只今、2月9日17時です。
先ほど、おぢばから帰ってきました。
道中YouTubeを聞きながら帰ってきましたが、4時間ほどかかりましたので、相当数共有しました。
世界の事情はどんどん変化しています。
さて、
7日に支部例会と役員会議を終えて、病院で足の診察をしてもらいました。膿んだ足はなかなか傷口がふさがりません。傷を体液でなおす絆創膏を使うようにと言われて、ドラックストアで購入して、それで直す事になりました。
8時前に教会を出て、10時過ぎにに無事詰所につきました。
車だからこんな事が出来るのですが、電車であったら、間に合いません。
車を使わせてもらえてありがたいと思いました。
8日、本部の神殿奉仕での事であります。。。
朝からとても寒く、コロナの関係からお休みされる先生が数人ありましたが、今月は28日までという事で、29~31日の先生方が入っておられて、いつも通りの感じで勤めさせて頂けました。
さて、
Facebookのある方の投稿で「座禅」で「無になる」という言葉を目にしました。
その方の投稿には、すぐにコメントが入るのですが、その投稿にはなかなかコメントが入りませんでした。
以前から、結界内に座るのは、何か事がない限り、座禅をしているのと同じようなもので、親神様との対話の時間に感じていました。
そして空き時間にコメントに、
「コロナによって、禅ではないですが、色々な情報な触れて、おやさまの話しと擦りあわれて、色々と悟らせて頂きました。
おみちは、わざわざ禅をしなくとも、おやさまの教えを読むことで、同じ効果を得ているのではないかと思います。」
と書きました。
そして、
「、、何かに 夢中になる、、
ということが 無中 ですね、、!
、おみちは 働きと 放出の 出しきりの 空に 再生の 喜びを 得られることを 教えておられますね、、空の理に おや の 思いが 降りてきます、、それが 南無 であると 思います、、」
と返信を頂きました。
そして、
「はい。その通りですね。
親神様は、空だけではなく、地も守護下さりお導き下さることを思うとき、思いだけはせるのではなく、その思いに則した日々の行動も悟らせて下さるのではないかと思います。
里の仙人とは、そうした意味があるように思われます。」
と返信しました。
まったく、思いつくままのコメントのやり取りなのですが、書きながら、自分自身でもなるほどと思いました。
そしてさらに、このような事を自分の意思では書けない。
かんろだいのそばで、このような事は、なんだか不思議だ。。と思ったのでした。
かんろだいのそばで、このような事は、なんだか不思議だ。。と思ったのでした。
そして、もう一つ不思議な事がありました。
お昼の食事を頂いて、教祖の前に参拝に行かせて頂いた時の事です。
合い殿の真ん中で、頭を下げておりますと、左の耳元で「カサカサ」という何か刷れたような音が聞こえました。
「???」誰か隣にいるのかな。と思いましたが誰もいません。
顔をあげると、ちょうど、教祖のお食事の時間で、給仕の先生が階段をゆっくりと登ったり下りたりされていまして、その音かなぁなどと思いましたが、結構離れていますので、そんな音が聞こえる訳もありません。
「ひょっとして教祖が。。」と思って、何か言葉を頂きたいと思って、しばらくそのままでいたのですが、お声は聞こえませんでした。
しかし「教祖が踏ん張っているで!」と、エールを下さったように思いました。
ようやく、3回目の接種について、医師の方たちが声を上げ始めました。
自由な心をもらって、体を使って様々な体験をしている私たちです。
「あかき心、黒き心、白き心」を常に思い出します。
何かの参考になれば幸いです。
こうした事が発信できる、この文明に感謝です。