最近よく飛行機に擬態した?UFO!?を見かける。
大体出て来そうな時は何となくわかる。
それはとても空が青くて空気が澄んでいて気持ちのいい波動に満ちているような時。
あるいは何か重要な出来事があったり、何らかの必要性を感じさせられるような時。
また、例えば個人的に落ち込んでいて元気が欲しくてふと空を見上げた時など。
そして、「今こそ決断を迫られている」というような「緊急事態」の時!?
私が今最も気になっているのは、中国や韓国やいろんな「国と国」同士の争いや小競り合いから、いつのまにか戦争になってしまうこと。
かつて核も含む化学兵器の多用によって沈んだと言われている幻の?大陸があったように、今も同じような懸念を日々感じる。
昨年、マヤ暦終了「2012年12月21日に関するメッセージ」を含めた絵を描かせていただく機会があった時に、「アトランティス」の浮上というイメージが浮かんだのだが、、、。
その意味は、今まさに人類がそのような分裂と衝突と再沈没の「危機」に瀕しているということかもしれない。
そしてそれを回避するキーワードはとてもシンプルなこと。
私たち個人個人、一人ひとりが、「闘いよりも『愛』を選ぶ」ということ。
最近描かせていただいたある子どもさんの絵で、「愛というのは手をつなぐこと」という、とてもわかりやすいが大人には実行が難しいテーマがあった。
例えば1995年に起きたあの阪神淡路大震災後にどれだけ多くの別れや「震災別居」や「離婚」があったことか!?
もちろん私のような「再婚組」もあったけれど、それも続いているのは果たしてどれだけあるだろうか。
あるいはこれからまた別れが待っているかもしれない。
そのような中、私の身内の話で恐縮だが、震災以来ずっと別居を続けていた夫婦が、何と18年目にしてようやくまた一緒に暮らすべく現在準備中なのである。
それというのも、復興住宅の期限(20年)まであと少しになり、次に住むところを見つけるか、もし同じところに住み続けるとしても家賃のかなりの値上げがあるので、どうしてもそれぞれが何らかの「決断」をする必要があるからだ。
かなり高齢になってからの再同居が果たしてうまくいくものなのかどうか?私は少々心配している面もあるが、ただ、本人がいろいろ逡巡したあげく、そういう選択をしたことをとても尊敬している。
それはとても勇気の要ることだからだ。
たとえもう一度一緒になっても、うまくいくとは限らないかもしれない、、、
けれど、もしそのまま人生を終わるとしたら、それもまた悔いが残るとすれば、「やらないよりはやってみての後悔の方がまだまし」というか、少なくとも「チャレンジ」した自分自身に、「やるだけのことはやった」「出来るだけの努力はした」と、「誇り」を持つことが出来るかもしれない。
伊豆に住んでいた頃、下田において、幕末維新の頃の「子孫たち」が一堂に会して語り合うという素晴らしい講演会があったが、その折り、勝海舟の子孫の女性が、(アメリカであったある平和のための会の質疑応答で)一人の高校生に、「平和が生まれるのはどんな時?」そして「平和が壊れるのはどんな時?」という質問を受けて、彼女は即こう答えたそうだ。
「手をつなぐ時に平和は生まれる」「つないだ手を離す時に平和は壊れる」と。
そして、またオノ・ヨーコさんが言われた言葉も思い出す。
「利害関係」のあるもの同士は強くて、お互いの利益(金もうけ)のためにはどんな者とでも平気で手を繋ぎ、その結束は固い。
逆に愛のある繊細な仲間同士は、その「やさしさ」ゆえに、細かいところが気になり、ささいなところまでも気にし過ぎるがゆえに分裂しやすく、内部批判をしてしまいがち。
だからこそ、出来るだけそのようなお互いへの批判やこだわりは超えて、大きくゆるやかに繋がる必要があるのだ、と。
(これらは私の「解釈」も入ったフィルターのかかったアバウトな説明なので、実際のその厳密な言葉については著作やHPをご覧ください)
話があちこち飛んでしまったが、誰と手を結ぶのかということにおいて、その動機が「お金」では無く、「愛」であるなら、問題は何も起こらないだろう。多少の意見の違いはあっても、「愛が最も強い」からだ。
そしてそのような場合は、(後から「間違った組み合わせ」であったと気付いた)その相手と離れる時でも、お互いに傷付けあったり、闘ったりすること無く、十分に話し合って理解し合ってから、ちょうどよいタイミングで、自然に分かれる(別れる)ことも出来るに違いない。
話は長くなるが、私たちが見ている星と星の間に「線」は無く、「星座」というのも、勝手に?ある星と星を結びつけて、そのようなひとつの「星座」として見ることで、ある物語を生み出しているのかもしれない。
けれどもそのような「星座」として見ることで、さまざまなことがわかるという場合もあり、時には大袈裟に言うなら「人類の物語」として読めるということもあるかもしれない。
(それが先日ブログでご紹介した河合隼雄さんの言葉、「コンステレーションを読み取る」という意味でもあるのだ)
実は、そのような「深い隠された『コンステレーション』を読み取ること」において、「たまわーるど」のたまさんほど、その読み解き方において、彼女の長年の熟練と類い稀なるその「サイキック能力」でもって、「ぴったしの時期にぴったしの解釈の出来る人」は他にいないのではないかと、私は心から信頼している。
こんなふうに書くと何だかお互いに「内輪褒め」になってしまい、照れて少々気恥ずかしいのだが、それを上回るお互いの「共通認識」があって、それこそ「今でしょ!!」という感覚で、私たち一人一人の、それぞれの「自覚」や「気付き」が今程問われている時は無いと思うのだ。
そしてもしも今その判断を誤るならば、この先何年か後になって、「あぁ、あの時が『分かれ目』だったのだなぁ」と気付いても、もう遅過ぎるかもしれないのだから。
戦争というのはきっといつの時代も「正義のもとに始まる」ものだと思う。
そして必ずその陰には「武器商人たち」がいて、彼らは結局敵対する同士のどちらにも武器を売ることで儲け、自分たちは傷付くことも無く肥え太り、結果として国土は荒れ、自然は破壊され、どれだけの子どもたちや女性たち、ハンディキャップを持った人たち、動物たちに到るまでもが犠牲になることだろうか、、。
戦争が終わってみれば、得をしたのは誰かがはっきりとわかることだろう、、。
もう今の時代は「国」という概念では無く、個人個人、また一人ひとりの顔が見える必要があるし、それと共に、「地球人」としての自覚、「人類」としての自覚を持って生きていくしか、生き延びる道は無いという気がする。
それにも関わらず、だんだんに息苦しい「空気」(ナショナリズム)が蔓延してきつつあり、ものを言いにくい嫌な時代になっていきそうで、一人ひとりが注意深く、ほんとうに気を付けていなければ、知らないうちにいろんなものごとが進行し、気が付くと「戦争が始まっていた!」ということの無いようにと、何よりも心から願っている。
また、また話は飛躍するが、テレパスアートにはなぜかその時々のシリーズがあり、前後に同じようなテーマを持った人たちの絵を続いて描くことも多い。
例えばある時は「タイタニック」に関連した人たち、ある時には「フランス革命」や貴族に関係した人たち、そしてある時は「ヒロシマ」や「原爆」に関した人たち、あるいはまた(過去生において)「ナチス」関連の人たちを描いたこともある。
それらは「犠牲者」「被害者」の場合もあり、逆に自分が「加害者」や「傍観者」であった場合も含めて、今の時代に転生して、何らかの「修復」(癒しも含めて)や「つぐない」「あがない」をしていると感じられる。
そういったことが果たしてどこまで事実なのか!?科学的な証明などは出来ないが、それよりももっと大事なことは、だからこそ「(今)自分が(この場で)どういう生き方をするのか」ということではないだろうか。
ただ、あまりにも目の前の現実だけを見ているとほんとうに絶望的な気分にさせられてしまうことも多いが、今日たまたま「花まる先生」の授業をネットで拝見したら、「何でもすぐに『出来ない』とか、『苦手』とか、『嫌い』とか、言ってしまわない方がいい」という話をされていて、とても参考になった。
私もすぐにそういうふうに言うことで、苦手な人やものごとを避けてしまう傾向が強いが、ここでしっかり踏ん張らなければ、、と思い、身の程知らずにも、「言ったり、書いたりが自由に出来ること」のありがたさを噛み締め、批判を怖れずに「言いたいことが自由に言える空気」というものを拡げていかなければ、、と思った次第。
戦争になるのが何が一番困るかと言えば、私にとってはそれは何よりも「自由」が制限されること。
好きな話が出来ないこと。
そういうわけで、今はどんな荒唐無稽の話に思われてもいいので(例え笑われようとも)、ぜひとも「未確認飛行物体」の話を紹介しておこうと思う。
冒頭に書いた飛行機に擬態した?「UFO」の話については、「遠い記憶・前世からの約束」というサイトの「ユニバース(宇宙)」というカテゴリーの中で、「これな~に?」や「未確認飛行体」としてたくさん紹介されているので、ぜひご覧いただけたら嬉しい。
特に動画や、順を追って撮影された美しい写真やわかりやすい図など、ほんとうに見応えがある。
このような「未確認飛行体」(UFO!?)を私はほぼ毎日のように見ている。
それはこの高橋さんという方のサイトを船井幸雄さんのHPで知るようになるずっと以前から続いていたことなので、私にとっては彼がいかに正しく観察しているかということがよくわかる。
実際に全くその通りだからだ。
そして、また私はそのサイトでさらに詳しく「見分け方」のポイントや、その見どころ?などを知ることが出来たので、これまでよりももっとよく観察したり、さらに余裕を持って楽しむことも出来るようになった。
こころの中で呼びかけて「つながる」ことも可能な気がする。
もし誰と手をつなぎたいかと尋ねられれば、今の私はこのような「宇宙エネルギー体」!?とつながりたいと思う。
彼らが果たして「どんな目的で何処から来て何処へ行くのか?」についてはわからないけれど、少なくとも人類にとって「平和」な明るい希望をもたらすものであって欲しいと、心から願っている。
広島では、原爆の落とされた(原爆を搭載したエノラ・ゲイが目標とした)「相生橋」の上に立って、「その時刻に共に「空」を見上げよう」という、ある芸術家の「呼びかけ」などがあるそうだが、私はそれはどこか少し違うのでは?という気がする。
そのような爆撃機が到来した時に、人々はその飛行機を見上げている余裕などは全く無く、ただ必死になって防空壕や隠れる場所を探して逃げ惑っていたのでは、、と私は想像する。
だからもし、そのパフォーマンス!?を「平和」のために、また人々に「原爆」に関心を持ってもらうために呼びかけるのだとしたら、
私はその時、冒頭に記したような、「UFO」(未確認飛行体)をこそ、ぜひ見附け出して欲しいと思う。
そしたらそれを見つけた人々の意識が瞬間に切り換わる!?のではないかと、、。
そんなことはあり得ないし、「信じられない」という人ほど、もしよろしければぜひ自ら試してみて欲しい ☆
そして「常識」や目の前の「現実」だけに捉えられた意識が、もしも少しは解放されるとしたら幸いである。
下記の絵は『コール』(星の呼びかけ)です。
無断転載およびコピーはご遠慮ください。
大体出て来そうな時は何となくわかる。
それはとても空が青くて空気が澄んでいて気持ちのいい波動に満ちているような時。
あるいは何か重要な出来事があったり、何らかの必要性を感じさせられるような時。
また、例えば個人的に落ち込んでいて元気が欲しくてふと空を見上げた時など。
そして、「今こそ決断を迫られている」というような「緊急事態」の時!?
私が今最も気になっているのは、中国や韓国やいろんな「国と国」同士の争いや小競り合いから、いつのまにか戦争になってしまうこと。
かつて核も含む化学兵器の多用によって沈んだと言われている幻の?大陸があったように、今も同じような懸念を日々感じる。
昨年、マヤ暦終了「2012年12月21日に関するメッセージ」を含めた絵を描かせていただく機会があった時に、「アトランティス」の浮上というイメージが浮かんだのだが、、、。
その意味は、今まさに人類がそのような分裂と衝突と再沈没の「危機」に瀕しているということかもしれない。
そしてそれを回避するキーワードはとてもシンプルなこと。
私たち個人個人、一人ひとりが、「闘いよりも『愛』を選ぶ」ということ。
最近描かせていただいたある子どもさんの絵で、「愛というのは手をつなぐこと」という、とてもわかりやすいが大人には実行が難しいテーマがあった。
例えば1995年に起きたあの阪神淡路大震災後にどれだけ多くの別れや「震災別居」や「離婚」があったことか!?
もちろん私のような「再婚組」もあったけれど、それも続いているのは果たしてどれだけあるだろうか。
あるいはこれからまた別れが待っているかもしれない。
そのような中、私の身内の話で恐縮だが、震災以来ずっと別居を続けていた夫婦が、何と18年目にしてようやくまた一緒に暮らすべく現在準備中なのである。
それというのも、復興住宅の期限(20年)まであと少しになり、次に住むところを見つけるか、もし同じところに住み続けるとしても家賃のかなりの値上げがあるので、どうしてもそれぞれが何らかの「決断」をする必要があるからだ。
かなり高齢になってからの再同居が果たしてうまくいくものなのかどうか?私は少々心配している面もあるが、ただ、本人がいろいろ逡巡したあげく、そういう選択をしたことをとても尊敬している。
それはとても勇気の要ることだからだ。
たとえもう一度一緒になっても、うまくいくとは限らないかもしれない、、、
けれど、もしそのまま人生を終わるとしたら、それもまた悔いが残るとすれば、「やらないよりはやってみての後悔の方がまだまし」というか、少なくとも「チャレンジ」した自分自身に、「やるだけのことはやった」「出来るだけの努力はした」と、「誇り」を持つことが出来るかもしれない。
伊豆に住んでいた頃、下田において、幕末維新の頃の「子孫たち」が一堂に会して語り合うという素晴らしい講演会があったが、その折り、勝海舟の子孫の女性が、(アメリカであったある平和のための会の質疑応答で)一人の高校生に、「平和が生まれるのはどんな時?」そして「平和が壊れるのはどんな時?」という質問を受けて、彼女は即こう答えたそうだ。
「手をつなぐ時に平和は生まれる」「つないだ手を離す時に平和は壊れる」と。
そして、またオノ・ヨーコさんが言われた言葉も思い出す。
「利害関係」のあるもの同士は強くて、お互いの利益(金もうけ)のためにはどんな者とでも平気で手を繋ぎ、その結束は固い。
逆に愛のある繊細な仲間同士は、その「やさしさ」ゆえに、細かいところが気になり、ささいなところまでも気にし過ぎるがゆえに分裂しやすく、内部批判をしてしまいがち。
だからこそ、出来るだけそのようなお互いへの批判やこだわりは超えて、大きくゆるやかに繋がる必要があるのだ、と。
(これらは私の「解釈」も入ったフィルターのかかったアバウトな説明なので、実際のその厳密な言葉については著作やHPをご覧ください)
話があちこち飛んでしまったが、誰と手を結ぶのかということにおいて、その動機が「お金」では無く、「愛」であるなら、問題は何も起こらないだろう。多少の意見の違いはあっても、「愛が最も強い」からだ。
そしてそのような場合は、(後から「間違った組み合わせ」であったと気付いた)その相手と離れる時でも、お互いに傷付けあったり、闘ったりすること無く、十分に話し合って理解し合ってから、ちょうどよいタイミングで、自然に分かれる(別れる)ことも出来るに違いない。
話は長くなるが、私たちが見ている星と星の間に「線」は無く、「星座」というのも、勝手に?ある星と星を結びつけて、そのようなひとつの「星座」として見ることで、ある物語を生み出しているのかもしれない。
けれどもそのような「星座」として見ることで、さまざまなことがわかるという場合もあり、時には大袈裟に言うなら「人類の物語」として読めるということもあるかもしれない。
(それが先日ブログでご紹介した河合隼雄さんの言葉、「コンステレーションを読み取る」という意味でもあるのだ)
実は、そのような「深い隠された『コンステレーション』を読み取ること」において、「たまわーるど」のたまさんほど、その読み解き方において、彼女の長年の熟練と類い稀なるその「サイキック能力」でもって、「ぴったしの時期にぴったしの解釈の出来る人」は他にいないのではないかと、私は心から信頼している。
こんなふうに書くと何だかお互いに「内輪褒め」になってしまい、照れて少々気恥ずかしいのだが、それを上回るお互いの「共通認識」があって、それこそ「今でしょ!!」という感覚で、私たち一人一人の、それぞれの「自覚」や「気付き」が今程問われている時は無いと思うのだ。
そしてもしも今その判断を誤るならば、この先何年か後になって、「あぁ、あの時が『分かれ目』だったのだなぁ」と気付いても、もう遅過ぎるかもしれないのだから。
戦争というのはきっといつの時代も「正義のもとに始まる」ものだと思う。
そして必ずその陰には「武器商人たち」がいて、彼らは結局敵対する同士のどちらにも武器を売ることで儲け、自分たちは傷付くことも無く肥え太り、結果として国土は荒れ、自然は破壊され、どれだけの子どもたちや女性たち、ハンディキャップを持った人たち、動物たちに到るまでもが犠牲になることだろうか、、。
戦争が終わってみれば、得をしたのは誰かがはっきりとわかることだろう、、。
もう今の時代は「国」という概念では無く、個人個人、また一人ひとりの顔が見える必要があるし、それと共に、「地球人」としての自覚、「人類」としての自覚を持って生きていくしか、生き延びる道は無いという気がする。
それにも関わらず、だんだんに息苦しい「空気」(ナショナリズム)が蔓延してきつつあり、ものを言いにくい嫌な時代になっていきそうで、一人ひとりが注意深く、ほんとうに気を付けていなければ、知らないうちにいろんなものごとが進行し、気が付くと「戦争が始まっていた!」ということの無いようにと、何よりも心から願っている。
また、また話は飛躍するが、テレパスアートにはなぜかその時々のシリーズがあり、前後に同じようなテーマを持った人たちの絵を続いて描くことも多い。
例えばある時は「タイタニック」に関連した人たち、ある時には「フランス革命」や貴族に関係した人たち、そしてある時は「ヒロシマ」や「原爆」に関した人たち、あるいはまた(過去生において)「ナチス」関連の人たちを描いたこともある。
それらは「犠牲者」「被害者」の場合もあり、逆に自分が「加害者」や「傍観者」であった場合も含めて、今の時代に転生して、何らかの「修復」(癒しも含めて)や「つぐない」「あがない」をしていると感じられる。
そういったことが果たしてどこまで事実なのか!?科学的な証明などは出来ないが、それよりももっと大事なことは、だからこそ「(今)自分が(この場で)どういう生き方をするのか」ということではないだろうか。
ただ、あまりにも目の前の現実だけを見ているとほんとうに絶望的な気分にさせられてしまうことも多いが、今日たまたま「花まる先生」の授業をネットで拝見したら、「何でもすぐに『出来ない』とか、『苦手』とか、『嫌い』とか、言ってしまわない方がいい」という話をされていて、とても参考になった。
私もすぐにそういうふうに言うことで、苦手な人やものごとを避けてしまう傾向が強いが、ここでしっかり踏ん張らなければ、、と思い、身の程知らずにも、「言ったり、書いたりが自由に出来ること」のありがたさを噛み締め、批判を怖れずに「言いたいことが自由に言える空気」というものを拡げていかなければ、、と思った次第。
戦争になるのが何が一番困るかと言えば、私にとってはそれは何よりも「自由」が制限されること。
好きな話が出来ないこと。
そういうわけで、今はどんな荒唐無稽の話に思われてもいいので(例え笑われようとも)、ぜひとも「未確認飛行物体」の話を紹介しておこうと思う。
冒頭に書いた飛行機に擬態した?「UFO」の話については、「遠い記憶・前世からの約束」というサイトの「ユニバース(宇宙)」というカテゴリーの中で、「これな~に?」や「未確認飛行体」としてたくさん紹介されているので、ぜひご覧いただけたら嬉しい。
特に動画や、順を追って撮影された美しい写真やわかりやすい図など、ほんとうに見応えがある。
このような「未確認飛行体」(UFO!?)を私はほぼ毎日のように見ている。
それはこの高橋さんという方のサイトを船井幸雄さんのHPで知るようになるずっと以前から続いていたことなので、私にとっては彼がいかに正しく観察しているかということがよくわかる。
実際に全くその通りだからだ。
そして、また私はそのサイトでさらに詳しく「見分け方」のポイントや、その見どころ?などを知ることが出来たので、これまでよりももっとよく観察したり、さらに余裕を持って楽しむことも出来るようになった。
こころの中で呼びかけて「つながる」ことも可能な気がする。
もし誰と手をつなぎたいかと尋ねられれば、今の私はこのような「宇宙エネルギー体」!?とつながりたいと思う。
彼らが果たして「どんな目的で何処から来て何処へ行くのか?」についてはわからないけれど、少なくとも人類にとって「平和」な明るい希望をもたらすものであって欲しいと、心から願っている。
広島では、原爆の落とされた(原爆を搭載したエノラ・ゲイが目標とした)「相生橋」の上に立って、「その時刻に共に「空」を見上げよう」という、ある芸術家の「呼びかけ」などがあるそうだが、私はそれはどこか少し違うのでは?という気がする。
そのような爆撃機が到来した時に、人々はその飛行機を見上げている余裕などは全く無く、ただ必死になって防空壕や隠れる場所を探して逃げ惑っていたのでは、、と私は想像する。
だからもし、そのパフォーマンス!?を「平和」のために、また人々に「原爆」に関心を持ってもらうために呼びかけるのだとしたら、
私はその時、冒頭に記したような、「UFO」(未確認飛行体)をこそ、ぜひ見附け出して欲しいと思う。
そしたらそれを見つけた人々の意識が瞬間に切り換わる!?のではないかと、、。
そんなことはあり得ないし、「信じられない」という人ほど、もしよろしければぜひ自ら試してみて欲しい ☆
そして「常識」や目の前の「現実」だけに捉えられた意識が、もしも少しは解放されるとしたら幸いである。
下記の絵は『コール』(星の呼びかけ)です。
無断転載およびコピーはご遠慮ください。