今回は、129頁から134頁までを掲載します。
質問形式となっていますので、質問ごとで区切りたいと思います。
前回の続き(128頁)の最後より書き始めます。
今回は、 『ご本席様は大工の仕事をいつ頃お止めになりましたか』と『ご本席様とお成り遊ばされた時の御模様をお話下さいませ』という質問ですが、この質問に対する答えというよりも、その当時の様子を話されており、これまた当時のお屋敷の様子、そして教祖が現身を隠された時の様子を知る上にも、とても重要な資料と思われます。
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(芳枝祖母の連鎖した話しはここで終っており、次には誰かが質問したのに対して答えた事が書かれている。伊)
『ご本席様は大工の仕事をいつ頃お止めになりましたか』
それは教祖のお居間を建てられたのが最後だった。この建物は教祖が「休息所とも言えば遊び場所とも言うで」とおっしゃったもので、これは父様と弟子の音松さんとが建てられたのや。壁は梅谷四郎兵衛さんが左官だから、自分の弟子を連れて来て引き受けられた。
明治15年の春頃から始まって、16年の秋に出来上がって教祖はここへお移りになったのや。(旧10月26日の夜だったと聞く。伊)
この頃の事についてだが、以前中山家では祖先伝来の田地のうちで、少しばかり抵当にされていたのが戻って来て、人に貸して小作をさせてあったが、お屋敷へ伏せ込ませてもらった頃から父様がこの田地を引き受けて、暇さえあれば「もったいない、もったいない」と言って働かれた。
しかし、これは神様の思召しではないので、教祖はしきりにお止めになったが、当時はまだまだ窮乏(きゅうぼう)が続いている事から、父様はお言葉にうなづきながらも暑い日も寒い日も田畑へ出られた。
ある時などは、身を切られるような寒い日に、その上父様は1時間も経たないうちに、3回も4回も便所へ通うお障り(下痢と思う。伊)を頂きながら、それでも休まず、畑で仕事をされて近所の井口さんという家の便所へ一鍬(ひとくわ)しては走り、また走りするので、井口さんは見かねて「時もあろうに今日のような、達者なものでも堪えられないような寒い日に、具合が悪いのに無理に仕事をせんでもまた明日という日があるのだから、まあ今日はゆっくり休んで薬風呂へでも入りなされ」と言ってくれたが、父様はただ「おおきに、おおきに(ありがとう、ありがとう)」と言って、なお仕事を続けられた。
お屋敷にいる人の中にも、飯降の家族は大人数で、ことに子供の食いつぶしが多いとか、毎日遊んでばかりいるとか、口やかましく言う人もある。父様は「人を不足にしては教祖に申し訳がない。神様に不幸や」と言うて、身体の悪い時でも休まずに仕事をされていた。けれども、色々言い散らした人は教祖のご在世中に出直された。
こういう風で、父様は出来る限りに不足させぬように、また少しでも満足を与えるようにと、どんな日でも田畑へ出られたが、一方教祖は父様の働く事がご本意ではないので、時々お身上が迫る事がある。
教祖は父様が仕事をされるのは、身体を使う事よりも心の苦労が多い事をよくお察しや。神様は教祖のお身上に見せられるのや。
教祖はお身上が迫ってくるとすぐに「伊蔵さんを呼んでくれ」とおっしゃって、扇の伺いを立てさせられる。また教祖は「さあ仕事を止めてくれ、何もすること要らん。そんな仕事をして居ては、神の用事の邪魔になる。早く止めてくれ」とおっしゃると、お身上が直ちに治る事もあった。
けれども父様は、実際上どうしようもないので、昼は百姓をして夜は神様のお家形を拵えられるという風だった。
扇の伺いというのは、最初は23人の人達がお許しを受けたのだが、皆”一名一人限り”と言って、自分の事の他はお伺い出来ないのに、人に頼まれて他人の事までも伺う人がある。それだから御守護がない。まるで間違ったことをお知らせになる。それでせっかく許された扇の伺いも、たいがい教祖はお取り上げになったのやった。
『ご本席様とお成り遊ばされた時の御模様をお話下さいませ』
言うまでもなく、父様は、天にも地にも教祖ただお一人を頼りにしておられたのだが、教祖は知っての通り明治20年正月26日の正午にご昇天になった。
その時の様子をあっさりと(簡略に)いうと、その朝父様は内蔵へ入って扇の伺いをしておられたが、その時のおさしづに、
ほんづとめせいせい、してもかかる、せいでもかかる
とおっしゃった。
お勤めをすれば警察へ引っ張られなければならないが、しなくても引っ張られるのだったらお勤めに掛かろうと、みな相談して、甘露台のところへ荒むしろを敷きまわして本づとめに掛かったのだが、警察へ行くどころかちょうどお勤めが終るころに、教祖はご昇天になったのや。
それから間もなく、旧2月17日(この日、本席様は以前、仲媒(ちゅうばい・仲人)をされた菊池安太郎という人のお祝に招かれて行かれ、酒宴の途中から少しご気分が悪くなったので、お帰りになり、そのままお休みになると、にわかに熱が出てお身上になられたと聞く。伊)の午後から、父様は身上にお障りを受けて、同日の暮れまで寝付かれたのだが、その間の父様の苦しみはとてもとても激しいもので、ことに熱が高くて玉のような汗が拭く暇もないほど流れ出る。その汗を拭いては絞ると、飴のようなものが流れて糸のように引っ張るので、人々はこんな不思議な病気は見た事が無いと言っていたくらいだった。
そんな中にも神様は父様にお入込になって
真柱を呼べ、早く真柱をここへ連れてこい
とおっしゃる。
父様のお障りは熱ばかりではなかった。それはどうにも奇妙な病気で、父様はこの時の事を「あばら骨が一本ずつ、ぶちぶちと折れて、その折れる間に、骨と骨との間に煮え湯が沸いて、しばらくじっとすると、また次の骨が折れてゆく。こうして右がみな折れると、こんどは左もみな折れてしまった。それからコチコチと音がして元の通りにはまっていったが、何ともかとも言われないほど痛かった」と後になって言われたのだが、本当に側にいた私たちにもその音が聞こえたのだった。
そんな苦しい中にもおさしづが下がった。おさしづの下がる時の父様の声は常よりも強い語気やった。その時のお言葉に
今や屋形の真の柱を入れ替えたで
つづいて
これからは黒衣をきせて5人いても6人いても働くで働くで
とおっしゃった。
23日の夜はことに厳しく、この時のおさしづは
真柱を呼べ真柱を呼べ
つづいて
どうしてもいかん、こうしてもいかんといえば、赤衣二つ並べてしまうで
とおっしゃったのだが、それまでにもまだ教長(前管長)さんは来られなかったのだった。
その23日の夜は、とてもとても心配でたまらず、母様と私は石西さんの風呂へ入れてもらってくると言って、そっと家を出て石西さんの風呂場の隅で泣きながら相談し合って決心したのやった。父様があの通り身上が迫っては、とても3日の日も持つまい。あれほど神様がお呼びになっても、どうした訳か真柱様は来られず、もしもその内に父様が出直されたら、後に残った家族の者などはどうしようか。教祖は「一つの世帯。一つの家内と定めて伏せ込んだ」とおっしゃったけれども、今の状態では案じられる。今更櫟本へ帰ることなどは出来ず、いっそのこと、親子4人(母親と私と妹の政枝と弟の政甚の4人や)河内の国の方へでも行って、乞食をしようとも大和の土地は踏まないでおこうと言って、母子泣き泣き語りあったのやった。
このように言うと、いかにも弱い精神だと思うだろうが、教祖のご昇天になった後のお屋敷というものは人間心ばっかりで、長の年月、教祖ただお一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らせてもらったのに、その教祖はこの世のお方ではなく、そんな時にこのあり様だから、とてもとても苦しみはひと通りやふた通りではなかったのや。口ではとても言う事が出来ない。
この時のあり様を詳しく言えば、人を恨むようになるから言わないでおくが、それはそれは苦しいものやったで。
それからも度々、神様が父様にお入込みになって「早く真柱を呼べ」とおっしゃるが、どうしてもお越しにならん。とうとう辻忠作さんと桝井伊三郎さんの二人が、どうしてもお呼びしてくると言って行かれたが、やっと前管長さんが来られた。それは3月1日の夜明け頃やった。
その時のおさしづ
さあさあ あちらこちら、つまんだようなことを聞いていたぶんには分からんで、これしっかり聞き分けねばならん、神が今に下がる、出るというたところが承知でけまい、紋方の分からんところから神がこの屋敷に伏せ込んだ、さあこの元が分かれば、さあ知らそう、承知でけねばそのままや、さあ返答はどうじゃ、無理にどうせとは言わん
いかにも承知致しましたとお答え申し上げると、
さあさあしっかりと聞き分け、今までは大工というて仕事場をあちらへ持って行き、こちらへ持って行った、それではどうも仕事場だけよりでけぬ、・・・・・・・
今のところの仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、このままでは残念残念、さあさあ本席と承知がでけたかでけたか、さあ一体承知か
真柱が「おおぢいの身体は天に差し上げまして、飯降家の家族は、私の家族として引き受けますから、どうぞご安心下さいませ」とお答えされると
ちょと頼みおくと言うは、席とさだめたるといえども、今一時にどうせいと言うでない・・・・・
さあ人は変わっても理は変わらん、理は一つやで、これからは別火別鍋
というお言葉だった。
時は明治20年旧3月1日やった。
間もなく、父様の身上は元通りに全快されたが、今から40年の昔を思い返すと、父様も色々な道を通られた。
明治15年旧2月8日、教祖のお側へ引っ越しさせて貰ってから、20年に本席と成られるまでは、一日の日も長い着物を着られた事などなく、いつも窯の側で立ったまま、食事をされたのだった。
〇
この次は、『本席様がおさづけをお授け下さいました最初の事』となるが、一旦ここまでとして、次回は、ここに出てくる「おさしづ」の公刊本を示しておきたい。
明治20年3月11日(旧2月17日)より、明治20年3月25日(旧3月1日)までである。
少しだけ検索をして見たが、大体35件ほどある。とても重要な事を次々と話されていると思われる。
(以下、2021年08月09日追記)
以下に、おさしづを列記しておく。別ウィンドウで開くので、見比べる事が出来ると思う。
本席定まる関連おさしづ 1 明治21年3月11日~15日(陰暦2月17日から) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 2 明治21年3月16日(陰暦2月22日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 3 明治21年3月17日~18日(陰暦2月23日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 4 明治21年3月19日(陰暦2月25日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 5 明治21年3月20日(陰暦2月26日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 6 明治21年3月22日(陰暦2月28日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 7 明治21年3月23日~24日(陰暦2月29日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 8 明治21年3月25日(陰暦3月1日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
本席定まる関連おさしづ 9 明治20年3月4日(陰暦2月10日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
とても多いので、9頁に分けた。
その内、9頁目は、この3月11日の身上を予言していると思われるおさしづを上げている。
これを見て思われるのは、
「真柱呼んで来い」と何度も言われても、来られなかったわけだが、「明治20年3月20日午前4時 陰暦2月26日」 に「真柱の代理」として伺いをしている点から、身上でありながらも、本席様から出るお言葉は書き留められて、真柱様へ伝えられていると思われる。
No.18 :(1巻24頁11行)
明治20年3月20日午前4時 陰暦2月26日
『真之亮代理伺』
幾重の話聞く。大工というて知ったは神一条、仕事場は神一条、北は鍛冶屋南は大工で、神一条。さあ/\尋ねる処事情知らす。又々心で知らし置く。どうでも皆その日来るなら、働きも十貫目渡るもあり、二十貫目渡す者も皆心次第。これ心尽せし程、目札を付けて渡す。さあ/\付けるとも。刻限事情を知らす。大勢ではざわ付く。誰が筆執れは言わん。さあ/\一人ではよいのやで。大層せいとは言わん。神のさしづ言わん。
ところが、このよしえ様が言われる。「真柱呼んで来い」という言葉は、一連のおさしづには記述されていない。
常々私が気になるのは、
「おふでさき」は秀司先生の足の身上を良くしたいという話しがある。
そのために、神のいう事を聞いてくれと言われている。
しかし、秀司先生は、親神様のいう事をそのまま素直には実行されずに、足が治ることなく出直される。
先の飯降家がお屋敷へ入り込むときでもそうであるが、親神様の言葉を素直にすぐには実行されていない。
この点を理解して行くことがとても重要だと思われる。
親神の言葉を告げる人と、それを受ける人、決断する人との意識の差がこうしたところに出て来ていると思われる。
人間の理想と現実。これも当てはまるのかもしれない。
教祖が現身を隠される時の問答からしても、親神様と人間の間に立つ役目である、秀司様、真柱様の苦悩というものは、並大抵なものではないと推察する。
おさしづの頁には、おさしづの本を画像にして掲載しているので、色々と研究するための資料になると思う。
親神様の思いが世界の人々に伝わりますように。。。