あずまクラブ(越前の守)です。正しい心の探究をします。

”人間は夢とロマンを持つから動物とは決定的に違う”から始めます。正しい心の探究です。

メア氏発言の真実

2011-04-15 17:55:48 | 日記
「お国のためならば、多少の犠牲もやむなし」と思うのが愛国心の現れです。
しかし、愛国心のない人達の言葉には、
犠牲だから弁償せよ、保証せよと「ゆすり、たかり」の意味が含まれるようになりますね。
援助されることを当然と思えば感謝がなく、もっと保証せよとなります。
 辛くて苦しいですね。
反対に援助を当然ではないと思えば感謝の気持ちが大きくなります。
 ありがたくて、幸せな気持ちになります。

いつも被害者意識の人達は、自分より他人の責任にして自己保身になります。
自分の責任とすると苦しいからです。

社会主義=嫉妬を正当化する思想=被害者意識です。
今回の被災者がどのように(天災か人災か)解釈するかよって
義援金や援助が本当に感謝できる援助になるか、
それとも怒りの心で「ゆすり、たかり」になるかです。

天罰と思えば、反省ができて、心の安らぎが早くでき、真の復興(天国への道)へとつながります。
ま、天罰と思うと援助はもらえなくなりますから、そう思う人は少ないかもね。
もちろん、今回の放射能汚染拡大は(管総理の権力欲)人災ですから
きっちり保証すべきです。

以下のブログでは、愛国心のないメディアの判断を疑問視しています。
幸福維新の志士となれ より
渦中のメア氏が、はじめてウォールストリートジャーナルのインタビューに答え、
自分の言葉で反論しました。
問題の「ゆすり、たかり」発言ですが、
メア氏はアメリカ人の学生に英語で話しました。
ですから、「ゆすり、たかり」という日本語に訳したのは、沖縄メディアの記者でしょうから、いくらでも作為的な和訳をつけることは可能です。
英語の原文を見ると、
琉球新報や沖縄タイムスがが鬼の首をとったように騒いでいる「ゆすり」という単語「extortion」は、
「ゆすり」の他に「法外な請求」という意味もあります。
メア氏は、ビデオでの反論にもあるとおり、「補助金」という意味合いで使ったようです。
沖縄県民に対して「ゆすり、たかり」と呼んだのはほかでもない沖縄メディアのようです。
さあ、どうするんでしょう。
アメリカに公式謝罪までさせてしまいました。
この歪曲報道が事実であれば、沖縄タイムスと琉球新報の社長は、何らかの責任を取るべきです。
まずは、メア氏の発言記録の入手経路(学生メモと明かになっています)と日本語訳の過程について、明かにすべきです。
誰が「ゆすり、たかり」と和訳したのか。
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目を覚ませ菅直人!!~福島原発レベル7引き上げに思う~

2011-04-14 17:23:59 | 日記
どうも日本のマスコミは、政府の発表をそのまま鵜呑みをしています。
従って、国民はさらなる苦しみをつくりつつあります。
これは、人災そのものです。
菅首相がまだ居座り続ければ、さらなる人災は続くでしょう。
こんなトップを応援したマスコミの罪はとても思いものです。
罰が当たるという言葉がありますが、民主党を選んだ国民に罰が当たっています。
民主党を選べば国難がやってくると、警告したが、一切無視したマスコミ、そして国民。。
警告した人達へも災難が降り掛かるのは、辛くいものです。
国民は間違った選択をしたと感じつつあります。
政権交代と宣伝し祭り上げたマスコミも、メンツを捨てざる時がやってきます。
もしメンツを捨てない場合は、国民から支持を得ないマスコミに成り下がるでしょう。

上条ゆきや さんから転載します。
福島第一原発について、「レベル7」に引き上げるとの発表がありました。
てっきり、世界原子力機関等の第三機関による、客観的な分析に基づく発表かと思いきや、そうではないようです。
これは、行政つまり、経済産業省の原子力安全・保安院と原子力安全委員会の見解を踏まえて、
最終的には菅首相の判断で発表されたものなのです。
これは、なんと1986年の旧ソ連のチェルノブイリ原発事故と並ぶ最悪レベルの評価です。
しかしながら、チェルノブイリと状況は全く異なります。以下ポイント3点。
まず、第1に、
放出された放射性物質の量は、チェルノブイリの10分の1に過ぎない。
第2に、
2号機爆発後に最大で毎時1万テラベクレルの能力を持つ放射性物質が外部に放出したことを根拠にレベル7に引き上げたようだが、今はその1万分の1に減っている。
第3に、
チェルノブイリは被曝により約30人の発電所員らが死亡しているが、福島では死者は皆無である。
以上、チェルノブイリとは状況が全く異なるのです。
ちなみに、かの国際原子力機関(IAEA)も、12日に、福島の事故の深刻さはチェルノブイリに遠く及ばない、との見解を発表しています。
菅首相よ、あなたは、国際原子力機関(IAEA)を説得する根拠を持ち合わせているのですか?
あなたは、自らの言葉を原因とする風評が、どれだけ福島の人々を苦しめているか分かっていますか?
あなたは、自分の言葉が原因となり、いかなる果実を生むか、いかなる不幸を生んでいるか、よくよく理解しなければなりません。
あなたは、今、「最大の人災の原因」を創ろうとしているのです。
目を覚ませ!!菅直人。
あなたは、今一度、自らの責任の大きさを知るべきです。


(産経新聞参照)
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ウクライナを見よ、原発事故でも農業は揺るがない

2011-04-13 18:51:09 | 日記
日本だけで騒ぐのではなく、過去の事例を参考にして冷静になって欲しいものです。
写真はウクライナの農場です。

幸福実現党 吉井としみつ氏ブログ転載
2011年4月11日 JBPress 川島博之(東京大学大学院農学生命科学研究科准教授)
福島第一原子力発電所の事故により、福島の農業が大きなダメージを受けている。
一時は野菜や牛乳などに対して、出荷の停止や摂取を制限する措置が講じられた。
その後、放射能の影響が低下したために、多くの品目で出荷制限などの措置は解除されたものの、事故がいつ収束するかが分からない現在、今後を見通すことが難しくなっている。
土壌の調査が終わるまでは、田植えができるかどうかも分からない有り様だ。
コメも野菜も不足することはない福島の農業は、風評も含めて、甚大な被害を被った。
まず、このことが日本の食料供給にどのような影響を及ぼすか検討してみよう。
農林水産省によると福島の農家数は約9万7000戸、コメの作付面積は約8万ヘクタールである。
また、野菜は路地と施設栽培を合わせて4980ヘクタールだ。
これが日本の農業に占める割合は、農業人口やコメの作付面積が4~5%、一方、野菜は2%程度である。
ここで、もし福島県でコメの生産ができなくなっても、日本には100万ヘクタールほどの休耕田があると言われているから、他の地域の減反を緩和すれば不足することはない。
また、野菜についても、栽培面積が全国の2%しかないことから、それが需給に大きな影響を与えることはなさそうである。このため、もし仮に、福島県で農業を行うことができなくなっても、それが日本の食料供給に大きな影響をもたらすことはない。
ただ、原発事故が長期化し、茨城、栃木、群馬でも農業を行うことが難しくなると、そこが首都圏へ野菜の供給基地になっているだけに、大きな影響が出る可能性がある。
一刻も早く原発事故が収束し、放射性物質が現在以上に拡散することがないことを祈るばかりである。
ここまでは、比較的短い期間の影響について考えてみた。
以下は、もっと長期的な影響について考えてみたい。
農業国ウクライナを襲ったチェルノブイリ事故原子力発電所の事故の話では必ず「チェルノブイリ」という言葉が出てくる。
チェルノブイリ原発があったウクライナの農業は、事故後どうなったのであろうか。
それは、日本農業の今後を考える上で参考になると思う。
ウクライナは豊かな穀倉地帯を抱えている。
ヒトラーがソ連に侵攻した理由の1つが、ウクライナの食料を手に入れるためだったとも言われるほどだ。
ウクライナの国土は6000万ヘクタールと日本の1.6倍ほどしかない。
米国やロシアに比べて広い国ではない。
しかし、その国土の約7割で農業が行われており、農地と草地を合わせた面積は4000万ヘクタールにも上る。
これは日本の約10倍である。
農業生産額がGDPに占める割合が8%、農業人口割合は17%となっている。
日本の農業生産額はGDPの約1%で、農業人口は4%である。
ウクライナが「農業国」と言われる理由が分かろう。
作付面積も生産量も増えている結論から先に述べると、マクロな視点から見る時、原発の事故がウクライナ農業に深刻な影響を与えることはなかった。
日本では、「チェルノブイリ周辺の放射能汚染がいまだに除去されない」などと言った報道ばかりを耳にするが、ウクライナ農業は完全に復活しているのだ。
チェルノブイリ原発事故から5年も経過した後であるが、放射能汚染の長期影響を見る上では参考になろう。
ウクライナで最も重要な作物は穀物であるが、最も古いデータとなる92年の作付面積は1250万ヘクタール、生産量は3550万トンである。
それが2009年には、1510万ヘクタールで作付けが行われ、生産量は4540万トンにもなった。
作付面積も生産量も増えていることが分かる。
順調に増えている穀物の輸出量また、92年には穀物を180万トン輸入していたが、2008年には1640万トンを輸出している。
92年には輸入していた穀物を、年間1000万トン以上も輸出するようになったのだから、ウクライナ農業はここ20年ほどで強くなったと言っていい。
もし、ウクライナの土壌が汚染されており、そこで生育した穀物に放射性物質が含まれているのならば、外国がそのような穀物を買うことはないだろう。
輸出量が順調に増加したことからも、風評被害を含めて、現在、ウクライナ農業はチェルノブイリ原発事故の影響を完全に払拭していることは明らかだ。
国レベルで見れば、ウクライナもロシアと同様に「チェルノブイリ原発事故の影響を受けていない」と考えていいだろう。
チェルノブイリ原発から半径30キロメートル以内は、現在でも、立ち入り禁止になっているから、そこで穀物を生産することはできないが、それ以外の地域が長い間汚染に苦しむことはなかったのだ。
原発事故が国全体の農業に対して、長期にわたり悪影響を及ぼすことはない。
原発事後が一刻も早く収束することを祈るばかりだが、「レベル7」になったチェルノブイリ原発事故でさえ、国全体の農業には大きな影響を与えることはなかった。
この事実は、日本の農業を大いに勇気づけるものになろう。
【コメント】
旧ソ連(現ウクライナ)で起こったチェルノブイリ原発事故を乗り越え、ウクライナが「世界最大の穀倉地帯」として力強く復活していることを伝えてくれています。
ただ、日本はいまだにウクライナから小麦を輸入していないことからも顕著なように、「食の安全」に関しては世界一うるさい国民性であり、実質的な放射線被害というより、「風評被害」が強く懸念されます。
既に、福島産の米や酒などを含め、安全上何も問題が無くても、「福島産」というだけで返品が相次いでおり、投げ売りも見られます。
福島県産野菜を経産省や自民党などの食堂で使い始めたとのことですが、菅首相もカイワレではなく、
福島産のホウレンソウを食べるなど、福島産の農作物の安全性をPRすべきですね。
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パパになるよ・・・弟一家、姉の幼子迎え入れる【東日本大震災】

2011-04-12 16:31:01 | 日記
下記のブログに出会いました。
涙が止まりません。
ほんの一例でしょう。再建できるものはがんばれる。
親を失い、子を失い、もう二度と逢えないと思えば、
悲しみは深まり、生きる希望をなくした方もいるでしょう。

しかし、決して決して、永遠の別れではありません。
いずれ、あの世で再会できます。
悲しみにくれるだけの人世を選ばず、
残された人生を力強く生きれば、あの世に帰った両親も安心して喜ぶでしょう。
人世は一冊の問題集と言われています。
難しい問題かもしれませんが、解けない問題は与えられないと教えられています。
松田さんの、養子として引き取る言葉に深い慈悲の心が伺えます。


幸福メンタルクリニック より
東日本大震災の津波で自宅や勤め先の会社を流され、避難所生活を送る岩手県陸前高田市の会社員、松田雅範さん(41)が津波で亡くなった姉、新沼薫さん(45)の幼い子供3人を新しい家族として受け入れる決意をした。松田さん自身も妻と2人の娘をもち、生活の見通しはまったくない。だが「震災遺児」となったおい、めいだけにするわけにはいかなかった。【沢田勇】

松田さんが家族として迎え入れたのは薫さんの長男実歩(みつほ)君(8)と双子の姉妹の朱莉(あかり)ちゃん(7)、美尭(みのり)ちゃん(7)。薫さんは遺体で発見され、夫友康さん(46)や友康さんの両親は行方が分かっていない。
 ■■
「津波が堤防を越えます。今すぐ逃げてください」。3月11日、松田さんは母を連れて車で避難所に向かった。防災無線の絶叫にも近い声は、事の重大さを物語っていた。背後で電柱がなぎ倒され、水しぶきが見えた。急いでハンドルを切って高台を目指すと、保育士に連れられ素足で坂を駆け上る次女穂乃実ちゃん(4)を見つけ、運転席の窓から車内に引き入れた。その後、避難所を訪ね歩き、長女由希菜ちゃん(7)と、薫さんの子供3人の無事を確認した。
叔母の家に5人の子供を預け、薫さんらを捜し続けた。
翌12日。避難所の市民体育館に向かう薫さんと、消防団員として体育館前で交通整理をしていた友康さんの姿を目撃したという人に出会った。
体育館は、津波にのまれ生存者がほとんどいない避難所だった。
薫さんの家も基礎が残るのみだった。
震災1週間後の18日、松田さんは遺体安置所で薫さんと再会した。
薫さんの子供たちと自分の長女は同じ小学校。一緒に遊ぶことも多かった。
どれだけ子供たちを愛していたか、よく知っている。姉の無念さを思うと、やるせなかった。
薫さんの死を子供たちに告げられなかった。
「電話が通じるようになったら、早くお母さんに電話したいな」。
甘えたい盛りの子供の気持ちを思うと、胸が締め付けられた。
それでも「最期の別れだけは立ち会わせたい」と火葬前日の23日夜、事実を告げることにした。
「なに、なに」。無邪気な子供たちを前に、声を振り絞った。
「お母さんもお父さんもみんな死んじゃいました。今日はいっぱい、いっぱい泣いていいからね」
悲しみに包まれる部屋。そして松田さんと妻あやさん(41)は、こう告げた。
「これからは由希菜のパパとあやちゃんが、みんなのパパとママになります」

この度の東日本大震災で孤児となったお子様たちは、今後、どのような環境に身を置くのでしょう。
考えただけでも、胸が痛くなります。
お子様に恵まれなかった方・・・
お子様を望まれている方・・・
ぜひ、新しい家族に迎え入れてください。
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在日米軍、被災高校でがれき撤去 宮城・石巻市

2011-04-11 17:32:17 | 日記
大手新聞やNHKもあまり米軍や自衛隊の活動を報告しません。
本来ならば、応援に来てくれた人への感謝をするのが、日本人の美徳なのに、、
無視しているかのごとくです。
戦争をイメージする軍隊はいやだと、援助にきても無視するのは、左翼の思想に染まっています。
素直ではないです。沖縄では売名行為とまで蔑んだ報道をしています。
助けてもらっているのに、礼儀しらずを通り越して人間じゃないですね。

軍隊は自己完結型組織です。
道なき道を進み、電気も水もなく、橋がなければ急遽つくり、宿泊テントから風呂、
食事班、医療班など全部自前でしてこそ軍隊として成り立つのです。
そして空軍、海軍と連携した独自の通信で効率よく動かせるのが軍隊です。

今回のような大災害の場合は警察や消防の組織では手がでません。
災害救助でも軍隊を使いこなすのが、国を守り、命を守ることになるのです。
津波で残ったのはコンクリートです。人からコンクリートは間違っていましたね。
防衛予算や防災予算を無駄と決めつけて削減して、
災害を拡大した民主政権の責任はとてもとても重いものです。

津波で襲われた仙台空港はがれきで空から入れないと判断した自衛隊でしたが、
実践経験をしている米軍では、戦争でないから安全だと
ヘリコプター降下部隊で降り立った米軍を見習うべきですね。
やはり訓練も必要なのです。
うるさいから、あぶないからと訓練をやめろと、米軍出て行け、空母くるな
自衛隊は憲法違反だと叫ぶ左翼の方は、
軍隊からの救助を拒否するのでしょうね。
国会議員の辻本清美は神戸の震災のときに、自衛隊から食料をもらうなと言っていたね。
もう人殺しです。
つまり、憲法9条を守れと言う左翼は、日本人を守らないし守れなかったのです。

47NEWS より転載

在日米軍、被災高校でがれき撤去 宮城・石巻市
写真は生徒と一緒にがれきをかたづける米軍兵士=30日午前10時、宮城県石巻市の石巻工業高校
在日米軍、泥やがれき除去
 日本各地に駐留する米軍が30日、大津波の被害を受けた宮城県石巻市の県立石巻工業高校で、教員や生徒らと校舎に流れ込んだ泥やがれきの除去作業を行った。被災して実施が4月5日にずれ込んだ入学試験や、入学式などを控え、校舎を使えるようにするため。
 石巻市の要請に米軍が応えた。作業には陸海空軍・海兵隊の計約50人と、同校の教員と生徒計約120人が参加した。
 30日午前9時、学校玄関前で米兵が整列すると、野球部やサッカー部の生徒から「かっこいい」「でっけー」と歓声が上がった。米兵たちはスコップですくったり、水で洗い流して体育館内の泥を取り除くなどした。
 初めは「大きくて怖そう」などと、米兵を避けていた生徒らも、一緒にブラシ掛けをするうちに、笑顔で会話するなど打ち解けた様子に。卓球部の2年丹野真稔君(17)は「自分たちなら3人がかりで持ち上げる卓球台を1人で運んでいて驚いた」。
 作業を指揮する海兵隊のショーン・マクマーン中尉は「津波被害は非常に残念。復旧に向けて、ともに働けることをうれしく思う」と話した。
 米軍は今後、石巻市内の4小学校でも泥やがれきの除去を行う。
 在日米軍司令部によると28日現在、米軍約1万8千人が支援活動に携わっている。仙台空港や三陸沿岸の港湾の復旧作業を担当。海兵隊は揚陸艇で同県気仙沼市の離島・大島に救援物資や重機を運んだ。
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中国南部で「奇病」エイズに似た症状を訴えながらHIV検査は陰性!

2011-04-09 09:49:12 | 日記
中国南部で「奇病」 HIV検査は陰性
2011.4.8 01:20 産経ニュース
 中国・広東省などでエイズに似た症状を訴えながらHIV(ヒト免疫不全ウイルス)検査で「陰性」と判定される患者が相次ぎ、
中国衛生省は「心理的な要因だ」と断定して、新たな感染症の存在を否定した。
華僑向け通信社、中国新聞社が7日、伝えた。
ただし、広東省は2003年に中国を中心に世界的に流行した新型肺炎(SARS)の感染源とされ、
また、地元紙は未知のウイルスによる“奇病”の疑いもあると指摘している。(上海 河崎真澄)

昔から唯物論国家(無神論国家)には、災害と病気が蔓延すると言われている。
神の怒りを鎮める国の行事が必要だけど、
神という言葉さえ使うことがはばかれる国では、天災が続くと思います。
科学万能の時代に、非科学的な事を述べると思われるであろうことは百も承知である。
神の作られた世界を調べる手段には色々あるが、
神を信じない可哀想な人々を納得させる一番効果的な学問が科学なのである。
従って、科学万能と思う事自体が神の怒りをかうのだと思われる。
人間はアメーバや猿から進化したと言い張る人は、
アメーバや猿が次なる進化をしたという証明はしていない。
進化出来なかったものが、
未だに猿とかアメーバの姿のままであるという矛盾した説明である。
なぜ進化しなかったのか?説明が欲しいです。
どちらが非科学的なのか?

種を撒き成長して花や実となって別の姿になることのように、
アメーバや猿が次の姿に変化するところを見せるのが科学なのだが、、、出来ていません。
科学で解明できないならば、その科学は未熟と思わねばならないのだ。
理解できないものは、非科学的と捨ててしまう事が、人間側の奢りとなっているのです。

医学が進んで、既存の病気を駆逐しつつありますが、
次から次へと新しい病気(エイズや鳥インフルなど)を用意するのは、
神様の仕業としか思えてなりません。
新しい病気に立ち向かうために新薬を開発することは、
人間の知恵をさらに高めるきっかけとなっていますが、
畏敬の念をこめて神に祈る行為でも病気を直す方法の一つであると思います。
神をあざ笑う人は、
新しい病気を恐れ逃げ惑い、
不安と悲観する人生を歩みます。
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政府、中国人ビザ発給要件の緩和検討

2011-04-08 18:38:22 | 日記
また、中国人のビザ発給を緩和するって!
スパイを逮捕する法律がないから、買い物以外の目的で入国する人が増えますね。
無防備というか、日本の政権は中国のための政権かもです。

 政府は8日閣議決定した「規制・制度改革の基本方針」で、
中国人の個人観光客を対象としたビザ発給要件の見直し策について「国際観光客誘致のため、
中国人についての査証の発給要件など、訪日査証の在り方について検討する」とした。
 中国人向けのビザは昨年、発給要件が緩和され、
有効期間内なら何度でも使える数次査証(マルチビザ)発給も検討されているが、
与党内には「拙速」との声がある

以下、コメント集の抜粋です。
4 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 04:57:25.78 ID:D8//IQgH0
民主党って、ほんとに日本のために成らないことばかりやってるよな…

5 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 04:58:06.29 ID:mcQPEcI40
うん。もう怒っていいと思う。

6 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 04:58:46.74 ID:eqPSv9mj0
むしろ厳しくしなきゃいけないのに緩和とな

7 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 04:58:53.72 ID:o19Nwzx0O
ミンスが政権取ってから
売国以外何もやっていない件

8 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 04:59:12.47 ID:aIP6peDb0
民主政権になってから、天災、人災、売国、と、日本存亡の危機がテンコ盛り

9 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 04:59:27.17 ID:JJTCZjpg0
問題点は年収70万以上
日本のフリーター以下の年収の観光客
富裕層ならともかく、こんな貧民が日本お金落とすはずがない
日本に来て何をするか言わなくてもわかるわな
・不法滞在
・出稼ぎ
・強盗、殺人、窃盗、麻薬
・偽装結婚→国籍取得→生活保護受給

12 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:00:05.11 ID:te8lFJPf0
原発は後手後手だけどこういうの早いんだな

14 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:00:34.83 ID:6P/ZXhEB0
震災の対応はまともにやらずに裏でこんなことやってたのか・・・
変な会議ばっかやってると思ったらこれかよ、クズすぎるわ

16 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:00:42.96 ID:G9p1WJT50
こうやって外国人参政権や人権法を通すつもりだね。
民主党は怖い。

17 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:01:04.24 ID:XL3qzSna0
賢明な中国人は最早日本に関心ないと思うが、
現政府の目的は、何十年と続く国内の混乱期を一層無秩序化することと理解した

23 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:04:02.64 ID:HBCi+1U6O
ゴールド限定とかわけわからん
年収200万がマンション買える国緩い国なのに
しかもパスポート平気で売買する国なのに
数年前にNYで日本のパスポート20万で買うよって言われた
領事館で臨時渡航書貰えばパスポートなくても帰国できるから大丈夫だとも
他国に住んでもそんな国民性だぜ

30 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:06:51.11 ID:6SX4mjiD0
仙谷が動き出したな

31 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:08:19.02 ID:VvzKbQjz0
富裕層が来るかよw
来るのは仮設住宅が羨ましいレベルの貧民だろう。

34 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:09:11.98 ID:7IalKq/A0
ドサクサもなにも、
もうすでに、中国人がすごい勢いで日本に侵食してる。
ありえないスピードだよ。

46 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:13:13.00 ID:98vOaq8D0
これから来る中国人は100%火事場泥棒だろ

56 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:14:55.85 ID:UeASv1iF0
規制緩和で年収70万のやつが海外旅行で日本に来て
買い物したりサービス受けたりするのか?

62 :名無しさん@十一周年:2011/04/08(金) 05:16:57.98 ID:kAMP+3GB0
  敗戦革命論   
   
1 :名無しさん@3周年:2010/05/16(日) 04:40:51 ID:zRX7vZVY
革命的祖国敗北主義(かくめいてきそこくはいぼくしゅぎ)とは、共産主義の政治思想の一つ。
言葉は似ているが、革命的敗北主義とは別の概念である。革命的敗戦主義ともいう。
パリ・コミューン、ドイツ革命、ロシア革命の例に見られるように、「祖国の敗戦」という国難が革命勃発のきっかけとなっている。
これらの実例から、帝国主義下にある自国が対外戦争に参戦した場合、自国の勝利のために挙国一致で戦うのではなく、
むしろ自国を敗北させるように仕向け、その混乱に乗じて自国の革命を成就させることを指している。
具体的には、反戦運動を高揚させることで自国の戦争遂行を妨害したり、敵国を利するための各種活動の実施などである。

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「稲むらの火」

2011-04-07 16:16:13 | 日記
津波から村人を救った話です。津波の後の活躍も記載されています。
菩薩のような人ですね。
1995年仙台講演で大川隆法総裁が、「仙台に地震と津波が来ますが防ぐ手だてはないでしょう」と予言されていますが、本気で捉えた人はいなかったのです。幸福実現党が仙台市長選に地震学者を立候補させたけれど、無視されました。当然ながら防災がないがしろにされたのは言うまでもありません。
聞く耳を持たなかった報いとは思いたくないですが。。。。

ねずきちのひとりごと より
昔の人って、なるほど、こういう物語を読んで成長したから立派な人になったんだ、と思えるお語があります。
パラオの中川大佐の物語を読まれた方なら、もしかすると彼も、こういう物語を学んでいたのかもしれい、って思えるかもしれません。
実は、以下にご紹介するお話は、昭和12(1937)年から、昭和22(1947)年まで、小学校5年生の国語の教科書に掲載された物語です。(読みやすくするために、現代語にすこしアレンジしています)
~~~~~~~~~~~
「稲むらの火」
この事件が起こった頃、五兵衞はかなりの老人でした。
五兵衞の家は、村での物持ちでした。長い間、村の庄屋を勤めたので、五兵衞は村の人々から尊敬されていました。
村の人たちは、いつも五兵衞を「浜口のおじいちゃん」と呼びました。
村いちばんの金持なので、「浜口の大尽(だいじん)」ともいっていました。
五兵衞はいつも小作人や貧乏漁師のためになることばかりしていました。喧嘩の仲裁から、困った時のお金の立替え、ときには貧乏人にタダ同様に売ってやりもしていました。
五兵衞の大きな草葺(くさぶき)の家は、一つの湾を見おろした小さな高台の上に建っていました。
この高台は、小さい段々の水田が浜の方へと並んでいて、三方は山に取り巻かれていました。
この土地は、海に向って、その山の腹から浜辺まで、えぐりとったようになっていて、五兵衛の家は、その中程の高台にありました。
海の方から見ると、細い、白いうねうねした道が、段々の田を左右にわけて、下の村から五兵衛の家へと登っていました。そうして下の村には、湾に沿って90ばかりの草葺と、一つの神社とが並んでいました。
それは秋のある夕方の事でした。
五兵衛は、下の村の祭りの用意を、自分の家の縁側(えんがわ)から眺めていました。
その年は非常に稲の出来がよかったので、氏神で盛んな豊年祭が行われることになったのです。
老人は、村の屋根の上にひるがえっている大幟(おおのぼり)や、竹の竿(さお)についた祭提灯(まつりちょうちん)や、神社の森影に見える飾り行燈(あんどん)や、派手な揃い(そろい)を着た若い人たちの群を見ることができました。

その時五兵衛と一緒に居たのは、小さい十歳の孫だけでした。
他の者は早くから村の方へ下りて行きましたが、少し加減の悪かった五兵衛老人は、孫と淋しく留守居をして居たのでした。
その日は秋だというのに、何となしに蒸暑い日でした。夕方になるとそよ風が出ましたが、それでも何だか重くるしい暑さが残っていました。
そんな日にはとかく地震があるものでしたが、この日も間もなく地震が来ました。その地震は、別に驚くほどのものではありませんでした。
しかしこれまで幾百度となく地震を経験している五兵衛老人には、変に思われました。
長い、のろい、ゆったりとした揺れようでした。
多分極めて遠い土地の大地震の余波のようでした。家はきしみながら、幾度か穏やかに揺れて、また元の静けさに返りました。
地震が終ると、老人の鋭い考え深い眼は、気ぜわしそうに下の村を見ました。
ちょうど、何もわからない所で、何とはなしに少し変だという感じに、思わずある一方に気が取られるように、老人には、何となく沖合の方に、ただならぬ事があるように思われたのです。
立上って海を眺めました。海は不意に暗くなって、何だか風と反対に波が動いているようでした。波は、沖へ沖へと走っていました。
たちまちのうちに、下の村でも、この妙な出来事に気が付きました。
先の地震を感じた人は一人もなかったのですが、この海の動きには、皆が確かに驚きました。
老人の眼にも、村の大勢が浪際(なみぎわ)へ浪際へと走るのが見えました。
誰もかって知らないほど、海水が引きはじめました。
これまで知られなかった肋骨(ろっこつ)のやうな畦(あぜ)のある砂の広場や、海草のからんでいる大きい岩底が、見るまにあらわれて来ました。
が、村の人々は、この意外な引潮が何を意味するのかは知らないようでした。
五兵衛自身も、こんな有様を見たのは初めてでした。
しかし、幼い時に父が話したことがふと胸に浮んで来ました。
何百年の前にあったという伝説でも彼は知っているのでした。
彼には海がどうなるのかが解ったのです。
たぶんこの時、五兵衛老人の咄嗟(とっさ)に考えたことは、下の村へ孫を使にやるにかかる時間の事であったことでしょう。山のお寺の僧に、大釣鐘(おおつりがね)を鳴らして貰(もら)うまでに要る時間のことであったことでしょう。
老人は孫に向って、大声で命じました。
「おい、忠、早く。 大急ぎだ。 松火(しょうか)をつけて来い!」
(注:松火=たいまつ)
松火は嵐の晩に使うために、海岸の村々ではどの家にもありました。
子供はすぐに持って来ました。
すると、老人はそれを掴(つか)んで、家から少し下った田に急ぎました。
そこには浜口一家の1年の労役の酬として、熟しきった稲の刈束が、堆(うずたか)く積んでありました。
老人はその近いものに火をかけました。日に乾いた藁(わら)は、吹きあげる海風にどっと燃えあがりました。
老人は、走って第二の稲の山に火をつけました。第三の山につけました。
一山、一山、たちまちに天を沖する大きな煙の渦が、幾條も幾條も合わさって空に高く渦巻きました。
孫の忠は青くなって、
「お祖父さん。お祖父さん。どうして。どうしたの。」と叫びましたが、五兵衛老人は答えようともしませんでした。
彼はただ命の瀬戸にある下の村の四百人の事ばかり考えていたのでした。
忠は突然泣きだして、家の中へ駆けこみました。祖父が気が狂ったと思ったのです。
老人は自分の家の最後の稲むらに火をつけると、その松火を投出ししました。
この炎に、山寺から鐘が鳴り初めました。
村の人々はこの鐘の響に、この煙の渦巻に浜辺から村を過ぎて、丘へ丘へと、蟻のむれのように登って来ました。
日は沈みかかっていました。
湾の皺(しわ)のある海底や、斑(まだら)に土色のある大きい砂原の広がりを、最後の夕映がぼんやりと照らしました。
波はまだ、沖へ沖へと走っていました。

実際は、老人の思ったほど長くたたないうちに、火消のための一隊が高台に着きました。
その二十人ばかりの村人は、すぐ稲むらの火を消しにかかろうとしました。
老人は手を挙げて止めました。
「うっちゃって置け。燃やして置け。大変だ。村中皆ここへ来るのだ。」
村中の人々は追々と集まりました。
若い男たちや、子供が来ました。元気な女たちや娘なども来ました。それから老人の大方も来ました。しまいには、上からの合図に、子供を背負った母親たちも来ました。
が、次第に集まった人々は、やはり何事か知らずに、ただ燃えている稲と、老人の顔とを、不思議そうに眺めて居ました。日は沈みました。
「お祖父さんは気が違ったんだ。お祖父さんが火をつけたんだ。」
孫の忠はすすり泣きながら言いました。
「火をつけたのは俺だ。だが、村じゃみんな来たか?!」
老人が厳然と言いました。
村の組合のおもだった人たちや、家の主人たちは、人々の顔を見回したり、坂を上がって来るものを数へたりして言いました。
「はい、みんな居ます。でなくても、直ぐに参ります。一体どうしたのですか?」
「来た! 見ろ!」
老人は沖の方を指さして、力一杯の声で叫びました。
「来た。どうだ、おれはきちがいか? 見ろ!」
黄昏(たそがれ)のうす明かりをすかして、一同は東の方を見ました。
そして薄暗い地平線の端に、まるで海岸のような細い長い一線を見ました。
それは見ているうちに太くなりました。線は広くなりました。
たちまちその長い暗がりは、堤防のように、そうして絶壁のやうに聳(そび)えて、鳥の飛ぶより早く進んで来ます。押しかえしの波だったのです。
「津波だ!」と人々は叫びました。
海がおそろしく盛上がって、山々をとどろかす程の重さで、電をつんざいたような、泡沫とともに海岸にぶつかったとき、何ともいえぬ重い、強い、すべての叫び声を打ち消すような響きがしました。
一時は、雲のように坂の上へ突進して来た水煙のあらしの外には、何も見えなくなりました。
人々はうろたえながら、ただおびえました。
そして再び見直した時、人々は、家々の上に荒狂って走る、白い恐ろしい海を見ました。
その海は、うなりながら土地の五臓六腑(ごぞうろっぷ)を引きちぎって退きました。
二度。三度。五度。
海は進んでは退き、又進みました。
しかしそのたびごとに、波は小さくなって、だんだん元の海へと帰って行きました。大風のあとのやうに荒れながら。
高台の上には、しばらく何の声もありませんでした。
一同は、下の村の荒廃を無言のうちに見つめていました。
投げ出された岩や、裂けて骨の出た絶壁のものすごさ。家や社がさらわれた跡には、海底からもぎ取られた海藻や砂利(じゃり)が放り出されいるむごたらしさ。
村は無い。田畑の大部分も無い。浜には家が一つも無い。
見えるのは、ただ沖の方に物狂はしく浮き沈みする藁屋根の二つ三つだけです。
死を遁(のが)れた恐ろしさと、家と財とを奪われた悲しさに、人々はただ茫然とするばかりでした。
老人が再び言いました。
「稲に火をつけたわけは、あれだ」
人々は、自分の命が救われた事に気がつきました。
思わず地面に土下座して、五兵衛の前で涙にむせびました。
老人も少し泣きまた。嬉しさから、そして無理をした身体の苦しさから。
でもそのままでは居ませんでした。
「さあ、俺の家は村の家だ。お寺もある。皆しっかりしろ!」
彼は先に立って案内しました。人々はただ叫んだり、関の声を挙げたりしました。
それから村の困難は随分続きました。
しかし村はだんだんに回復しました。それには老人の努力も大きいものでした。
村が再び立て直されたとき、人々は五兵衛に対する自分等の負債を忘れませんでしたが、その偉大な慈悲の魂に対して、何とも酬(むく)いることが出来ませんでした。
彼らは、五兵衛の魂は全く神の如きものであると思いました。
そこでその魂のために、一つの社を建てて、鳥居の上には金字で「五兵衛大明神」の額をかけました。
村中は少しもその尊さを疑うことなく、この神の前に祈りと供物を捧げました。
それについて老人がどう感じたか、私は知りません。
ただ、私の知っているのは、下の村で彼が神として祀(まつ)られているとき、彼は山の上の古い草葺屋根の中で、子供や孫たちと一緒に、前の通り人間らしく質素に住んでいたことです。
もう彼が死んでから百年以上になりますが、神社はやはり存在していて、村人の祈りは、この善良な老人の御魂(みたま)に向って、今も捧げられているといふことです。

~~~~~~~~~~~~~
この物語の原作は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の、「A Living God(日本名「生神」)」です。
ハーンは、明治29(1896)年岩手県三陸沖で起こった明治三陸沖地震のときの津波被害(死者2万1915名)の報に接して、この作品を書いたと言われています。原作は英語です。

明治三陸沖地震は、震源地が岩手県釜石市東方沖200kmで、M8.5の巨大地震です。
宮古測候所の地震計の記録によると、揺れは、なんと5分間という長い時間続き、各地の震度は2~3程度と微弱だったそうです。
だから誰も気にかけなかったし、地震による直接的な被害はほとんどありません。
ところが、この長い揺れのあとに、巨大な大津波がやってきます。
津波による被害は、死者2万1915名、負傷者4398名、家屋流失9878戸、家屋全壊1844戸、船舶流失6930隻です。甚大な被害です。
大津波の第一波は、地震発生から約30分後です。
当時の記録によれば、津波に襲われたのは北海道から宮城県にわたる広い範囲です。
北海道の襟裳岬では4M、青森県八戸で3M、宮城県女川町で3.1Mの津波でした。

巨大津波が襲ったのは、岩手県の三陸沿岸です。
最大波高は、釜石が8.2M、宮古市が18.9M、山田町が10.5M、大船渡市で22.4Mと、軒並み10Mを超える高さです。
特に綾里湾の奥では、入り組んだ谷状の部分を津波が遡上したため、日本の本州で、観測された津波としては、最も高い、波高38.2Mの津波となりました。入江では、津波が巨大化するのです。

平成16(2004)年に起きたインド・スマトラ沖地震(M9.3)では、大津波によっ22万人以上の死者が出ました。
タイのプーケット島では、当時、津波がやってきたときの様子が、テレビで日本でも数多く紹介されましたが、プーケットには、地震発生の2時間半後に巨大津波が到来しています。津波の速度は、なんと時速700kmです。
巨大地震による津波は、震源地から遠く離れた所にも影響がでます。
地震自体が巨大でも、震源地から遠く離れていたら、揺れは小さく、しかもゆっくりとしていて、長時間揺れが続きます。
そして沿岸部では、潮が大きく沖に退く。
退いた潮が、時速700km(管理者注:深いところでの速度です。)という猛スピードで一気に押し寄せる。これが津波です。
もし、長時間の揺れ、潮が沖に退くことが、巨大津波の前哨であるということを多くの人が知っていれば、スマトラ沖地震では、これだけの被害はなかったかもしれない。
そう考えると、とても残念です。
スマトラ沖地震では、平成17(2005)年1月に、大津波の被害後にジャカルタで開催された「東南アジア諸国連合緊急首脳会議」で、シンガポールのリー・シェンロン首相が、当時の小泉純一郎内閣総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、ほんとうか?」と尋ねたそうです。
残念ながら小泉総理(当時)は、戦後世代でこの話を知らず、東京の文部科学省に照会したけれど、誰も知らなかったといいます。

ハーンが書いた、「A Living God」は、実話です。
舞台となったのは、安政元(1854)年の安政南海地震で、このとき、紀州藩の広村(現在の和歌山県広川町)に襲来した大津波を、事前に潮の変化で悟った浜口儀兵衛が、大量の藁(わら)の山に火をつけて、村人を安全な高台へ避難させ村人を救ったという故事を題材にしています。
この安政南海地震は、M8.4の大地震です。津波の規模も上でご紹介した明治三陸沖地震と、ほぼ同等の規模のものです。
昭和9(1934)年のことですが、当時の文部省が新しい国語と修身の教材を公募します。
このとき、事件のあった村の隣村で小学校の教師をしていた中井常蔵が、ハーンが英文で書いた「A Living God」を、やさしく日本語に翻訳・再構成して「燃ゆる稲むら」という題名で、この物語を応募します。
原文はそのまま採用となり、「稲むらの火」と題されて、昭和12(1937)から、終戦後の昭和22(1947)年まで、尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」の教科書に掲載されました。皇后陛下のお言葉の通りです。
しかしこの物語は、戦後すぐ、教科書から外されてしまいます。
占領軍であるGHQは、日本人の公徳心を養う内容を記載した教科書の記述に、ことごとく内容の削除と変更を求めた。このとき「稲むらの火」も教科書から削除の対象となりました。
日本は、昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で、約7年に及ぶ占領から解放されて、主権(独立)を回復したことになっていますが、あれから60年経って、いまだに教育の現場にこうした素晴らしい物語が、復活していません。
日本人の被占領化、とりわけ教育現場における被占領化は、いまだに続いているのかもしれません。
ちなみに、物語で紹介されている「津波の前に潮がひく」という事象については、一部の左翼系の学者などから「物語が説くような形で津波の襲来前に海水が退くとは必ずしも限らない」などと指摘されているそうです。
しかし、小規模の津波には、なるほどそれはないかもしれないけれど、甚大な被害を及ぼす大津波については、低い震度、長時間続く揺れ、沖に退く潮、が前触れであることは実際に多いわけだし、津波対策には、早期避難がとても大切であることを考えると、地震大国といわれる日本で、子供たちにこうした事柄を教える必要が「まったくない」といえるのか、疑問が残るところです。
さて、物語に登場する五兵衞じいさんですが、実名は「浜口儀兵衛」といいます。
実際には、当時おじいさんではなく、まだ30代の学習塾長だったようです。
家も町中にありました。
また、燃やしたのも稲穂のついた稲の束ではなく、脱穀を終えた藁の山(=稲むら)でした。
津波が発生したのが、12月24日で、真冬のことですから、当然といえば当然です。
浜口儀兵衛のすごいところは、津波災害に際して迅速な避難に貢献しただけでなく、被災後、再び被害が起こることを考えて、私財を投じ、村人を動かして、津波除けの大堤防築造した点にもあらわれます。
浜口儀兵衛は、大堤防構築のために、工事費を自分が私財を投じて負担すること、広村に対し、一定期間、特別に年貢の免除することを、紀州藩に願い出、許可を得ます。
そして四年近い歳月を費やして、長さ652M、高さ3M(平均海水面上約4.5M)、幅、底面17M、上面2.5M~3Mという立派な大堤防を築造しました。
彼が私財を投じて堤防を建造しようとした背景には、津波から村を守るというだけでなく、被災し、家や漁船を失って虚脱状態に陥った村人たちに職場提供するためだったと言われています。
村人たちに、自分たちの力で堤防を築くことによって、独立自主の精神を養い、勤勉努力の習慣を身につけさせた。
約4年間の工事は、延5万6736名におよぶ雇用と労働奉仕を生みだしています。
そしてこの大堤防は、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して、村からまったく被害を出さなかった。
堤防は、いまでも残っていて、毎年11月には、広村では、津波祭が行われているそうです。
祭では、土を手で土手に運こび、感恩碑の前で儀礼を行う、といものです。
また地元には、浜口儀兵衛が幕末に開いた「耐久塾」の名を受け継いで、広川町立耐久中学校、和歌山県立耐久高校が、あります。

明治36(1903)年のことです。
浜口担(になう)という青年が、ロンドンに招かれ、The Japan Society で講演を行いました。
その席上、ある若い英国人の婦人が立ち上がり、
「皆さんの中には、ラフカディオ・ハーンが書いた『生神様』と題する物語を読んだ方もおられるでしょう。
私は、それを読んで、津波から村人の命を救った浜口五兵衛という人の智恵と勇気に深い感銘を受けました。
あなたは浜口というラストネームですが、何かつながりがおありでしょうか。」
彼は、実は梧陵の息子だったのです。
思いがけず、遠いこの地で、父の名前をイギリス婦人の口から聞いた担は、激しい感動のため胸がふさがり、一言も発することができませんでした。
司会者が近づいて小声で問いただし、そしてうなづき、担に代わって言いました。
「今夜の講師、浜口担氏こそ、ハーンの物語の主人公、浜口五兵衛のご子息なのです。」
会場の人々は、拍手と歓声で応えました。
(出典:平川祐弘著『小泉八雲-西洋脱出の夢』)
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明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手

2011-04-06 23:36:19 | 日記
やはり、祖先には賢い人がいましたね。
一般的に先見性がある人は、多くの人から理解が得られず気違い扱いされます。
チリ津波に耐えた堤防より高くしたのだから、偉い!
今回の津波被害がなければ、無用の長物だと悪口が言い伝えられていたでしょう。
よくがんばった方です。特に防災費用は切りがないからね。
事業仕分けでケチることしか考えない民主党には想像できないことだろう。
特に、石原知事に再度スーパー防波堤計画を進められても、にべもなく採用しなかった、
アホ蓮舫に村長の爪の垢でも煎じて飲まして目覚めさせてやりたいですね。

太田名部漁港(手前)と、防潮堤が機能して被害を受けなかった太田名部地区(奥)
(2011年4月3日22時05分 読売新聞)
 津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代(ふだい)村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。
村内での死者数はゼロ(3日現在)。
計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、
当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。
太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は
高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。
 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。
ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。
堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、
足もとがぬれることもなかった。
 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。
普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。
既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。
「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。
岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、
船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。
深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。
まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。
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国を守る自衛隊の価値を上げるには?

2011-04-06 18:20:21 | 日記
4月3日に春日井支部で講演された大川隆法総裁への質問と答えを転載します。
現在の日本が世界からみて、いかに危ないか、おかしな考えにそまっているいるとか、
宗教をないがしろにする仏罰が現れているとか、今後島が外国に侵略されるとか。。。
すごいメーセージです。

最初は、現職自衛官と紙に書いた男性の方。
Q:現在、自衛官をはじめさまざまなボランティアの方が、
東北へ災害派遣活動に行っております。
新聞やテレビの報道もされてはおりますが、全体的な雰囲気はとても暗い
自粛ムードの空気が日本に漂っておるような雰囲気ですが、
我々の活動は、復興の第一歩であると信じておりますが、
新しい未来を創っているはずなのに、
なぜ暗い雰囲気の中にあって明るい未来を創っていくんだという声を発する
リーダーがいないことに憤りを感じるのですが、
そこで、外国からの侵略や災害の時に役立つだけでなく、
言い換えれば国民の悲しみを少なくする最小不幸をつくる組織から
イノベーションをかけて国民の生命、財産を守り、
明るく幸せな日本をつくる為、これを最大幸福としまして
そうしたことを担う、組織にした方が自衛隊としての価値も上がると思うのですが、
そのような、イノベーションにおける方向性や助言などをお教え下さい。

お答え:
一部では指摘されてはいることなんですが、
自衛隊が10万人20万人規模で震災の復旧、救助に入ってるんです。
けれども、報道は、ゼロではないですが、ほとんどされていない状況で、
活躍みたいな感じでの報道はほとんどなされない。
これは、マスコミの基本が左翼思想に染まっていることを意味していると思う。
自衛隊は、憲法的には、認められていない。
自衛隊法だけで出来た存在で合法かどうかはほんとは分からないけれども
とりあえず出来てしまったもんだというのが、ずうと続いている思うんですが、
これじゃ士気が上がらないわね。
現実に活動されてても、あんまり報道もされないし、
同じく米軍の方の「トモダチ作戦」もやって下さってても、
報道としては、すごく小さくて外国のテレビを見ないと実際にやってることが
よく分からないんで・・
とにかく軍がやることは、みな悪いことだと思ってるようなとこがございますね。
英雄的に取り上げると後で悪いことをするかもしれないとそういう考えが
あるんだと思うんだけども、宗教についても同じなんだと思う。
宗教を応援して大きくすると後で悪いことをした時に責任が出るみたいな全部、
ネガティブな発想で65年前の思考からまだ抜けられていないという
ところが大きいんだろうと思いますね。

災害復旧活動も自衛隊の仕事の一部として入れてあるし、
それが存在根拠の一部として説明されてることは、
あるけれども本来の任務はそうじゃないはずで、
国の防衛というのが基本任務です。
災害復旧は基本的にはゼネコンの仕事でございまして
失業対策にもなりますのでゼネコンさんにしっかり頑張ってもらわないといけない。
今は、緊急事態で仕方ありませんけどね、
あれだけの震災だったらうち(幸福の科学)も救助に入れないぐらい。
規模がちょっと大きすぎて神戸の時は、1箇所だったので、
全国から入れたんですけれども、
今回は幅が広すぎて、助けに行った人が、避難民になる可能性があるので、
今回ちょっと無理かなという感じがあってある程度、
目処がたってからじゃないと助けられないなというのはありましたですけれども。

考え方は気をつけなければいけない。
自衛隊が10万人規模で復旧に入ってる時に中国は、海軍増強の話を打ち出したりして、
やたら領海侵犯機も増えてきたりして嫌がらせをしているね。
自衛隊員がいないのを知ってて・・
竹島問題とか尖閣諸島問題とかちくちく教科書問題に絡めてやってきておりますので、
弱り目に祟り目だということですよね。
香港の新聞には、自衛隊の大部分が東日本にいるから、
今なら尖閣が取れるというコスト的にもリスク的にも今が一番安全だ
というようなことが堂々と載るようなとこもありますので、
そんなに善意に囲まれてる訳ではありませんよ。
例え、毛布とか義援金が来たとしてもそれは、民間の活動でございますから、
あるいは赤十字を通した活動で、他の所は他の考え方を、持っておりますので、
警戒を抜いてはなりませんね。
沖縄問題で米軍の方も相当、精神的にも痛んでると思いますけれども、
今回もフィリピンと合同演習のところをですね、
3000人にまで減らしてトモダチ作戦の方で手伝ってくれてますからね。
こういうのを正確にちゃんと分かるように報道しないといけませんね。
どうも偏向がかかりすぎております。
神戸の時の救援活動はテント張って、自衛隊ばりにやっていたが、
ほとんど無視されて残念でしたね。
やっぱり、考え方を変えさせないといけませんね。
そういう意味では、
一定の数の方々に正しいものの考え方を教えていかなければいけないと思う。
だから、政治の運動もなかなか大変な力がいって難しいんですけれども、
半分はやっぱり意識改革だと思います。
国のね。意識改革をやなければいけないし、
国難が来てるというのは、実際当たってきておりますので、
外交の国難も来れば震災の国難も来てますし、
全部ほんとは一緒で危機管理の問題なんですよね。
あとは、経済的に沈んでいく国難もあるでしょ。
経済的繁栄が失われていって、
普通の国になっていく2流国に落ちていく国難も来るはずですので、
これをなんとか支えようと思って、情報発信をしておるとこですね。
自衛隊も今のところ軍隊じゃないんでしょ?
今のところ、向こうが攻撃してからじゃないと、反撃できないんでしょ。
だからいま、ゼット戦闘機だったらロックオンされてスイッチ押されたら、
そんなもん撃った方が勝ちに決まってますからねえ、
撃たれてから反撃どうやってするか、もう落ちてますからその時には。
これははっきりいえば人権問題ですよ。先に撃たれたら、もう負けですからね。
戦えませんわねえ。
だから、次の国難としては、国防の問題が来ると思いますから、
おそらくやられますよ。

以前、衆院選、参院選と通して、東北方面行ってみて、非常に扱いが冷たい感じ、
地元の応援が非常に冷たいっていうか、入りにくいなあという感じを随分受けました。
岩手県にはとうとう入らなかった。
入れない、なんかバリヤーが張ってあるみたいで入れない、
小沢王国のバリヤーが張ってあるみたいで、入っても無駄みたいな感じで入れない。
しょうがないかなあと思って行かなかったことがありますけども
冷たいなあと思った所に今回、被害がすごく出ているし、
仙台市長選も地球物理学やった地震学専門の博士号を持っている人を
立候補させましたけれども
仙台で講演会やって1600、1700は、聴いてくれたと思うんですが、
入った票みたら2000ちょっとでほとんど一般の方は無視して、
衆院選から取材は、全部来てました。テレビも新聞も週刊誌も全部、入ってました。
テレビは、講演会、全部収録してて1回も放映していないんですから、
完全に完璧な情報コントロールされて、
講演、流したらどうなるか支持率上がるに決まってますから、流さない。
完璧な情報遮断で横一線で全部一緒なんです。
でも外国行ったら、ちゃんと流してくれるでしょ。

インドでもネパールでも流してくれますし、デリーでやった時は、
インドの与党も野党のトップちゃんと来てましたよ。
私の話を前の方で、ちゃんと聴いておりますので、インドで史上初、
日本に救援部隊が来てますけどね、
議会のトップが来てますよ。
だから、おかしいんですよ。
妙な不文律がいっぱい出来てて、国民に明確に説明されてないんですよ。
説明されてないところで、勝手に戒律がいっぱい出来ててこれについて、
マスコミとか明らかにしないといけないのに、
みんな、談合体質になってて明らかにしないんですね。
おかしいんじゃないかと言う勇気がないんですね。
だから、これを変えていかなければなりませんね。

次、国難は国防で来ると思いますよ。
これだけ、国が弱って自衛隊も吸い込まれたら、次、何百人かで島に上陸してみたら、
おもしろかろうね。
菅さんがどうするか外国の方は想像するだけでおもしろかろうね。
泡吹いて倒れるかもしれない。
復旧に5年くらいかかるから、ちょっと待ってくれというかもしれない。
国連に任せると言って逃げるかもしれませんけどね。
やっぱり考えておかなければいけない。
沖縄も相当、うちも申し上げたんですけれども、ああいう結果になりましたですが、
何らかの反作用が起きる可能性はあると思いますよ。
島嶼部(とうしょうぶ)、200位ありますが全然守れてないので、
あっさりやられる可能性がある。
(リバティWEBで、より具体的な数字250ぐらいになってました。)
幸福実現党はハンディ戦になってるんですよ。
宗教団体なんだから、自分たちで宣伝PR活動をすればいんであって、
メディアはそれを手伝う必要は一切ないというようなハンディをつけられてるんですよ。
同じように扱われたらもっともっと票は取れるんです。
メディアが扱わない為にそれが入れるなと言ってるような暗黙の指示みたいになって
耳を閉じちゃうんですよね。
国防というのは、重要なことなんで、国を守る為に戦う人たちが英雄として
扱われるというのは、どこの国でも当たり前のことで、
罪人のように扱われるのは、たまったものじゃございませんしね。
自衛隊では、使いにくいので海上保安庁を使ってますが、
正当防衛以外では出来ないことになってますので、
戦闘行為は出来ませんのでね。だから、非常に気の毒な状態。
自分たちで縛っておいて自分たちで苦しんでいるような状態。
だから、何らかの国難の形で勉強させられることになると思います。
思想的には、言論で拡げていくしかない。
今の力を持ってる60世代が、ちょうど安保世代の人たちで政界にも財界にもいるので、
この世代がだいたい終わらないと消えないかもしれませんね。
あと10年すると世代交代は起きると思うので、
日本のトップ層が次の世代に入りますので、変わるとは思いますが。

あと言論の方でメジャー化しなければならない。
安部元総理がうちの名簿を見て、自民党なら100人以上は、当選しますね。
と言っていたので、候補者が悪い訳ではありません。
あとは、受け入れるだけの問題。
あと宗教というのが、大学でいう文学部の宗教学科みたいな感じの
日本の文化の一部みたいになってるんだと思う。
宗教というのは、全体に関わる、人間生活全体に関わるメジャーなものなんだ
という理解がないんだと思うね。
これをもうちょっと理解させなければいけないなと思いますね。
悔しかろう。でもまあ同じ思いをしている人は他にもいると思う。
マスコミのことも悪く言ったけども、現場に来てた人たちは、
みんなほとんど理解してて賛同者になっていたんです。
上が全部駄目なんですよ。時代はいずれ変わる、
もうすぐ変わると思いますので。まあ頑張りたいと思っております。
残念だろうけども、もうしばし耐えてください。
国論を変えなきゃいけないので、静かな革命だと思います。
コメント
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