施の慣行や、ILO87号条約批准問題に取り組み、戦後の労働行政の発展に大きく寄与した。

1976年に自民党内から三木おろしの嵐が吹き荒れる中、反三木の閣僚らを更迭して発足した三木改造内閣で運輸大臣に任命され、一時は派内から追われることとなった三木首相を支える。

三木の退陣を受けて発足した福田赳夫内閣で4度目の労相を務める。1983年の第37回衆議院議員総選挙に出馬せず政界を引退し、旧秋田1区の地盤は参議院議員から鞍替えした野呂田芳成が引き継いだ。引退後に大館市名誉市民の称号が贈られた。1993年10月14日に死去。78歳没>(WIKI)

石田博英が1983年に隠居すると、秘書なども“お役御免”になったのだろう、その頃小生が勤めていた航空新聞社(メイン媒体「週刊WING」の読者は空自、航空機メーカー、商社、航空会社、空港関係者、国会の防衛族)に石田博英の秘書だったHさんが入社し、営業部長(新規顧客開拓担当)に就いた。小生は一緒にクライアント廻りなどをしたが、切羽詰まると「石田労政」を持ち出して滔々とクライアントに説いていた。その頃Hさんは膝を痛めていたので杖をついていたが、普通の杖ではなくナント木刀だから、もろ、ユスリタカリの怪しいブラックジャーナリズムみたいでナンカナーの感じだった。本人は「杖なんか買うには及ばない、家にあった木刀で十分、すぐに治ってみせる!」という気概だったのだろうが・・・

ここまで書いたら、ハタと気付いた。年をとるとリタイアして年金暮らしになり、社会との交流がずいぶん薄れるから昔のことを思い出す、というか「昔(過去)に生きている」ようになるのかもしれない。面白いなあ、老化とはそういうものなのだろう。

それにしても、人間は物質文明は継承するが、「いかに生きるか」の哲学はほとんど継承しないのはどいうわけか。哲学は概ね自己抑制を伴い、学問、思考、清貧を重視するので辛気臭いから、「面白おかしく暮らしたい」という一般的なニーズに沿わないのかも知れない。

村の長老、街の御隠居は「経験が豊富」ということで敬意を表されていたものだが、1960年代からの日進月歩の経済成長により「古老の知見≒老人の古臭い繰り言」と徐々に侮られるようになってしまった感がある。バラマキ的な福祉政策もあって飢餓、貧困がなくなり、「古老の説教に耳を傾ける」なんていう言葉も死語のよう。古老は今や「ただの高齢者」になってしまった。

我が父(1922/大正11年生まれ)の世代は戦後復興に必死で働き、お陰で小生はオヤツは蒸かしサツマイモか朝食の残り冷や飯があり、飢えを知らないで育ったが、1960年代中頃まで周囲には貧しさ、清貧がまだあった。万引きを疑われたオバサンが「貧乏していても物を盗むなんてことはしません」と泣いて抗議していたのを見たことがある。当時は「生活保護の受給は恥」という見方がまだあった時代だ(今は「生保は当然の権利」と思って(えばって)いる人が多いよう)。

小生の子供3人は1980年代生まれだが、オヤツはクッキーや菓子パン、カステラ、アイスクリームなどで、食糧事情は俄然向上していた。1985年からのバブル景気、その後の景気後退、IT時代・・・一進一退はあったが、2001年のイスラム過激派アルカイダによる9.11米中枢同時多発テロまで日本経済はまあまあ元気だった。2001年、21世紀からのこの20年、日本は低成長で何やら“斜陽”である。

古人曰く「登りつめたら下り坂」。祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ・・・そしてまた古人曰く「落ちたところが上り坂」。

永遠の繁栄、永遠の貧困もない、ということで、まあ人間は命を繋いできたのだろう。G7とかG20の諸国は21世紀の世界的な景気後退で高度成長は難しくなっているが、経済というのは基本的に成長→停滞→後退→成長を繰り返すようだ。栄枯盛衰世の倣いか。

我が地元を見渡すと、親が建てた家で息子が結婚せずに一人暮らしとか、土地に戸建て住宅を幾つも造り、それを売却して左団扇で暮らすとか、家を建て直してマンションなどのビルにして家賃収入で暮らすとか、あるいは趣味でそのビルの1Fは喫茶店、花屋などを開くとか、結構な金持ち階級(ブルジョワジー、資産家、上流階級?)が増えている。

彼らはおっとりした顔つきで、必死で働くという感じはまったくない。ハングリー精神とは程遠い。みんな高学歴みたいで“3代目”の風情、何となく貴族、ハイソサエティー。そう、野生の臭いがしない、怪しさが全くないという感じ。小生は自分では「怪しいヂヂイ、怪老」を演じるようにしているが、カミサンに「最近はスーパーのレジのお姉さんがサッカー台までカゴを運んでくれる」と言ったら、「アンタ、どう見たってよぼよぼのオヂイさんよ」だと。華麗なる加齢・・・小生には縁がなさそうだ。

それにしても古老は「ただの高齢者」、厄介者になりさがったのか? そういう時代潮流に激しく抗う、「老いたりと言えども舌鋒鋭く敵を叩く」というヂヂイではありたいなあ。多くの先輩達のように気力体力が続くまでは書きまくりたい。老兵は去らず、撃ちてし止まん! 老害かも知れないが、ボケ防止にはなるね。
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“忘れられた島”になるな

2022-12-05 13:27:15 | 戦争
“忘れられた島”になるな
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」111/通算543 2022/12/5/月】屋上営繕作業は一段落したが、12/1からは随分冷え込んできたので1時間ほど作業すると鼻水タラタラ。暫くは大人しく巣ごもり、「戦士の休日」でノンビリするしかなさそうだ。無理をして体調を崩すとロクなことにならない。

多動ヂヂイの“冬休み”は軽いチャリ散歩と読書、料理、包丁研ぎ、日記などチマチマした事柄がメインになる。昨日は有吉佐和子の「私は忘れない」を読み終えた。1992年あたりに読んでいるから30年振りの再読だ。リタイアしたカミサンに読書の習慣を付けるため、女性作家の読みやすい作品を選んで「これ面白いよ」と薦めていけば、やがては小生の晩年の良き同志になるのではないかという深謀遠慮である。

しかし、10日ほど前に向田邦子の「あ・うん」などを渡したが、「昔読んだし、字が小さくて読めないから」と、興味がなさそうだった。彼女は子育てと仕事に追われた40年間、新聞をざっくり読むのが精々で、それ以外はテレビとゲームとショッピングなどを楽しんできたので、「今さら読書?」と興味も意欲もないようだ。それなりに教養・学問系の読書は集中力、体力、気力、好奇心、脳みそパワーが要るから、70歳なってからそれを習慣づけるのは難しいかもしれない。

で、10冊ほど厳選、用意した本をそのまま本棚に戻すのも芸がないから、と小生は「私は忘れない」を読み始めたのだが、これがまるで縄文時代以前のような文明とは程遠い世界を描いている。女優志願の主人公は東京での仕事に挫折し、英気を養うために、以前から気になっていた「忘れられた島」に旅に出た、との設定。そこに見たものは過酷過ぎる自然、それに翻弄される島民の貧しい暮しで、「同じ日本なのに、これでいいのか?!」という強烈な思いを抱く・・・という、社会派的な作品だ。

この「忘れられた島」というのは初版1955年5月25日、敗戦から10年の「岩波写真文庫」のタイトルである。当時はどういう時代だったのか。1945年の敗戦から7年後の1952年4月には対日平和条約(通称、サンフランシスコ講和条約)が発効し、表向きは主権回復している。

日本が1950年からの朝鮮戦争特需で米軍補給基地として息を吹き返した頃、小生は4歳で、父曰く「お前は米軍キャンプ座間の残飯で育った」、2つ上の姉なんぞは健康優良児で表彰されたから「飢え」は知らないで済んだ。とにもかくにも「平和と豊かさの時代」が始まったのだが、共産主義者は「立て、飢えたる者よ!」の暴力革命がキモだから大混乱に陥った。

戦後に岩波書店はソ連共産党の日本支部=日本共産党に乗っ取られていたが、1955年に日共は暴力革命を停止し、ソフト路線に転換した。

<日本共産党では、1951年の第4回全国協議会(四全協)より山村工作隊などの武装闘争路線が採用された。更に同年10月に開催された第5回全国協議会(五全協)で「51年綱領」が採択され、火炎瓶を用いた武装闘争が各地で繰り広げられた。

しかし、1952年の第25回衆議院議員総選挙で候補者が全員落選してしまい、著しい党勢の衰退を招くことになった。党を立て直すため、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(六全協)では武装闘争路線を転換し、権力が暴力で革命運動を抑圧しない限り、革命運動も暴力を行使しない、という「敵の出方論」を採用した。権力奪取が「武装闘争」になるか否かは、まさに「状況次第」ということになる。

山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、日本共産党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。また、日本共産党が戦後から再開した「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、新指導部への不信・不満を募らせ、のちの共産主義者同盟結成や新左翼、過激派ら誕生へと向かう種が、この六全協によって蒔かれた>(WIKI)

「忘れられた島」は1955年5月、日共が党の路線を巡って揺れ動いていた時期に発行された。企画自体は1954年秋頃には決まり、翌年春に取材、大急ぎで編集したようだ。当時の岩波の宣伝文にはこうある(カッコ内は修一)。

<鹿児島県に含まれ、その南端から指呼の間にみえる三つの島、「黒島」「硫黄島」(激戦地とは別)「竹島」(韓国が不法占拠している島とは別)。電信も電話もなく、戦争の終ったことすら3ヵ月後に知ったという。文化的施設もなく、住民の生活は極めて貧しい。日本にこんな島のあることを知らせるために強烈な愛と意志をもって写した>

同書は2008年に復刻版が出たが今は絶版。戦後に日共に乗っ取られた岩波は共産主義化を目指し「資本主義の矛盾、悪逆非道」を暴くために“虐げられた人々”として同書を出版したのだろうが、1962年あたりからのイケイケドンドン的高度成長は遅ればせながら辺鄙な島嶼にもそれなりの発展をもたらしたから、岩波、日共も今や斜陽で、自分たちが「忘れられた島」になってしまった。

小生はAmazon名義のメールがやたらと増えていたのでハッキングされないように無視していたらネットショッピングができなくなって「忘れられた人」になってしまったため、図書館で「忘れられた島」初版を取り寄せて読んだ。同書について「読書メーター」というサイトには以下の感想文があった。

<屋久島のすぐそばにある、黒島、竹島、硫黄島を豊富な写真で紹介。面白かった。戦後の貧しさの中でも尚貧しさを極めながら、逞しく生きようとする人々。北緯30度で分かれたアメリカ統治下とならず、故に文明化の遅れに遭い、金を生み出す違法操業、牛は騙し取られ、断崖絶壁の「修験道か!」とツッコミたくなる港を、貴重な荷を背負って登る島民たち。意気高揚の学校、平家貴種流離譚など、見所満載だった>

同書の写真撮影は有名な名取洋之助(1910―1962)で、「1950年、組写真を利用して編集された新しい出版物として一時代を画した《岩波写真文庫》の編集責任者となり、以降同文庫は1959年までに286冊が刊行される。戦前戦後を通して、写真家であると同時にプロデューサー的な手腕を振るいながら国際的に活動した(百科事典マイペディア)」。
https://i1.wp.com/photo-archive.jp/web/wp-content/uploads/2021/07/302b834c0be665f8526a71b72677a7c5.jpg?ssl=1

有吉佐和子の「私は忘れない」では、過酷な風土、自然に苦闘しながら生きる黒島(鹿児島県三島村黒島)と住民を描いており、島の公的サイトhttp://mishimamura.com/にはこう記されている。

<昭和34(1959)年、有吉佐和子さんの朝日新聞連載小説「私は忘れない」が映画化、松竹映画の撮影ロケ班一行が20日間にわたり黒島に滞在してロケが行なわれ、島民多数が出演した。これを記念して平成4年に「有吉佐和子文学顕彰碑」が建立された>

WIKIによると、<黒島は、薩南諸島北部に位置する有人島。全国の他の黒島と区別するため薩摩黒島(さつまくろしま)と呼ばれることもある。郵便番号は890-0902。人口は189人、世帯数は100世帯(2020年5月1日現在)。竹島、硫黄島および周辺の小島や岩礁とあわせて「鹿児島郡三島村」を構成する。

面積は15.37km2、東岸の「大里、おおさと」と西岸の「片泊、かたどまり」の2つの集落から構成され、三島村の主要3島の中では面積・人口ともに最大である>

上述の三島村公的サイトによると黒島は「多彩な動植物と豊かな漁場を育む緑深い森の島」と以下紹介している。

<鹿児島県三島村で最大の島である黒島は島全体に森林が多く、動植物も豊富で、様々な渡り鳥や昆虫など、多彩な自然の姿が見られる島です。森林からわき出る清水は海岸の断崖で滝となり、白滝の美観を見せています。離れ瀬の多い島周辺には、絶好のフィッシングポイントが散在し、とくに塩手鼻、赤鼻などはイシダイのメッカと言われ、島内外から釣りマニアが訪れています。

緑豊かな自然環境のなか、椎茸栽培や大名竹などの収穫に恵まれ、特産品として出荷されています。また広大な土地を生かして牛の放牧も盛んで、足腰の強い「みしま牛」の育成に力が注がれています。海岸線の奇岩や断崖など景勝の地で、日没時の美しいサンセットラインは圧巻です。周囲20.1km、面積15.51km2、人口181人(2019年8月1日現在)。

黒島は標高622mの櫓岳を最高峰に500m級の山々がそびえ、森林と大名竹に覆われた自然豊かな島。断崖絶壁の海岸線には、無数の滝が見られる。雑木の宝庫で木炭の産地として栄えたこともあった。また、昭和59(1984)年から、豊富な椎の木を使った「椎茸」の栽培が行なわれ、村の特産品として好評を得ている。この島も、他の島と同様、畜産が盛んである>

小生のカミサンはさらに南の奄美大島生まれだが、黒島とはずいぶん違う。奄美は諸島を含めて薩摩藩領で、西郷さんの流刑地、奥さんは島娘、対米戦末期では人間魚雷の軍事拠点だった。産業には昔からの特産品として最高級絹織物の「大島紬」、サトウキビ栽培も盛んだった。大島紬は1980年代に着物の需要そのものが激減してしまったが、全盛時代は「娘2、3人が機織りすれば親は左団扇」で、島全体が潤っていた。

戦後の奄美は1953(昭和28)年まではアメリカ軍政下に置かれたが、平地が少なく、かつ本土復帰運動が盛んだったため米軍占領は8年間で済んだ。それでもハーフの人は珍しくなかった。

1960年代の高度成長により、奄美など多くの島も遅ればせながら徐々に高度成長の恩恵を受けるようになっていくが、奄美では皇太子ご夫妻(現在の上皇・上皇后さま)が1968(昭和43)年に初訪問されることが決まってから道路が整備され始めたこと、さらに沖縄が米国領にされていたために“最南端の観光地”として人気があったことなどから“近代化”が急速に進んでいった。それでもカミサンが小6の1964年まで通学は裸足が普通だったというから、鹿児島以南の離島は大体、そんなものだったろう。

黒島など人口が極端に少ない三島村はナイナイヅクシで貧困が目立った時期があったが、今は国や鹿児島県の大きな財政支援があり「貧困」は克服されたようだ。しかし、老人が増える一方でこれという産業がないためもあって若い人は島外へ出て行くから、21世紀版の「忘れられた島」になりつつあるよう。日本自体が「忘れられた島」、さらに「忘れられた倭族自治区」にならぬよう、日本民族による日本国家の存続を守りぬかなければならない。(何となく「遺す言葉」みたいだなあ・・・)
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