もう少し国の政治の整ひて平和なる世に住みたしと思ふ
(間違っても戦争を起こすことなど無きように)
財団法人・中央融和事業協会が1930年(昭和5年)に制定。
1868年(明治元年)3月14日、「五箇条の御誓文」が宣布された。
「五箇条の御誓文」とは、明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。
正式名称は「御誓文」である。
この日を中心とする3月11日~3月17日の一週間を「国民融和週間」とし、被差別部落の地位向上・環境改善のための運動「融和運動」について理解を深めるための行事が行われていた。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦後は行われていない模様である。
五箇条の御誓文をはざっくばらんに解説すると、 議会を設置して公儀に基づいて政治を行うこと 国民が一丸となって新しい国を作っていくこと 今までの身分制度にとらわれない心構え 昔の慣習や制度を変えていくことで、国際社会に取り残されないよう努めること 知識を世界から学んで、天皇を基とした政治体型を作ること といった明治政府の指針が書かれていました。
これによって、日本が近代的な立憲国家として発展して行く方向が切り開かれたのです。
これはあくまでも、天皇が先祖・神々に誓ったものなので、御誓文と言います。
しかし確実にその融和運動は引き継がれていて下記のブログで「日本初の人権宣言が行われる」に書きました。
2022年3月3日のブログ記事一覧-もこにゃんとばあば (goo.ne.jp)
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五箇条の御誓文を発した明治天皇とはどんな方だったのでしょうか?
1867年、父の孝明天皇が天然疱(感染症)で亡くなると、14歳の若さで122代天皇として即位しました。
時は、幕末の動乱期であり日々目まぐるしく世の中が動いた時代でした。
大政奉還によって、第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)から、政権を朝廷に返してもらいました。
しかし、実際の政治には、まだ幕府が深く関わっていました。
そこで、岩倉具視(いわくらともみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)らによる「王政復古の大号令」により、天皇を中心とした新政府を作ったのでした。
1868年、新政府の基本方針である「五か条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」を発布し、元号を明治と定め、都を東京に遷しました。
1869年に「版籍奉還」、1871年に「廃藩置県」が行われ、近代国家としての日本が確立していきました。
国民は、みんな平等になり苗字を名乗ります。
食事や衣服も洋風が取り入れられ、髪型も変わり、文明開化を楽しみました。
日本で初めての鉄道が出来たのもこの頃です。
1889年に、「大日本帝国憲法」を発布します。
主権は天皇にある立憲君主制の基礎となりました。
立憲君主制とは、憲法によって君主の権力が決めてあることです。
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天皇家のその後にも大きな影響を残された明治天皇はとても偉大な方だったようです。