3月8日の神殿奉仕を無事に終えて9日、以前一緒に奉仕をされていた先生にお会いしに行って来た。
8日の神殿奉仕では、7日にケガや事故に遭われた話を数件聞かせて頂き、結界に座りながら、大難を小難にすまされた方々の事を考えていた。
また、ある先生がロシアとウクライナの戦争について、「民間の軍隊が関わっているという報道を見て、ロシアばかりが悪いのではなく、戦争を起こそうとしている者とロシアのプーチンは戦っているのだと気がついた。」と話をして下さった。
アメリカの事についても、バイデン政権を維持するために民主党などが、マスメディアを使ってウソの報道をしていた事が次々と明らかになり、内戦状態にある事がようやく人々に周知されるようになって来た。
そしてこうした事に加担した者たちは、国家反逆罪として、囚われる事も時間の問題であろう。(アメリカの法律上、アメリカ国外の者についてもこれらに加担していれば、この法律は適用されて、捉えられるとも聞いている。)
また、金融についても金本位制による国家間の取引が行われて、金などの担保がない紙幣は紙くず同様になる事も時間の問題となってきている。
さらには、アメリカの機密情報開示によって、第二次世界大戦やそれ以後の事柄について、ウソの上に日本人が操られて来た事を知り、日本の本当の歴史を求める人々も増えてきている。
日本国内で、日本のテレビや新聞の報道のみで情報を得て、これまでの学校教育による歴史を常識としている人々にとっては理解できない事でもある。
こうした事を考えると、これからは、それぞれの国や地域が、新しく歴史を学び直す時になって行く事だろう。
少し前に「ルーツ」という映画が流行り、それぞれの家の元を知る事が流行した。
それと同じ事が国、民族で行われて、それぞれの性格などを認識する事にもなると思う。
天理教では、「世界一列みな兄弟」と言われている。
だから、すべての人々は平等である。
これは間違いのない事なのだが、「だからすべての人々の考え方が同じだ」と思う事は、安易すぎるのである。
「ふうふふのなかも兄弟も みな銘々に心違うで」
をやこでもふう/\のなかもきよたいも
みなめへ/\に心ちがうで (5-8)
とおふでさき5号にある通りである。
おふでさき5号 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
身体に例えてみれば、人間の細胞はすべて等しくあるが、その細胞の役割はそれぞれに異なっており、それらの役割がチャンと果たせて、一人の人間として体が維持されるのである。
そしてまた、その一人の人間も、それぞれに得手不得手があり、ひと家族、ひと地域、ひと職場などで、それぞれに見合った役割をして、国や地域が潤い、豊かな生活が出来るようになるのである。
こうした順序を飛ばして、短絡的に物事を判断して、自分勝手な方針を進めると、その場は良くても、後々色々な事情が起きたり、あとで説明がつかなくなり、長年の遺恨を残し、人々の和を根本から乱し、心が揃わない原因になったりするのである。
そして、
この親神様の思いに沿わず、自分勝手な心を使った末の事について、
いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど
あとさきしれた事ハあるまい (5-1)
このたびハさきなる事を此よから
しらしてをくでみにさハりみよ (5-2)
このよふハいかほどハがみをもふても
神のりいふくこれハかなハん (5-3)
めへ/\にハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや (5-4)
と、牛馬を例えとして、善悪を見分けた末の事などを示されている。
さらに、その見分ける心遣いについて
せかいぢうどこのものとハゆハんでな
心のほこりみにさハりつく (5-9)
みのうちのなやむ事をばしやんして
神にもたれる心しやんせ (5-10)
ほこりの心遣いを説かれ、そのほこりの心遣いの末に起きてくる身の悩み、病気やまた事情から、自らの心を反省して、親神様の思いに凭れる心を考えるようにと言われているのである。
しかし、そうした中にあっても、
どのよふなむつかし事とゆうたとて
神のぢうよふはやくみせたい (5-11)
いまゝでハ神のぢうよふしんぢつを
しりたるものさらにないので (5-12)
これからハいかなむつかしやまいでも
心したいになをらんでなし (5-13)
しんぢつの心を神がうけとれば
いかなぢうよふしてみせるてな (5-14)
どんな難しい病気や事情であっても、親神様が「人間の真実の心」を受け取ったならば、どんな自由自在の働きもする。と言われています。
また、ここの5号12の
いまゝでハ神のぢうよふしんぢつを
しりたるものさらにないので (5-12)
とのお歌からは、これまで教えて来た、拝み祈祷も影から親神が真実を受け取って働いて来た。それを知った者は無い。とも言われているように受け取れます。
さらに
こらほどの神のしんぢつこのはなし
そばなるものハはやくさとれよ (5-15)
これさいかはやくさとりがついたなら
なにゝついてもみなこのどふり (5-16)
と、この人間の心遣いと親神様の御守護の現れ方について、そばの人々に対して、早く悟れと言われて、悟りがついたならば、どんなことでもこのように現れて来ると断言されています。
ここで、「いんねんよせて守護する」というお言葉を思案するならば、このように「悟れた者」の周囲には、こうした理合いで物事が現れて来るから、この理合いで話を進めれば不思議な御守護の姿が見えると考えられるでしょう。
そして、
けふまでハなによの事もせかねとも
もふせきこむでをふくハんのみち (5-17)
このみちハせかいなみとハをもうなよ
これまつだいのこふきはぢまり (5-18)
と、こうした不思議が現れる道が出て来たならば、それは往還道となり、それは世界なみのものではない。そしてこれが末代の「こうき」の始まりと言われています。
さらに、この「この道は世界なみとは思うなよ」という言葉が、私にはとても重く感じています。
「世界なみ」とは、人が集まれば「往還道」と見えるものですが、
その人が集まるのは、人の真実を親神様が受け取って不思議が現れたからこそ、なのですが、それが分からずに、
あれやこれやと「人間思案の算段をして人を集めた」ように思える。またそのような「算段をして人を集める事」だと、私には思えるのです。
そしてまた、
このにんぢうとこにあるとハゆハんでな
みのうちさハりみなくるであろ (5-19)
このさハりてびきいけんもりいふくも
みなめへ/\にしやんしてみよ (5-20)
と、この往還道をつけるための「側な者」「人衆」について、身の内障り(病気)が現れて寄せられる。と言われるのです。
ここでの「身の内障り・病気」は、それぞれの心のほこりからではないのです。
5号20で
「この障り、手引き意見も立腹も みな銘々に思案して見よ」と言われていますので、
親神様が「用事に使いたい」と手引きしている場合は、いくら自分の心を反省しても、その場合は良くならず、「親神様の思いに沿ったことをする事」で良くなると解釈できると思います。
「左善右悪」などとして教えられる、「いんねんの現れの身上」と、「道押せ・手引き」としてあらわれる身上の区別を、それぞれに思案せよと言われているように思えます。
そして、
このはなしなんとをもふてきいている
かハいあまりてくどく事なり (5-21)
どのよふにいけんりいふくゆうたとて
これたすけんとさらにゆハんで (5-22)
にんけんのハがこのいけんをもてみよ
はらのたつのもかハいゆへから (5-23)
しやんして心さためてついてこい
すゑハたのもしみちがあるぞや (5-24)
5号22で
「どんな意見や立腹の身上事情が現れても、これ助けんと更に言わんで」と心次第に絶対に不思議を見せて助け上げると確約されています。
さらに、23で、その確約する思い、また辛い身上事情を見せるのも、
「人間が我が子に対して意見する事を思って見よ、腹の立つのも可愛いからである」と親心ゆえの事だからと言われて、
24で、この親神様の親心について、こうした意見を行った先には、頼もしい道がある。とも言われているのです。
さて、この後からのお歌が私には、今回の世界の事情や道の事情と重なって思えている部分です。
先に、5号30から55まで、これから先の事を示していると感じて、おふでさき註釈を提示しました。
これから先を思案するためのおふでさき 5号30~55 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
それだけでは足りないと思い、この25から29の註釈をここで提示しておきます。
いまゝでハ心ちがいわありたとて
ひがきたらんてみゆるしていた (5-25)
註釈 25
今までも、人間に心得違いがなかったという訳ではないが、まだこの教を説き諭しても、聞き分けるだけの成人が出来ておらず、説き聞かすべき時機が来ていなかったために、今日まではそのままに見ゆるしていた。
このたびハなんでもかでもむねのうち
そうちをするでみなしよちせよ (5-26)
註釈 26
もうこの度は、どうでもこうでも人間の胸の中を隅から隅まで掃除するから、皆はこの事をよく承知しているがよい。
むねのうちそふぢをするとゆうのもな
神のをもハくふかくあるから (5-27)
註釈 27
人間の胸の中を掃除すると言うのも、親神の深い意図があるからの事である。
このそふぢすきやかしたてせん事に
むねのしんぢつわかりないから (5-28)
註釈 28
この胸の中の掃除をして、心のほこりを取り除かぬ以上は、心の曇りのために、真実な親神の心が分からぬ。
この心しんからわかりついたなら
このよはぢまりてをつけるなり (5-29)
註釈 29
親神の心を真実に悟る事が出来るようになれば、この世初まりの理を現したかんろだいのつとめの手をつけよう。
とあります。
この25の
いまゝでハ心ちがいわありたとて
ひがきたらんてみゆるしていた (5-25)
註釈 25
今までも、人間に心得違いがなかったという訳ではないが、まだこの教を説き諭しても、聞き分けるだけの成人が出来ておらず、説き聞かすべき時機が来ていなかったために、今日まではそのままに見ゆるしていた。
は、この教えが説かれた明治の時と限定すると、解釈は違ってくるのですが、おふでさきは、「合図立てあいでたならば、なにについても皆この通り」というお歌からして、「旬刻限が来たならば繰り返されて物事が現れて来る」と見た時には、今日まで心得違いの事情が見ゆるされてきた中に、教えをより聞き分けるだけの旬が到来して来たと、私には思えるのです。
そして
このたびハなんでもかでもむねのうち
そうちをするでみなしよちせよ (5-26)
と胸の掃除をする事を宣言されています。
この胸の掃除については、先のおふでさきで十分に分かると思いますが、
身上や事情が現れて、それによって、それぞれの心と親神様の思い、教えとを照らし合わせて悟り、真実の心を使うようになる事であります。
そして、
むねのうちそふぢをするとゆうのもな
神のをもハくふかくあるから (5-27)
このそふぢすきやかしたてせん事に
むねのしんぢつわかりないから (5-28)
胸の掃除をしっかりしないとならないのは、「胸の真実が分からないから」と言われています。
この胸ということについては、親神様の胸の内が分からない、思し召しが分からない。とも言われますが、「それぞれの胸の内を見定める」という意味にも思えます。
この「それぞれの胸の内を見定める」という事については、教祖が現身を隠される前の問答に於いて、「拘留されても良いと思う者のみおつとめをせよ」と初代真柱様が定められて、そうした者だけがおつとめをつとめた事から、そのように思えるのです。
そして、
この心しんからわかりついたなら
このよはぢまりてをつけるなり (5-29)
と、次のお歌は、「この心が、真から分かったならば、おつとめの手をつける」といわれます。
このおふでさきのお歌は、明治7年に書かれてあり、それ以後にかんろだいのぢば定めが行われて、かぐらづとめの段取りが進みます。
それ以前の慶応2年には「あしきはらい たすけたまえ てんりおうのみこと」の手ぶりとお歌を教えられています。
ですから、身上事情でそれぞれの誠真実を親神様は見定めると共に、願う誠真実を受け取って「あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと」「あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと」の胸の前で払う手ぶりのお歌の如く、心のほこりを払って、不思議な御守護をお見せて下さると思うのです。
さて、
教祖の140年祭に向けて、三年千日が始まりましたが、確かこれ以前に真柱様は、「三年千日に入ったらすぐに動けるように準備をしておくように」と話をされていたように思います。
今回のコロナ騒動によって、人々は家に閉じこもるようになりました。
教会も行事が無くなり、それぞれに時間が出来て、それによって様々な気づきを得た方も多かったかとも思いますが、そうした時間に、教理の勉強をされた方も多かったのではないかと思うのです。
私も、多くの人々の御守護を願い、教理をこのブログなどを使って世界へ発信して、自ら学んだ一人であります。
この三年余りがあっての、今の気づきでもあるのです。
話しがそれました。
このブログの冒頭に書きましたように、現在は戦争で言うならば、勝ち負けの判定が出て、収束に向かう時であります。
世界はグローバル化からナショナリズム化へ移行し、それぞれの国や地域の歴史や文化を見直して、その中から改善をして行く歩みになるかと思います。
そして医療も変わります。医者や薬への意識が変わります。
それらを思った時、これからどうなるかと思っている時、以下のお歌を読んだのです。
ちかみちもよくもこふまんないよふに
たゞ一すぢのほんみちにでよ (5-30)
ここまでのお歌は、「旬が来て身上事情が現れたならば、心を切り替えて誠真実を尽くす、陽気づくめの心となり、かぐらづとめを実現する道筋」が書かれていました。
そして、その道を歩むについて、「近道も欲も高慢無いように、ただ一筋の本道に出よ」と歩み方を示されています。
さらには、
このみちについたるならばいつまても
これにいほんのこふきなるのや (5-31)
にほんにもこふきがでけた事ならば
なんでもからをまゝにするなり (5-32)
この親神様の進める道に着いたならば、これが「にほん」の「こうき」となるといわれて、「にほん」にも「こうき」が出来たならば、何としても「から」を親神様の思いのままにする。と言われます。
この「にほん」という言葉を、「親神様を信ずる者」とした時に、そうした者達が誠真実で幸せに暮らしていく様が「こうき」という手本となり、それが確立されたならば、親神様を信じない者も、親神様を信じて同じような道を歩むようになると思えたのです。
そして、
このよふをはぢめてからのしんぢつを
またいまゝでハゆうた事なし (5-33)
このはなしむつかし事であるけれど
ゆハずにいればたれもしらんで (5-34)
たん/\とどのよな事もゆてきかす
心しずめてしかときくなり (5-35)
「この世を始めてからの 真実を まだ今までは 言った事なし」という事から、「元の理」の話であり、この話は難しい話であるが、言わなければ誰も知らない。そして心静めて聞いて欲しいと言われていると思います。
その「元の理」の話として、次のお歌を見ると、
いまゝでハいかなるほふとゆうたとて
もふこれからハほふハきかんで (5-36)
これまてハゑださきにてわほふなぞと
をしへてあれどさきをみていよ (5-37)
今まではどんな法と言っても、もうこれからは法は効かない。
これまでも、枝先においては、法などとして、教えておいたがこれから先を見ていよ。
と言われます。
知恵の仕込みと文字の仕込みを得て、その時々に、聖人君主として親神様から人間の成人の命を受けたものが、様々な事を人間に伝えました。
その一つが法であり、術というものでもあるのです。
そして、
このおふでさきを書かれた当時は、法や術といったものが多く用いられて、医者で治らない者は、そうしたものに頼っていた。
実際に、教祖が月日の社になられるのも、一年間に9度行われた修験者によっての行われた法によるものが切っ掛けであった訳で、そうした法などについても、親神様が教えたものだと、「ほうなぞと教えてあれど」とはっきりと言われて、また後の、ほふやとてたれがするとハをもうなよ このよ初た神のなす事 (5-39)でもはっきりと、親神様がする事と言われています。
「医者」「薬」についても、同様に親神様が教えたものと、「元の理」「元はじまりの話」に記されています。
そして、
にほんにハいまゝでなにもしらいでも
これからさきのみちをたのしゆめ (5-38)
ほふやとてたれがするとハをもうなよ
このよ初た神のなす事 (5-39)
どのよふなむつかし事とゆうたとて
神がしんちつうけとりたなら (5-40)
「にほん」の者で、これまでのそうした法のようなものを何も知らなくても、「これから先の、歩んでゆく道を楽しめ」と言い切られています。
また法も、この世を始めた親神が、不思議を見せたのであって、どんな難しい事でも、親神が真実を受け取ったなら、法というものを使わずとも守護をすると言われます。
つまり、法や術という作法が効くというのではなく、その作法を行う人の真実を受け取って不思議な事を現したと考える事が出来るでしょう。
だから、このお道の教えを知り、親神様に凭れて通るものについては、これまでの法や術に頼ることなく、誠真実を受け取ったらば不思議な働きをするから、心配は無いと言われていると思えます。
お道の歴史、先人が歩んだひながたを考える時、「扇のさづけ」や「水のさづけ」などを教祖はその人の真実を見定めて渡されました。
しかし、このおさづけも止められたのです。
この扇をもって、人々に神様の思召しを伝える姿を想像してみてください。
教祖が加持台となった、寄せ加持の様子に似ていないでしょうか。
この寄せ加持は、法です。
そして病人の前でおさづけを取り次ぐ姿、おつとめをして病人の平癒を願う姿、これも法と言えるように思います。
永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)4(追記・修正)。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
に、「扇の伺い」「扇のさづけ」を取りやめにした理由が以下の如く書かれています。
扇の伺いというのは、最初は23人の人達がお許しを受けたのだが、皆”一名一人限り”と言って、自分の事の他はお伺い出来ないのに、人に頼まれて他人の事までも伺う人がある。それだから御守護がない。まるで間違ったことをお知らせになる。それでせっかく許された扇の伺いも、たいがい教祖はお取り上げになったのやった。
(※その他、教祖ご在世当時の事を知るためには。。。「復元 永尾芳枝祖母口述記」のブログ記事一覧-あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp) )
親神様が受け取る誠真実を失い、形だけの法や術を行い、人心を惑わす宗教となり下がる様が重なる事と思います。
また、
6号に「医者薬について」次のお歌があります。
いまゝでハやまいとゆへばいしやくするり
みなしんバいをしたるなれども (6-105)
これからハいたみなやみもてきものも
いきてをどりでみなたすけるで (6-106)
このたすけいまゝでしらぬ事なれど
これからさきハためしゝてみよ (6-107)
どのよふなむつかしきなるやまいでも
しんぢつなるのいきでたすける (6-108)
月日よりしんぢつ心みさためて
いかなしゆこふもするとをもゑよ (6-109)
「医者や薬」も「修理肥」として、親神様が教えられたものという事は、分かり切った事として話を進めますが、
先の「法が効かん」でと言われたごとく、「医者・薬の効かないものを、真実の息でたすける」と言われるのです。
今の社会では、すでに法や術というものは一般的には信じられなくなり、医薬が中心となっています。
医者が絶対という医者を信仰する人々があるほどです。
そうした医者にしても、今回のコロナやワクチンの事から、どれだけ不条理な事をしている医学者がおり、真実の心を持って人を助けたいという医者たちを弾圧しようとする姿が見えた事と思います。
先に述べた、法や術を悪用するのと同じ事で、医薬を悪用する事態になっているという事です。
これを書きかけて、数日が経ちましたが、世界ではすでに金融の崩壊へと向かいつつあります。「金」「金融」の本当の意味合いを考える時となります。
その後は、グローバル化を進めた者たちの悪事が露呈して、ナショナリズム・国や地域の歴史を再確認・再点検して、自分達の元を見つめ直す事へと発展する事でしょう。
話しを戻します。
そして次のお歌からは、「から」と「にほん」についての話となります。
この「から」と「にほん」は、親神様を信ずる信じない人を指すばかりではなく、次の註釈にあるように、地域をも指し示す言葉に思えます。
いまゝでハからやにほんとゆうたれど
これからさきハにほんばかりや ( 5号041)
註釈 41
今までは、親神の教の先ず行きわたる所、次に行きわたる所と説き分けて来たが、今後は、普(あまね)く親神の教が行きわたって、世界一列は皆親神の真意を悟り、豊かな神恩に希して陽気に勇んで暮らすようになる。
そして、次に木の「枝先」と「根」を対比して話されています。
ゑださきハをふきにみへてあかんもの
かまへばをれるさきをみていよ ( 5号042)
註釈 42
註
第3号88ー90参照。次歌註参照。
【第3号88-90のお歌と参照を転記】
をなじきのねへとゑだとの事ならバ
ゑたハをれくるねハさかいでる ( 3号088)
註釈 88
同じ木の根と枝とであってみれば、枝は折れてくるばかり、根は栄え出る一方である。
註
教祖様が断食をなさった時に、そんなに断食なされても大丈夫でしょうか。と、御心配申し上げた人に、
『根は心や。心さえ親神様に通じていたら決して枯れないのや』という意味の事をお諭し下された事がある。
◆
いまゝでわからハゑらいとゆうたれど
これからさきハをれるはかりや ( 3号089)
註釈 89
今までは親神の教を聞いていなくても、ただ人間思案で知恵や技術だけの優れた者を偉いと言うていたが、今後は、そのような者も、人間思案を捨て、親神の真意を悟ってつき順う(したがっ)て来る。
註
をれるとは、人間思案の我を折って、親神様の真意に懐(なつ)いてくるの意。
◆
にほんみよちいさいよふにをもたれど
ねがあらハればをそれいるぞや ( 3号090)
註釈 90
今までは、親神の教の説き始められる所を軽く思い侮(あなど)っていたであろうが、親神の真意が表へ現れて、人々の心がたすけ一条に澄み切って来たならば、何人も皆懐(なつか)しく思い慕わずにはおれぬようになる。
と示されて「から」は「枝先」であり、「にほん」は「根」であることも理解できます。
そこで、改めておふでさきを続けて見て見ると、
いまゝでハからやにほんとゆうたれど
これからさきハにほんばかりや (5-41)
ゑださきハをふきにみへてあかんもの
かまへばをれるさきをみていよ (5-42)
もとなるハちいさいよふでねがえらい
とのよな事も元をしるなり (5-43)
ぢつやとてほふがへらいとをもうなよ
こゝろのまことこれがしんぢつ (5-44)
にんけんハあざないものであるからに
めづらし事をほふなぞとゆう (5-45)
「にほん」と「から」との違いの一つが、法であり術であり、それを偉いと思ってその「から」に従う事に対する注意喚起がなされていると思うのです。
これから、日本の国の歴史について、色々な学説が出て来るでしょう。
また他の国についていも同じです。
さらには、世界が出来た歴史についても、様々な事が言われるでしょう。
これらの検証は、すべて遺跡や文字、さらには遺伝子という医学的な事からなされて行きます。
これはあくまでも、形の上だけの話であり、そうした文化が出来る以前の事や、心の話ではありません。
次ぎのお歌では、
いまゝでハ神があらハれでたるとて
まだしんぢつをしりたものなし (5-46)
このさきハどのよな事もしんじつを
をしへてをいた事であるなら (5-47)
それからハ神のはたらきなにもかも
ぢうよじざいをしてみせるでな (5-48)
と言われて、「真実を教えておいたなら」それから「神の働きを、自由自在の働きをしてみせる」と言われます。
この真実とは、「元の理」「元はじまりの話」だと私は思っています。
虫鳥畜類と生まれ変わってから後、今の私たちのこの身体になってから、知恵文字を仕込まれて、今の文明が出来ました。
それも世界に、言語が違った文明をです。
この文明の出来た理由などが、「元はじまりの話」にあり、それを誠真実で心得た時、「真実なるの息で助ける」と言われる、親神様の不思議な働きが現れて来ると思うのです。
日本の地の歴史を掘り下げる中に、「いち宮、二墓、三はら」と言われた、生み降ろされた場所が明かされるようになれば、「人間を宿しこんだ元のぢば」を明かす日も来るかと思います。
また、外へ生み降ろされたものが、食物を食い回り、外国の地へ上がったという事も明かされる日もあるでしょう。
その為には、今の私たちは何をしたら良いか。
コロナですべての物事を止められて、これまでの事を改めて思案する時を得た私たちは、人を頼りとするのではなく、親神様を頼りとして、自らの責任で行動をする事が重要と思えてなりません。
教祖100年祭を終えてから、当時の真柱様は、「今後年祭をどうするか?」と問われました。
その時、これまで通って来て、すべてわかっているだろうから、自ら考えてするようにと言われたと思います。
あれから30年が過ぎました。
未だに、教えて下さいと言いながら、言われた事をそんなことを言ってもとして、やらない人々を感じます。
反対に、これまでの事に対して見切りをつけて、自ら求めて動いている人々も感じます。
これらを見比べると、後者の方々の方が勇んでいるように思えてなりません。
昭和の第2次大戦が終わった後、天皇が神ではなく、人である宣言をしました。
これは日本の歴史上とても大きなことで、親神様からすれば一列は皆兄弟という教えに近づいた時でありました。
しかし、上に立つ人間は、自分達の優位性を保つために、様々な事をしてきたのです。
そして、戦争や争いごとを起こし、下にいる人々を苦しめて来たのです。
その後、天理教の教えは世界へ広がりました。
日本人の勤勉さと共に。
そして世界中に撒かれた種は、芽が生え始めています。
それらがより一層育つための、一つの節だとも思えるのです。
親神様が、多くの人々を扱って、ウソと追従を掃除して、誠真実の上に不思議な働きを見せている現在だとも思います。
これを書くために、書き換えた「永尾芳枝祖母口述記」を読み返しました。
ブログに書いた当時、これから先どのようになるのか心配で、御守護頂けるようにと念じて書いていた事を思い出しました。
世界では、ワクチンで多くの方が亡くなり、ロシアでは戦争が勃発したり、大地震が起きて大変ですが、日本では表立っての戦争は起きていません。
そうした情報によって、人間がどのように考えるかが問われる状況にある事が分かりました。
スピリチュアル系の発信で、「風の時代」と数年前に言われて来ましたが、まさしく言葉の時代です。
言葉でそれぞれが心を切り替える時、そのようにも感じています。
陽気ぐらしへの、親神様・教祖のお導きに感謝して、思いつくままに。。。
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