読経を聞きながら考えたこと。
細胞の一つ一つから命が消えてモノとなった肉体に、もはや魂は存在していない。
命とともに魂も消える。
しかし生前に接触した命たちの中に、個人の魂は生きていく。
<魂は永遠>ということは、そういく伝わりではないだろうか。
「私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって吹き抜けています (後略)」
(南風椎『1000の風』)
式に合わせて合掌した手に故人のぬくもりを感じ、この詩の意味をやっと理解した気がする。
葬儀や法事は、私には、故人の想い出をかきたて、
伝えられた魂を自分のうちにあらためて生かしていく場。
お骨も、お骨をおさめる墓も、宗教のためのものではなく、故人を想うモノ。
ともに故人をしのぶ場であれば葬儀の形はどうでもいい。
細胞の一つ一つから命が消えてモノとなった肉体に、もはや魂は存在していない。
命とともに魂も消える。
しかし生前に接触した命たちの中に、個人の魂は生きていく。
<魂は永遠>ということは、そういく伝わりではないだろうか。
「私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって吹き抜けています (後略)」
(南風椎『1000の風』)
式に合わせて合掌した手に故人のぬくもりを感じ、この詩の意味をやっと理解した気がする。
葬儀や法事は、私には、故人の想い出をかきたて、
伝えられた魂を自分のうちにあらためて生かしていく場。
お骨も、お骨をおさめる墓も、宗教のためのものではなく、故人を想うモノ。
ともに故人をしのぶ場であれば葬儀の形はどうでもいい。
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