「灘のけんか祭り」というのは、姫路市白浜町にある松原八幡宮の秋祭り(例年10月14日ー15日)のこと。
2013年の今年もいよいよ明日(10月15日)が本番クライマックス!だ。
大河ドラマになる予定の「黒田官兵衛」とも所縁のあるところなので、この秋は例年以上にきっと凄い人出に違いない。
その八幡さん(と、子供の頃は呼んでいた)のすぐ横は小学校になっていて、ユーチューブで祭りの動画を見ると一緒に写り込んでいることも多くて、懐かしい。
今は鉄筋コンクリートの「白浜」小学校だが、私が通っていた頃は木造で、名称が「粟生」小学校だった。
粟(あわ)が生まれると書いて、確か「ぞくせい」と呼んでいたと思う。
その頃は学校の校庭のすぐ前は松林になっていて、そのすぐ先はもう海だったから、その砂浜と校庭が地続きになっていて、そこで飯ごう炊飯やキャンプのまねごとも出来たし、運動場の草抜きなどもした覚えがあるので、その頃の校庭は全部草地になっていた気がする。
話が横道に逸れたが、ともかく、この八幡さんで行われる「けんか祭り」というのが、もう村挙げての一大行事で、正月よりももっとずっとワクワクしたものだった。
今でも仕事で海外にいる人でさえも、この祭りの時には戻って来るというぐらい、地元の人間にとっては、これがもう「生き甲斐」にすらなっているのだ。
幼い頃は朝起きると、(この祭りのときだけは特別に)まず「朝風呂」に入り、上から下まで、肌着はもちろん、足袋まで、何から何まで新調で「着物」に着替えるので、子供心にも気持ちがあらたまったものだった。
(少し大きくなって着物では無く洋服を着るようになっても、やはりこの習慣は続いていた気がする)
そういうわけで、(私もここで生まれ育った者の一人として)大体学校は13日から3日間は休みになっていたが、そのずっと前から村のどこを歩いていても、家の中に居ても、学校でも、あちこちから聞こえてくる太鼓の音に、身も心もウキウキしたものだ。
いや、もう、とてもウキウキという言葉では軽過ぎて、うまく言い表せないぐらい、何と言うか、血が騒ぐというか、血湧き肉踊るというか、小さな女の子だった私でさえももう居ても立っても居られないぐらい、気持ちが弾んだものである。
私はもう地元を離れてからの年月の方がずっと長いぐらいの年齢になってしまったが、村を離れるまでは、毎年必ず見ていたこの秋祭り。
亡父の祥月命日(16日)が近づき、なぜか突然にふるさとの祭りのことをブログに書きたくなってしまった。
祭りと言えばこの祭り以外に無いというか、他の祭りは「そんなの祭りじゃないよ」と思えてしまうぐらいに、この祭りだけは自慢出来る。
こんなふうに書いても、とてもこの熱気と迫力は伝わらないと思うので、ぜひとも一度現場を見て欲しい。
その前にちょっと今夜、このブログを読んだ人は「灘のけんか祭り」で検索して、ユーチューブで動画を見てみられると、いかに凄いかが少しは想像が付くかも?
兵庫県と姫路市から「重要無形民俗文化財」に指定されているそうだが、さもありなんと思う。
旧七ヶ村の屋台(御輿)の中で、やっぱり一番好きなのは自分の村(宇佐崎)の屋台で、黄色い「しで」や、屋台のてっぺんの飾りぎぼうし、法被の模様、ありとあらゆるものが他所よりもいいと思えるから不思議だ。
屋台の「練り合わせ」でも自分のところが一番うまかった!と思いたいが、それは「ひいき」であって、実際はみんなの目が見て知っているので、祭りが終わると、村中で、「今年はどこそこがよかった」とか、うわさや評判が駆け巡り、その話をしたり、聞いたりするのも、子供心にもとても楽しいものだった。
(その頃は、屋台や御輿と呼ぶよりも、「ヤッサ」と呼んでいたと覚えているのだが、今ではそれもおぼろな記憶になってしまった)
それぞれの村には屋台を仕舞う屋台庫(蔵)があり、そこに屋台が仕舞われる時や、また出される時なども、様子を見に行ったり、「寄り合い」と言えば祭りに関する話のことで、もう、「一年中が祭りで明け暮れる」といっても決して過言では無いぐらい、もうこの村に生まれ育った者は誰でも、そして男の子などは特に、「屋台を担げるようになる」のが何よりの楽しみで、それが大人になる楽しみでもあり、大人になったしるしというか、一種の「通過儀礼」とも言えるのだ。
それに、この村では女性だって大変なのだ。
祭りのお弁当作り(重箱に何段重ね!)に徹夜するぐらいの勢いで、それを山(御輿の練り合わせがあるところ)の桟敷席で広げてみなで食べるのだが、そこが女の腕の見せ所というぐらいに、気合いが入っている!
どこの家でも、こんなごちそうは今まで食べたことが無いぐらいというぐらいの豪華さで、そのために昔は祭りの頃には姫路の街中でも物価が上がったと言われていたぐらいなのだ。
だからからだろうか、ともかく姫路には今でも美味しい食べ物が多い。
特にこの白浜町一帯には、今でも古いお店やお風呂屋さんなどがそのまま残っていたり、旨いものもたくさん揃っていると思う。
そして我が家だけでなく、よそもみんな「家族揃って舌が肥えていた」気がする。
それに、みんな舌だけでは無く、口もよく動き、「批評精神」や、他と比較分析する鋭さも合わせ持っていたので、容赦無い言葉が飛び交い、(お世辞抜きで)お互いに鍛えられたのかもしれない。
料理はともかく、果物だけでも、この季節はちょうど美味しい盛りなので、柿、梨、ぶどう、栗、林檎、みかん等々、、と食べ切れないぐらいだったことを思い出す。
その山の上の桟敷席というのは、毎年抽選で(今はどうか知らないが)、良い席が当たると、本当に喜んだものだった。抽選とは言っても一等席はやはり値段も相当高かったと思う。
けれどもこれが一年の一番のハイライトであるだけに、誰もこの祭りに関してはケチったりすることは決して無い。
寄付もそれぞれ各家ごとに「割当」があり、そのために、一年中倹約して、それに備えるのだが、そんなところにお嫁入りして来る人はさぞびっくりしたことと思う。
それでも、御輿を担ぐ男たちのカッコいいこと、力強いこと。
ほんとに惚れ惚れとして見直してしまうぐらいなので、この祭りとその若衆に憧れて、わざわざここに嫁ぎたいと願う若い女性も意外にいるらしい。
この屋台(御輿)というのは相当に重いものなので、みんなが息と力を合わせないと担げない。
このような凄い祭りが続いている限り、この地も、町も、日本もまだまだ大丈夫!という気がする。
ともかく、元気の出る祭りなので、ぜひ一生に一度は、本場で生の祭りを体験して欲しいと思う。
そのついでにちょっぴり自慢させてもらうと、その松原八幡宮の拝殿前の両脇に鎮座する「狛犬」は、実はうちのご先祖(石工だった祖父、そして父の兄)が彫ったものなのである。
もしもこのブログを読まれた方で、その近くへ行かれた際には、ぜひとも写メや動画で狛犬もツイートしていただけたら嬉しい!
亡父はこの村で生まれ育って80余年の一生をここで終えたので、秋祭りの頃になるといつも亡父を思い出す。
亡父は『心配せんでもわしの死ぬ日はもう決めてある』と、その生前、口癖のようによく言っていたが、ほんとに祭りの終わった翌日に死んだのだ。
最期は病院のテレビで祭りを見ていたが、祭りの終わりと共に静かに逝ったのである。
屋台が山から下りて、それぞれの村々に帰って来る頃になると、提灯のあかりが灯り、太鼓の音や囃子声と共にぞろぞろと人々がその後を従いて歩き、また、家の中から外に出て名残を惜しんで屋台を見送るあちこちの人たちの後ろ姿が、夕暮れの風景と共に思い出される。
亡父も私もその何とも言えない風情と、全ての祭りが終わったあとの余情が何よりも好きだった。
家の角に立って黙って屋台を見送りながら、「今年も祭りが終わったなぁ~」という、さみしさとも安堵ともつかぬ、深い感慨に浸ったものだった。
その頃の村の人々はみんなそんなふうに「祭りと一体化」していたのである。
私ももうすっかり忘れていたと思っていたのに、何と、2、3日前の夜、突然に大きな声で「ヨーイヤサ」と寝言を叫んだので、我ながらびっくり!してしまった。
私の中に、こんなにも深く、灘祭りの影響が今なお消えずに遺っていたとは!!!
「三つ子の魂百まで」とよく言われるが、祭太鼓の音と共に、還暦を過ぎて益々その傾向は深まるばかりだ。
2013年の今年もいよいよ明日(10月15日)が本番クライマックス!だ。
大河ドラマになる予定の「黒田官兵衛」とも所縁のあるところなので、この秋は例年以上にきっと凄い人出に違いない。
その八幡さん(と、子供の頃は呼んでいた)のすぐ横は小学校になっていて、ユーチューブで祭りの動画を見ると一緒に写り込んでいることも多くて、懐かしい。
今は鉄筋コンクリートの「白浜」小学校だが、私が通っていた頃は木造で、名称が「粟生」小学校だった。
粟(あわ)が生まれると書いて、確か「ぞくせい」と呼んでいたと思う。
その頃は学校の校庭のすぐ前は松林になっていて、そのすぐ先はもう海だったから、その砂浜と校庭が地続きになっていて、そこで飯ごう炊飯やキャンプのまねごとも出来たし、運動場の草抜きなどもした覚えがあるので、その頃の校庭は全部草地になっていた気がする。
話が横道に逸れたが、ともかく、この八幡さんで行われる「けんか祭り」というのが、もう村挙げての一大行事で、正月よりももっとずっとワクワクしたものだった。
今でも仕事で海外にいる人でさえも、この祭りの時には戻って来るというぐらい、地元の人間にとっては、これがもう「生き甲斐」にすらなっているのだ。
幼い頃は朝起きると、(この祭りのときだけは特別に)まず「朝風呂」に入り、上から下まで、肌着はもちろん、足袋まで、何から何まで新調で「着物」に着替えるので、子供心にも気持ちがあらたまったものだった。
(少し大きくなって着物では無く洋服を着るようになっても、やはりこの習慣は続いていた気がする)
そういうわけで、(私もここで生まれ育った者の一人として)大体学校は13日から3日間は休みになっていたが、そのずっと前から村のどこを歩いていても、家の中に居ても、学校でも、あちこちから聞こえてくる太鼓の音に、身も心もウキウキしたものだ。
いや、もう、とてもウキウキという言葉では軽過ぎて、うまく言い表せないぐらい、何と言うか、血が騒ぐというか、血湧き肉踊るというか、小さな女の子だった私でさえももう居ても立っても居られないぐらい、気持ちが弾んだものである。
私はもう地元を離れてからの年月の方がずっと長いぐらいの年齢になってしまったが、村を離れるまでは、毎年必ず見ていたこの秋祭り。
亡父の祥月命日(16日)が近づき、なぜか突然にふるさとの祭りのことをブログに書きたくなってしまった。
祭りと言えばこの祭り以外に無いというか、他の祭りは「そんなの祭りじゃないよ」と思えてしまうぐらいに、この祭りだけは自慢出来る。
こんなふうに書いても、とてもこの熱気と迫力は伝わらないと思うので、ぜひとも一度現場を見て欲しい。
その前にちょっと今夜、このブログを読んだ人は「灘のけんか祭り」で検索して、ユーチューブで動画を見てみられると、いかに凄いかが少しは想像が付くかも?
兵庫県と姫路市から「重要無形民俗文化財」に指定されているそうだが、さもありなんと思う。
旧七ヶ村の屋台(御輿)の中で、やっぱり一番好きなのは自分の村(宇佐崎)の屋台で、黄色い「しで」や、屋台のてっぺんの飾りぎぼうし、法被の模様、ありとあらゆるものが他所よりもいいと思えるから不思議だ。
屋台の「練り合わせ」でも自分のところが一番うまかった!と思いたいが、それは「ひいき」であって、実際はみんなの目が見て知っているので、祭りが終わると、村中で、「今年はどこそこがよかった」とか、うわさや評判が駆け巡り、その話をしたり、聞いたりするのも、子供心にもとても楽しいものだった。
(その頃は、屋台や御輿と呼ぶよりも、「ヤッサ」と呼んでいたと覚えているのだが、今ではそれもおぼろな記憶になってしまった)
それぞれの村には屋台を仕舞う屋台庫(蔵)があり、そこに屋台が仕舞われる時や、また出される時なども、様子を見に行ったり、「寄り合い」と言えば祭りに関する話のことで、もう、「一年中が祭りで明け暮れる」といっても決して過言では無いぐらい、もうこの村に生まれ育った者は誰でも、そして男の子などは特に、「屋台を担げるようになる」のが何よりの楽しみで、それが大人になる楽しみでもあり、大人になったしるしというか、一種の「通過儀礼」とも言えるのだ。
それに、この村では女性だって大変なのだ。
祭りのお弁当作り(重箱に何段重ね!)に徹夜するぐらいの勢いで、それを山(御輿の練り合わせがあるところ)の桟敷席で広げてみなで食べるのだが、そこが女の腕の見せ所というぐらいに、気合いが入っている!
どこの家でも、こんなごちそうは今まで食べたことが無いぐらいというぐらいの豪華さで、そのために昔は祭りの頃には姫路の街中でも物価が上がったと言われていたぐらいなのだ。
だからからだろうか、ともかく姫路には今でも美味しい食べ物が多い。
特にこの白浜町一帯には、今でも古いお店やお風呂屋さんなどがそのまま残っていたり、旨いものもたくさん揃っていると思う。
そして我が家だけでなく、よそもみんな「家族揃って舌が肥えていた」気がする。
それに、みんな舌だけでは無く、口もよく動き、「批評精神」や、他と比較分析する鋭さも合わせ持っていたので、容赦無い言葉が飛び交い、(お世辞抜きで)お互いに鍛えられたのかもしれない。
料理はともかく、果物だけでも、この季節はちょうど美味しい盛りなので、柿、梨、ぶどう、栗、林檎、みかん等々、、と食べ切れないぐらいだったことを思い出す。
その山の上の桟敷席というのは、毎年抽選で(今はどうか知らないが)、良い席が当たると、本当に喜んだものだった。抽選とは言っても一等席はやはり値段も相当高かったと思う。
けれどもこれが一年の一番のハイライトであるだけに、誰もこの祭りに関してはケチったりすることは決して無い。
寄付もそれぞれ各家ごとに「割当」があり、そのために、一年中倹約して、それに備えるのだが、そんなところにお嫁入りして来る人はさぞびっくりしたことと思う。
それでも、御輿を担ぐ男たちのカッコいいこと、力強いこと。
ほんとに惚れ惚れとして見直してしまうぐらいなので、この祭りとその若衆に憧れて、わざわざここに嫁ぎたいと願う若い女性も意外にいるらしい。
この屋台(御輿)というのは相当に重いものなので、みんなが息と力を合わせないと担げない。
このような凄い祭りが続いている限り、この地も、町も、日本もまだまだ大丈夫!という気がする。
ともかく、元気の出る祭りなので、ぜひ一生に一度は、本場で生の祭りを体験して欲しいと思う。
そのついでにちょっぴり自慢させてもらうと、その松原八幡宮の拝殿前の両脇に鎮座する「狛犬」は、実はうちのご先祖(石工だった祖父、そして父の兄)が彫ったものなのである。
もしもこのブログを読まれた方で、その近くへ行かれた際には、ぜひとも写メや動画で狛犬もツイートしていただけたら嬉しい!
亡父はこの村で生まれ育って80余年の一生をここで終えたので、秋祭りの頃になるといつも亡父を思い出す。
亡父は『心配せんでもわしの死ぬ日はもう決めてある』と、その生前、口癖のようによく言っていたが、ほんとに祭りの終わった翌日に死んだのだ。
最期は病院のテレビで祭りを見ていたが、祭りの終わりと共に静かに逝ったのである。
屋台が山から下りて、それぞれの村々に帰って来る頃になると、提灯のあかりが灯り、太鼓の音や囃子声と共にぞろぞろと人々がその後を従いて歩き、また、家の中から外に出て名残を惜しんで屋台を見送るあちこちの人たちの後ろ姿が、夕暮れの風景と共に思い出される。
亡父も私もその何とも言えない風情と、全ての祭りが終わったあとの余情が何よりも好きだった。
家の角に立って黙って屋台を見送りながら、「今年も祭りが終わったなぁ~」という、さみしさとも安堵ともつかぬ、深い感慨に浸ったものだった。
その頃の村の人々はみんなそんなふうに「祭りと一体化」していたのである。
私ももうすっかり忘れていたと思っていたのに、何と、2、3日前の夜、突然に大きな声で「ヨーイヤサ」と寝言を叫んだので、我ながらびっくり!してしまった。
私の中に、こんなにも深く、灘祭りの影響が今なお消えずに遺っていたとは!!!
「三つ子の魂百まで」とよく言われるが、祭太鼓の音と共に、還暦を過ぎて益々その傾向は深まるばかりだ。