たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

真田家、大坂夏の陣の後 <松代藩領での山争いと真田家の裁判と顛末>を読みながら

2018-08-02 | 農林業のあり方

180802 真田家、大坂夏の陣の後 <松代藩領での山争いと真田家の裁判と顛末>を読みながら

 

今日は暑かったです。奈良県大和郡山市まで成年後見事件の自宅調査のため出かけてきました。先日京奈和道(まだ正式に高速道路として供用開始されていませんので、この名前を使います)に入ってまもなく、交通事故トラブルに巻き込まれました。なんと今日も、今度は反対方向で交通事故で交通規制がかかっていました。単独事故のようで、通り抜けができたので、10分くらいの遅れで済みました。それでもやはりこういうときは日差しが強く感じます。

 

仕事が終わって、すぐそばの県立民族博物館に立ち寄りました。がらんとしていて数人の見物客がいる程度で、私が入るときはだれもいなかったので消灯していました。むろんエアコンも残り火のような感じでした。この民博の特徴を聞こうとしたら、学芸員の方を呼び出し、30分あまり少々暑い中をいろいろ解説していただき少し勉強になりました。展示物は近世から近代のものですが、中世に遡りながら説明いただき、都市近郊農業として換金作物である綿作、大豆、菜種などともに、一年を通して田畑を有効活用してきたことを力説されていました。

 

展示している各種農機具から林業道具の多様さは参考になりました。それにしても暑かったです。文化財の保存に繊細な注意を要する橿原考古学研究所付属博物館のようなところとは全然異なるものの、庶民の生活を演出する民博らしさを感じさせてくれました。

 

ちょっとアクシデントがあり、以前から気になっていた渡辺尚志著『百姓たちの山争い裁判』の松代藩で起こった山争いをめぐる裁判の部分を読むことにしました。

 

松代藩は、大坂夏の陣でその戦上手を天下に轟かせた真田信繁(幸村)の兄・真田信之が7年後でしたか、本拠の上田藩主から大出世してその藩主となり、その後1871年まで約250年平穏に治政を行ったわけですから、地味ではありますが、治政においては幸村以上の才覚があったのではないかと思われます。

 

とはいえ、そこで勃発した山争い、ま、幕末期ですので、真田の治政も緩んでいたという見方もあるかもしれませんが、ここの裁判を取り上げるのは、渡辺氏によると、松代藩の記録がしっかりしていて残っているとのことで、そういう点でも兄信之の底力みたいなものと感じます。

 

なぜこの山争いをとりあげるかというと、最近、山林境界が不明とか、所有者不明とかといったことが、とくに山林について問題となっていますが、その背景の一つをこの山争いの中で感じたからです。

 

山争いが百姓の間で熾烈であったことは、よく言われることですね。小説だと有吉佐和子著『助左衛門四代記』が村同士の戦闘的な争いが見事に描かれていると思います。当地橋本でも「草刈り権」という形でいくつもの村が争い、代官や地域の名主などで和解的解決を下している例があります。そうですわが国にも権利意識がしっかりあって、草刈り権なるものを標榜したかどうか文献上確認できていませんが、少なくともどの村にどの山の草を刈る権利みたいなものがあるかを細かく決めたのですから、すごいですね。

 

でも山争いといっても、境界そのものをどのように決めるかとか、境界そのものを争うという形の紛争は顕在化していなかったのではないかと、渡辺氏の著作や他の文献を見ていても思うのです。一山いくらではないですが、A山はどこの村が村有するとか、個人が所持するとか、あるいは入会の村々が共同利用するといった、利用・所持形態を反映して問題を扱っています。

 

つまり、地租改正で初めて、一筆ごとに区画を定め、だれが所有者かを定め、その評価とともに課税することになって初めて、一筆ごとの境界が問題になったわけだと思うのです。それまでのさまざまな検地制度では、結局年貢は村請ですので、個別の一筆の区画や境界があまり神経質に決められていなかったと言って良いと思います。

 

江戸時代までの絵図をみても、そのような一筆を区画するようなものは見当たりません。年貢の基本である田畑でそうですから、山林となると入会利用が通常であったこともあり、山全体を、地形や林相などで、おおよその区画、境界をさだめていたかもしれませんが、現代の土地境界に役立つような技術も知恵の蓄積もあまりなかったように思います。

 

その証拠が、有能な真田家が統治している松代藩領で起こった山争いの解決の仕方でしょうか。

 

これは文化10年(1813年)から文政2年(1819年)にかけて起こった山の権益をめぐる長い紛争です。

 

当初は、幕府領の5村、松代藩領の4村に、須坂藩領の2村の11か村の3つの山が入会山であるとの主張を基に、幕府領4村が、山元である松代藩領の仙仁村に、勝手に入会山で耕作している、一部を単独の村持山にしている、といった抗議をしたことから勃発したのです。

 

最初は、仙仁村と幕府領4村との争いであったのが、前者は訴訟費用の関係で前者が闘うの避けようとしつつ、2カ所の山が争点であることが分かると、同村の名主等の個人所持として争うことにして、さらに藩領の減少を危惧する代官所や郡奉行を味方にして、松代藩が指揮して、3つの山を仙仁村の山として、その代わり炭焼きを禁止にして、翌年に和解が成立しました。

 

ここではなにが根拠かが示されていません。なぜ幕府領4村はじめ他の入会村が和解を受け入れたのかは明らかではないですが、紛争は松代藩、仙仁村、個人所持を主張していた名主等2人の争いとなりました。

 

仙仁村の百姓は、炭焼きが禁止されたのに、炭を納めていた年貢に変わって貨幣で納めることを求められましたので、不満です。自分の持山を主張した2人も自分の山がなくなるわけですから不満爆発です。で、18162人は目付役所に駆込訴を決行したのですが、彼らは主張の根拠を示すことができず、他方で、村側も村持ちの根拠を示すことができない中で、1818年には藩は2人の主張を認めず、むしろ不正行為があったなどの理由で過料金30両を課し、3カ所の山のうち1山だけ所持を認めて、飴と鞭の策を講じて判決を下したのです。その後いろいろ顛末(2人は江戸幕府に越訴しました)があるのですが、判決の審理、その執行もあいまいです。

 

こんな形の裁判でも、村社会、寺請制度などもあって、結局は、事なきを得てそれなりの解決に至っています。結局、近代的な裁判制度とはほど遠い審理というか、意識であったり、技術であったように思うのです。

 

それで平穏で公正さを意識できればいいのですが、さて、現代の山林境界や山林所有をめぐる争いは、より合理的かつ効果的な解決策を見いだしているのでしょうか。いつか検討して取り上げてみたいと思います。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。