泥に足を取られてひっくり返った。
手をついた所からズルズルと、ぬかるみにはまりこんでいく。腕の付け根まで引き込まれた時、隣の奥さんが通りかかった。
「奥さん。お願い。助けて」
「ごめんなさい。わたしこれから出掛けるの」
隣の奥さんは、泥でも引っかかったら困るとばかり、遠回りして行ってしまった。
泥の中には掴まるものは何もなく、踏みとどまる物もない。全身が深みに入っていく。
顔の造作を全部集めるほど、力を入れて目をつぶった。侵入してくる泥を吸い込まないように、鼻の穴を閉じて、息を殺した。
苦しい状態の中で、フワリと体が楽になった。体が楽になった時、思い切って目を開けて見ようと思った。
泥の中は、どんなに汚く冷たいものか、見てみたいという気がして目を開けた。
ドロドロのヌメリは、始めは気持ちが悪く目の端から入り込んで、何も見えなくしてしまった。目をしばたくと、ジャリッと音でもするように動く。堪え切れなくて息を吐いたが、苦しさに負けて深く吸い込んだ。
行ってしまった隣の奥さんが憎くなる。
花が咲いている。見たことのあるような形の花。泥の中なのに汚れていない。薄い水色の花びらは八枚で、手のひらほどの大きさだ。風でも吹いているように揺れて、ほのかな香りを出している。私の吸い込んだものの中にも、漂っている。固くなっていた体をほぐしてみた。緩くなった腕を広げ、泥水を体中の血管に送り込んでみたくなった。
見上げると、冬の陽を浴びた隣の奥さんが、肥えた足でスキップを踏んできた。ぶら下げた百貨店の袋の裂け目から、糸でも切れたのか、真珠の粒が転がり落続けていた。
★著書「風に乗って」から、シリーズ「風に乗って」17作をお送りします。楽しんで頂けたら幸いです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
俳句・めいちゃところ
https://haikumodoki.livedoor.blog/
写真と俳句のブログです。
こちらもよろしくです。