今日、『復元』12号最後のページ、「短話」をグループへ投稿した。
「正文遺韻」からのものであるが、「正文遺韻抄」にも掲載されているので、それを投稿しておく。
そして、読みやすく書き換えたものも掲載しておく。
参考になれば幸いです。
※追記;冒頭の「一度話の理を聞いて、なるほどと思いかけ、二度聞いては、得心を、三度聞いては、理を聞き分け、それ、聞くたびに、少しずつでも、理を治めて、それ結構という。」が「正文遺韻抄」にはありませんでした。
「正文遺韻」と「正文遺韻抄」とでは、削除されている部分ありますが、ここに出て来たので、記しておきます。(2021.12.23)
道に尽す心 (『正文遺韻抄』p216現代文に書換)
そこで一つ、尽くそうと思うが初め、それにおいがけや、それおたすけやと言って、人のために、世界のために、身を尽くす。初めは結構な心で、神様へご恩返しと思って、それ尽くして来るなれど、一年、二年、三年と、だんだん尽くすうちに、初めのことも、初め身を尽くし掛けた時の心も、忘れてしまい、いつしか、高慢と言うか、うぬぼれと言うか、それ心に持つともなしに、持っている。
それゆえに、内々が治まらぬとか、または、家内の内に誰か病み煩いでもあるとか言うと、「わしの家は、三年も前から信心をして、わしはもう、においがけを仕掛けてから二年にもなる。それなのに、どういうものであろう。家に難儀がかかってきて、身に不足がかかってくる。これだけ尽くしているのにどういう事や。わしは、これだけ信心しているのに、なんでだろうなあ」と、それ不足の心を持って、神様へたんのうの心を供えず、不足ばかりの心を供えるから、そこでなお不足という理が湧いてくる。
よって、そのような間違いの無いように、神の話というものは、何度でも、我が身を下げて、話を取り次ぐその人を、ずっと立てて、十分に話を聞きとり、それ聞きわけねばならんという。
身上が危ういときや、または、何か一つこういう事を叶えてもらいたいと思うときの誠は、真の誠とはいわれない。
そういう時には、いかなる者も、どんな者でも、それ誠が湧く。真実が出る。また、いかなる心も定めるであろう。なれど、これは一時の理。それ一時の心定め、一時の誠で、真の誠、真の心定めでは無い。それ日々という、常という。一度定めた精神は、日々常に変わらないのが真の誠、それ真の心が定まったというであろう。
これは第一、聞いた上にも話を聞き、理を治めるによって、日々常に変わらない心が定まる。それ話は台というであろう。道を尽くす効能によって、「早く結構を見たい。早く結構になりたい」と、心を急いて無理をしたならば、いかなる理が湧くやもしれない。早死にしたり、弱ったり、夜の床を離れられんような事があっては、結構も何もあろうまい。無理というはならぬもの。ものというは旬という。それ時節ともいうであろう。急くでない。急ぐでない。これも一つの理であろう。
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