ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
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「いかなる思想も哲学も捨てる」・・経集837 

2014-04-15 15:36:15 | 本を読んで
「君よ、私には「私の考えは○○である」という思想などありはしない。

いかなる思想にこだわり(執着)を持ったとしても、

執着からは苦しみが生じるから。

あらゆる考えとあらゆる思想には、心を乱す性質があると気づいて、

私はいかなる考えをも、つかまない。

私は、哲学や思想を捨てて、坐禅瞑想し、

内面の安らぎを見出したのだから。」

・・・「これも超訳ブッダの言葉」の中からです。

これはこの本の大きな章の『悟る』というもののなかにあった。

タイトルにある、“捨てる”ということが出来るには、

その前に持っていなければならない。

持っていなければ、捨てるということは出来ない。

釈迦はいろんな思想、哲学をたくさん勉強・研究したのだろうと思う。

釈迦が生まれる前からインドには

古代哲学がすでに存在してたんだと思うし。


持ってない状態(子供の頃とか研究以前)だった時を経てから、

勉強研究して、知った考えに共鳴したり、反論が生れたり、の状態になり、

共鳴した考えや研究結果を、

これが正しいとそれに執着し(持ってしまい)、

その考えとは異なる考えに面した時にその考えを受け容れられず、

心が苦しむというような経験を

釈迦もいっぱいしたのだろうと思う。

そういう経験を経て、世界中の幸福、人間の幸福を願っていた釈迦は

執着していた自分に気づき、

この経集にあるような思いに至ったのかと思う。

ブッダとなった釈迦のこの境地は彼に接する多くの人たちを癒したと思う。

そのまんま、在りのままでいいんだと

釈迦はどんな人もまずは受け容れたと思う。

どんな考えの人だろうとブッダは受け容れたと思う。

その後で執着のない境地から、伝えたいことを伝えたのかと思う。

世界が再び不幸になることのない、幸福になるように。

人間が再び不幸になることのない、幸福になるように。

人間の行為行動が根本的に変わるのは境地が変わる事によって。

そしてそれはブッダが云うように「内面の安らぎ」を見出すこと。

山岸さんが「百万人のエジソンを、

千万人の釈迦、キリスト、カント、マルクスに優る人を」

という言葉を残している。

釈迦やキリストはエジソンの10倍の数ということも興味深いね。

その章に、『何を置いても、この人間の本質改良に出発せざるを得ないでしょう。』

というのもある。

何を置いても・・・という表現は何を云っているのか・・・

・・・何を置いても、か。

人間の本質改良に成功した釈迦は瞑想坐禅という方法によって・・・らしい。

山岸さんはそれ以外の方法で、

内面の安らぎ(無所有の境地)になる道を探し、みつけた。