あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

思い方が違っていました。。。修理と肥について。。

2021年11月25日 13時00分43秒 | 正文遺韻抄

『復元』をグループへアップしており、今(2021.11.25)で10号が終わった。

この10号の最後に以下の記事が掲載されている。

これは、『正文遺韻抄』では、「信心するは、立毛作るもおなじ事」という題名で掲載されている。

題名が違うだけで内容は同じなのである。

これまでこれは何度も読んでいた。ところが、『復元』に掲載されたものを読んで、自分がこれまで勘違いをしていた事に気が付いたのである。

何という事か!!

と思い、ここに記録しておく。

信心するは、立毛作るもおなじ事 (『正文遺韻抄』p228現代文に書換)

 信心するは、立毛作るも同じ事。今、立毛作るには、種を蒔いても、修理せねば、外の草がしこって(14)(茂って)、訳もわからないようになり、また、肥をしなければ、成人もない。成人なければ、花も咲かない。実もなりそうなことはない。
 今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり。立毛なら、種を蒔くようなものや。「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。
 そこで尽くすだけの、効能は、天より与えて下さる。立毛なら、実がなったようなものや。

 そこであるからして、たとえ、二十年、三十年前に、信心をしかけたというても、その間、聞かぬ上にも話を聞かず、また、道を尽くさんと言うばかりではない。話を聞かんから理がわからずに、天の理に適うことはなく、よこしまな道に、踏み被りているようであれば、二十年、三十年やない、たとえ、百年、二百年経とうとも、花の咲きそうな事もなければ、実のなりそうなこともない。年限経つほど、枯れるばかり、くさるばかりであろう。

とある。

これまで、修理や肥をする人を、おたすけをする人とばかり思って、この話を読んでいたのである。

ところが、今回読んでみて、おたすけをする人ではなく、される人、信仰する人本人が行う事だと思えたのである。

書き換え文であるが、その思うところを示してみる。

まず、

信心するは、立毛作るも同じ事

といわれている。ここには主語が無いのである。

この修理や肥という言葉は、丹精という言葉と共に良く使われる。

この丹精という言葉は、「信者さんを丹精する」などと、会長やおたすけ人が、まだまだ信仰・信心が未熟な方に対して行う言葉として使われる。

そこで、この修理・肥もその丹精と同じように、まだまだ、信仰・信心が未熟な方への行いの言葉と思い込んでいたのである。

ところが、

今言ったように、この言葉には主語が無い。

そうした時に、「信心するのは誰か?」という事が浮かんできた。

信心するのは、神様を信じた人すべての人間である。

おたすけをする人とは限らない。と思えたのである。

すると、目の前が途端に明るくなった感じがした。

さて、

今、立毛作るには、種を蒔いても、修理せねば、外の草がしこって(14)(茂って)、訳もわからないようになり、また、肥をしなければ、成人もない。成人なければ、花も咲かない。実もなりそうなことはない。

ここの部分は、農作業に例えて、修理・肥の必要性を述べられているだけであるが、次である。

 今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり。立毛なら、種を蒔くようなものや。「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。

信心の始まりについて、

今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり

と「信仰の始まりの定義」を示されている。

つまり、神様の話を聞いても、なるほどと心に留まる事が無かった場合、それは信心が始まったとは言えないと言えよう。

そして、それを農作業に例えた時に「立毛なら、種を蒔くようなものや。」と言われているのである。

この時に、「なるほどと思ったのは誰か?」と考えた時に、おたすけをする人ではなく、神様の話を聞いたすべての人であると思えたのである。

つまり、この主語は、話を聞いてなるほどと思った、信心を始めた人すべてという事になり、その次に、

「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。

とあり、「話を聞いた上にも聞いて、段々と、その話の理を心に治める事を修理のようなもの」と言われるのである。

さらに、「話の理を治め、その理を聞き分けて、道をつくす事が、肥となり、それは肥を畑にまくようなもの」と言われるのである。

つまり、なるほどと感心して、信心を始めても、話を聞かなかったならば、修理は出来ていない事になり、いくらおたすけ人が助かって欲しいと思って、話を聞かそうと思っても、その人が聞かなければ、修理は出来ないという事になる。

つまり、この修理をするのは、神様の話を聞いた人その者であり、

その上で、話の理を心に治めるのも、その人本人なのである。

となれば、肥を蒔く事をするのも、本人である。

ここには「道をつくす」ととても簡単に書いてあるが、

道をつくすとは、教えを実行するという事であろう。

本人が教えを実行する事で、その行いが肥となって、自分の心を成人させる、運命を良くするための「肥蒔き」でもあるという事になる。

そして、

そこで尽くすだけの、効能は、天より与えて下さる。立毛なら、実がなったようなものや。

そして、そのように肥を作り、肥を蒔いたその結果は、天の神様が与えて下さり、それは農作物に例えれば、実がなったようなものである。

と言われるのである。

実とは、実際には、それぞれの望み通りになって行くという事だろう。

この点をしっかりと考えなければならないと思ったのである。

「神様の話を自ら求める事」「聞いた上にも何度でも聞く事」そして「聞いた話を実行する事」これが何よりも大切な事だと思ったのである。

そして最後に

 そこであるからして、たとえ、二十年、三十年前に、信心をしかけたというても、その間、聞かぬ上にも話を聞かず、また、道を尽くさんと言うばかりではない。話を聞かんから理がわからずに、天の理に適うことはなく、よこしまな道に、踏み被りているようであれば、二十年、三十年やない、たとえ、百年、二百年経とうとも、花の咲きそうな事もなければ、実のなりそうなこともない。年限経つほど、枯れるばかり、くさるばかりであろう。

と、なるほどと得心をして信仰を始めたとしても、年数ばかりではならないという事を言われているのである。

これを丹精という言葉と対に使うとした時、

おたすけする人に、神様のお話を取り次げるだけのものが無ければ、修理肥のための話をする事が出来ずに、丹精以前の話になってしまうと思ったのである。

やはり何よりも、神様の話を求め、そして実行して、神様に話しを取り次げと言われる人になる事。

これが何より大切な事だと思ったのである。

 

今日も、神様の話を元に一日を通りたいと思います。

おぢばに向かう近鉄電車の中で記しました。

何かの参考になれば幸いです。

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