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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

テレパスアート余話

2013-08-02 | シリーズ「テレパスアート物語」
ずっと昔、まだ名称も「ヒーリングアート」と呼んでいて、彩色もしたり、しなかったり、、という頃の話です。


ある時、ある知人から頼まれてその人の亡くなったご両親の絵を描かせていただいたことがある。
どちらが先に亡くなられたのかは忘れたがあまり日月をおかずに続いて亡くなられ、後に亡くなられたのがお父さんだったか、お母さんの方だったか忘れたが、まだ四十九日も来ていなかった時だと思う。

私は特に仏教徒というわけでも無いのだが、描くには少し早過ぎるのでは?という気がしたのだが、知人は逆に早くその様子を知りたいというか、両親が「成仏しているかどうか?」を知りたかったのかもしれない。
いずれにしても日頃お世話になっている知人なので、絵はご冥福を祈って確かプレゼントさせていただいたと思う。


ところが、かなり後になってその方の妹さんにお会いする機会があり、その絵のことで「ショックを受けた!」とのことで、面と向かって抗議されてしまった。
なぜなら自動的に描いたその絵にはご両親が「喧嘩をして争っている場面」が出て来ていたからである。

「死んでまで喧嘩をするなんて!?」と彼女はとても私に立腹されたのだが、私としてはどう言っていいのかわからず、黙って話を聴くしかなかった。
(心の中では「一度もお会いしたことの無い何の利害関係も無い人たちを、わざわざ悪く?描く必要も理由も無く、私も出来れば美しい蓮の花の上に坐っておられるご両親を描きたかったのですが、、」と言いたかったのだが)


亡くなられたそのご両親は(彼女の話によれば)生前も仲があまり良く無くて、しょっしゅう喧嘩をしていたそうで、だからこそせめて亡くなった後は「仲良くしている両親の姿が見たかった!!」という、彼女の気持ちや切ない願いも当然だったかもしれない。

今ならもう少し上手に丁寧に説明したりすることも出来たと思うのだが、当時は死後の世界のことに対しての情報や本も少なく、私も勉強不足だったので、その彼女とは結局気まずいまま別れてしまい、以後知人とも交流が途絶えてしまったのは残念だ。


もちろん、それ以外にも亡くなった方々の絵を描いたことはたくさんあるが、かなり年月が経ってからだと、けっこう皆さんそれぞれの世界で?元気に暮らしておられる絵になったり、またもうすでに転生しておられる絵になったり、さらには驚くべきことに、過去の世界に生まれ替わっている!?という(時間軸の違う)絵もあったりした。


そういったことも、例えば私が科学に強く、もっと知識があれば、「量子論」だとか、最先端科学の情報をもって説明することも出来るのかもしれないが、今でも私はそういう方面が苦手なので、皆さんにもうまく伝えきれていない面もあることと思う。

そういうことで、「なぜこの絵がこういうふうな絵になっているのですか?」と聞かれても、直観的にはわかっていても、惜しいことに「論理的」に説明することが出来ず、テレパスアートのお客様にもご迷惑をおかけしてしまったり、怒らせてしまったり、またご理解いただけずに返金させていただくこともある。

お客様としても、別に返金を望んでおられるわけでは決して無く、ほんとうに「納得のいく説明を聴きたい」と思っておられるだけなのに、私はうまく伝えられずに納得していただけないことを大変申し訳無く感じてしまうのである。

そういうわけで、せっかく長時間かけて描いても代金すらいただけないこともあり、(決してお客様が悪いわけでは無いのに)時々「一体自分は何やってんだろ!?」とつい情けなく思うこともある。


それでも、何年も経ってから、その絵の意味がやっとわかりましたとか、「納得しました!」とご連絡いただくこともあり、そんな時はとても嬉しくなる。

だから、あの喧嘩していたご夫婦(故人)も、今ではもう少し進化した別世界?に生きておられて、もしかしたら夫婦別々の次元におられるかもしれないが、また描いてみたら違った絵になっているかもしれないとふと思う。


話が長くなってしまったが、『言霊はこうして実現する』(文芸社)を読んでいたら、(P130~137に)こんな話が載っていた。
(以下抜粋引用させていただく)


ーーーーー量子論によるとミクロの物質の未来はただ一つには決まっていないのである。
(中略)
つまり電子の未来はただ一つではなく、複数あることになる。
そして、実際に電子が一秒後にどこで見つかるかは、一秒後になってみないと分からないのである。
つまり、電子の未来はサイコロを振って出た目に従うように、行き当たりばったりに決まるのだ。
(中略)

たとえば、宇宙の果てほどに離れた粒子どうしがエネルギーの交換なしに、宇宙で最も早いはずの光速をも超えて影響を与え合うことも明らかになっている。
(中略)

さて、量子論における量子の振る舞いで最も奇妙に見えるのが、量子が異なるいくつかの状態の重ね合わせで表現されることだ。
たとえば、ある一つの電子の位置について考えるとき、「A地点にいる状態」や「B地点にいる状態」、「D地点にいる状態」などが一つの電子の中で重なっているため、どこか一ケ所だけにいるとはいえない。

しかし、その電子を観測したときには、波の収束という現象が起きて一つの状態に変化するのだという。

このように量子の振る舞いを解釈することは「コペンハーゲン解釈」と呼ばれ、量子論の基本的な考え方の一つとなっている。
(中略)

波の収縮はコペンハーゲン解釈における一つの仮定であるが、これを放棄して、なおかつマクロの世界に現れる観測結果を説明しょうとしたものが、「多世界解釈」という考え方である。
(中略)

すなわち、「電子がA点にいる世界」「電子がB点にいる世界」「電子がD点にいる世界」というように、複数の世界に分岐するということである。そしてそれらの世界は重なって同時並行的に存在していると考える。

その場合、私たち観測者自身も、それぞれの世界に枝分かれして存在していることになる。
だが、枝分かれしたそれぞれの観測者は、自分がどの世界に来ているのかは、電子を観測するまで断定できない。
実際に電子を観測して初めて「私は『電子がA地点にいる世界』にいるんだ」などと分かるのだ。
(中略)

そして、私たちの知らないところに、別の宇宙がいくつも存在し、そこには「もう一人の私たち」が暮らしているというのである。


ーーーーーーーーーーーーーー
(以上抜粋引用終わり)


そういうわけで、かなり我田引水になってしまうが、先述したご夫妻(故人)の絵も、もしかしたら私が描いたからそのような絵になったのかもしれず、また別の人が描けば別の絵になる可能性もあるというか、「別世界」にいる彼らが登場したかもしれない。
(過去、未来という直線的な時間軸では無く、今ここに並行的に重なって存在していて、例えば波のように広がったままのその中の一滴の雫のように、たまたまその泡を私が掬いあげて描いたに過ぎないのかもしれない。まさに泡のように、「幻し」のように!?)


なので、このような絵に確かな事実の証明や実態の証拠を求めるよりも、「そこから何に気付くか」ということの方が大事で、例えば「何かの物語を読むような感じ」で静かに眺めていただけたらと思う。

左脳で論理的に納得のいくようにわかろうとするよりも、右脳で直観的に掴むとか、あるいは情動的に感情が動くとか、そういった一つの体験として(映画を観た時のように)味わっていただければ幸いである。


量子論やパラレルワールドにとても興味はあるものの、理系に弱い私には難し過ぎて未だに頭は???状態なのだが、それでもだんだんにテレパスアートの描こうとしていることや、描かれた内容が、抜粋引用したような事柄と何となく繋がっているというか、同じことを表現しているのかも?しれないなと感じることも多い。

いつかそういったことも(誰にもわかるように)解明されるのが楽しみだ。



ご愛読に感謝です。


下記の絵は『サルー』です。





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