東日本大震災が起こったのが丁度10年前。
その10年前には、阪神淡路大震災。
どちらも、想定外という言葉が出されていたと思う。
私たちは、常々に「人のために」という言葉を聞かされて育った。
自分にどれだけの力があるか分からないのに、自分の力以上の事に対しても、何とかならないかと、四苦八苦した。
阪神淡路にも友人がいる。そして、東北にも友人がいる。
その友人のお陰で、心配だったところへ見舞いにも行けた。
あれから10年。先日福島沖で大地震が発生した。
それによって、福島第一原発の水位が下がったとの報道を見た。崩壊している原子炉の水が外へ漏れ出しているのである。
一般メディアでは報道されない。
今、世界中を巻き込む大戦争が起ころうとしている。
「うそとついしょうこれ嫌い」と教えられても、なにくわぬ顔で平気で「うそやついしょう」が行われている。
すべては科学で解決できると勘違いしている人がある。
人の心も科学して、物質で理解しようとしている。そして物質でコントロールしようとしている。
洗脳して支配しようとしている。
ところが、それがままならない。何か不思議な働きがあり、反対する勢力が出てくるのである。
世界中の至るところで、大地震が発生して、大災害が起こっている。その中で、日本ほど助け合って復旧の早い所は無いと聞く。
天理市には、至る所に遺跡が出る。新しく建物や道路を作る時には、必ず発掘調査を行わなければならない。
ずいぶん前だが、ひのきしんで、別席場の東側の発掘現場に行った事があった。
発掘しながら、「ここで生活をしていた人々は、災害で土砂で埋められたら、そのままにして他の土地へ移り住んだんだろうなあ」と思った。そして、「今ならば、掘り返して元の生活を取り戻そうとするのだが、元の生活に戻る事が本当に良いのだろうか。」とも思った。
世界を見渡すと、至る所に遺跡がある。文明が栄えた跡である。
その文明が忽然と消えて、遺跡だけが残っているのである。
文明が亡くなったという事は、そこに住んでいた人々が突然死に絶えたという事である。
その繰り返しが、この地球上では、行われている。
※今、文明が失われることについて、死に絶えたと表現したが、文明を作っているのは、知恵と知識である。
※全員が死に絶えなくても、知恵や知識を持った人々だけが死ねば、文明は無くなるのである。
その文明を動かす知恵や知識を持ち合わせていない人々には、それらの人々は、神、または神に通じる人に感じられていただろうと思う。
災害などで知識人が亡くなり、文明はほろんだとしても、あとに残った人々には、新たな歩みが与えられる事になり、その災害や文明は神話や伝説として語り継がれていてもおかしくはないと思う。
さて、
量子力学という言葉を最近聞いた。それによると心の動きが物質にも影響を及ぼすという考え方との事である。
これを突き詰めると、おさづけで病気が助かる。誠真実の心で病気が助かり、世界が変わるという事にもつながる可能性がある。と思う。
魂の生まれ変わりを証明する事柄に、「人間は虫鳥畜類と生まれ変わりをしてあるから、どんなものの真似ができる」という話がある。
そして、「誰それは、誰の生まれ変わり」という話しもある。けれども、それは一部の人に対してであり、多くの人々には「誰それは誰の生まれ変わり」とは説かれていない。
この点も注意をすべき点だと思っている。
逸話編の199「一つやで」を読むと、これをすごく感じる。そして、誰の生まれ変わりと特定するよりも、生まれ変わりをしている事を得心する事、そして前生前々生の事を、なってくることからお詫びをして、人助けへと心を切り替える事。これが何よりも重要だと思うのである。
世界中では、子供を誘拐し、拷問し、殺害しているところから軍が救出しているニュースが流れている。また、臓器移植のために罪もない人を捉えて殺害するニュースも流れている。
昔の日本の武士の世ならば、殺された人の子供たちは、「親の仇」として末代までも、その人を恨み、恨みを晴らすまで追い求めていたようである。これによって争いの連鎖は続いていたのである。だから、自分たちを守るために、城壁を巡らし、堀を作った。
この恨みつらみが重なれば、この連鎖を断ち切るために、神様としては、リセットするしかなくなる。
そのリセットが、地震大風水つきとも思える。
ただ、昔ならば文明は大陸・海によって分断されていた。だから、他に文明があったとしてもそこへもリセットをする事はなかっただろう。けれども、現代は情報が一つとなり、世界が一つとなってきている。
そうなると、リセットは地球全体となりかねない。
また、リセットがあったとしても、その後の事が問題である。
神の采配を知る人が残っていなければ、リセットの意味がない。それこそ、虫鳥畜類から始めなければならなくなるかもしれない。
神の采配を知る人と言えば、
教祖は、親神様が入り込まれて、教祖となった。また、本席様も親神様が、また教祖が入り込まれて、おさしづを出された。こかん様も神意を伝えられた。
故に天理教としては、人に神や魂が入り込むことは、あって当然と思わなければならない。
これを否定する事は、「おふでさき」「おさしづ」「みかぐらうた」を否定するのと同じである。
ここで問題に思うのは、神が入り込む人と入り込まない人との差である。
その一つに、「おさしづ」を読んで常に思う事がある。それは、おさしづを出された本席様に、あとから「こういうさしづがありました」と説明されている事である。
これを思うと、神が入り込む人は、話をしている事を覚えておらず「神の道具」に過ぎないと思えるのである。
そして、何のための道具かと言えば、「周囲の人に神の思いを伝えるための道具」と思えるのである。
そう考えると、神が一番大切に思い、言葉を伝えたいと思っているのは、「神が入り込まない人々」となる。
その最たる人は、秀司様であり、真柱様、そして取次ぎ人だと思われるのである。
「おふでさき」に「仕込む」という言葉が出てくる。
何のために、何を仕込むか。これが大切だと思っている。
震災から10年という事で、書き出したら止まらなくなってしまった。
これから、月次祭の準備である。もうじき、地震が起こった時間になる。
親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守り下さい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます