『復元』をグループへアップしており、今(2021.11.25)で10号が終わった。
この10号の最後に以下の記事が掲載されている。
これは、『正文遺韻抄』では、「信心するは、立毛作るもおなじ事」という題名で掲載されている。
題名が違うだけで内容は同じなのである。
これまでこれは何度も読んでいた。ところが、『復元』に掲載されたものを読んで、自分がこれまで勘違いをしていた事に気が付いたのである。
何という事か!!
と思い、ここに記録しておく。
信心するは、立毛作るもおなじ事 (『正文遺韻抄』p228現代文に書換)
信心するは、立毛作るも同じ事。今、立毛作るには、種を蒔いても、修理せねば、外の草がしこって(14)(茂って)、訳もわからないようになり、また、肥をしなければ、成人もない。成人なければ、花も咲かない。実もなりそうなことはない。
今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり。立毛なら、種を蒔くようなものや。「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。
そこで尽くすだけの、効能は、天より与えて下さる。立毛なら、実がなったようなものや。
そこであるからして、たとえ、二十年、三十年前に、信心をしかけたというても、その間、聞かぬ上にも話を聞かず、また、道を尽くさんと言うばかりではない。話を聞かんから理がわからずに、天の理に適うことはなく、よこしまな道に、踏み被りているようであれば、二十年、三十年やない、たとえ、百年、二百年経とうとも、花の咲きそうな事もなければ、実のなりそうなこともない。年限経つほど、枯れるばかり、くさるばかりであろう。
とある。
これまで、修理や肥をする人を、おたすけをする人とばかり思って、この話を読んでいたのである。
ところが、今回読んでみて、おたすけをする人ではなく、される人、信仰する人本人が行う事だと思えたのである。
書き換え文であるが、その思うところを示してみる。
まず、
信心するは、立毛作るも同じ事
といわれている。ここには主語が無いのである。
この修理や肥という言葉は、丹精という言葉と共に良く使われる。
この丹精という言葉は、「信者さんを丹精する」などと、会長やおたすけ人が、まだまだ信仰・信心が未熟な方に対して行う言葉として使われる。
そこで、この修理・肥もその丹精と同じように、まだまだ、信仰・信心が未熟な方への行いの言葉と思い込んでいたのである。
ところが、
今言ったように、この言葉には主語が無い。
そうした時に、「信心するのは誰か?」という事が浮かんできた。
信心するのは、神様を信じた人すべての人間である。
おたすけをする人とは限らない。と思えたのである。
すると、目の前が途端に明るくなった感じがした。
さて、
今、立毛作るには、種を蒔いても、修理せねば、外の草がしこって(14)(茂って)、訳もわからないようになり、また、肥をしなければ、成人もない。成人なければ、花も咲かない。実もなりそうなことはない。
ここの部分は、農作業に例えて、修理・肥の必要性を述べられているだけであるが、次である。
今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり。立毛なら、種を蒔くようなものや。「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。
信心の始まりについて、
今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり
と「信仰の始まりの定義」を示されている。
つまり、神様の話を聞いても、なるほどと心に留まる事が無かった場合、それは信心が始まったとは言えないと言えよう。
そして、それを農作業に例えた時に「立毛なら、種を蒔くようなものや。」と言われているのである。
この時に、「なるほどと思ったのは誰か?」と考えた時に、おたすけをする人ではなく、神様の話を聞いたすべての人であると思えたのである。
つまり、この主語は、話を聞いてなるほどと思った、信心を始めた人すべてという事になり、その次に、
「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。
とあり、「話を聞いた上にも聞いて、段々と、その話の理を心に治める事を修理のようなもの」と言われるのである。
さらに、「話の理を治め、その理を聞き分けて、道をつくす事が、肥となり、それは肥を畑にまくようなもの」と言われるのである。
つまり、なるほどと感心して、信心を始めても、話を聞かなかったならば、修理は出来ていない事になり、いくらおたすけ人が助かって欲しいと思って、話を聞かそうと思っても、その人が聞かなければ、修理は出来ないという事になる。
つまり、この修理をするのは、神様の話を聞いた人その者であり、
その上で、話の理を心に治めるのも、その人本人なのである。
となれば、肥を蒔く事をするのも、本人である。
ここには「道をつくす」ととても簡単に書いてあるが、
道をつくすとは、教えを実行するという事であろう。
本人が教えを実行する事で、その行いが肥となって、自分の心を成人させる、運命を良くするための「肥蒔き」でもあるという事になる。
そして、
そこで尽くすだけの、効能は、天より与えて下さる。立毛なら、実がなったようなものや。
そして、そのように肥を作り、肥を蒔いたその結果は、天の神様が与えて下さり、それは農作物に例えれば、実がなったようなものである。
と言われるのである。
実とは、実際には、それぞれの望み通りになって行くという事だろう。
この点をしっかりと考えなければならないと思ったのである。
「神様の話を自ら求める事」「聞いた上にも何度でも聞く事」そして「聞いた話を実行する事」これが何よりも大切な事だと思ったのである。
そして最後に
そこであるからして、たとえ、二十年、三十年前に、信心をしかけたというても、その間、聞かぬ上にも話を聞かず、また、道を尽くさんと言うばかりではない。話を聞かんから理がわからずに、天の理に適うことはなく、よこしまな道に、踏み被りているようであれば、二十年、三十年やない、たとえ、百年、二百年経とうとも、花の咲きそうな事もなければ、実のなりそうなこともない。年限経つほど、枯れるばかり、くさるばかりであろう。
と、なるほどと得心をして信仰を始めたとしても、年数ばかりではならないという事を言われているのである。
これを丹精という言葉と対に使うとした時、
おたすけする人に、神様のお話を取り次げるだけのものが無ければ、修理肥のための話をする事が出来ずに、丹精以前の話になってしまうと思ったのである。
やはり何よりも、神様の話を求め、そして実行して、神様に話しを取り次げと言われる人になる事。
これが何より大切な事だと思ったのである。
今日も、神様の話を元に一日を通りたいと思います。
おぢばに向かう近鉄電車の中で記しました。
何かの参考になれば幸いです。
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